2019年9月1日日曜日

書くことと精神分析 推敲 6


論文執筆に話を戻すが、学術論文を書く際に、私たちは読んだ面白さはおよそ眼中にはない。それは何よりも学術的な価値を追求するべきものであり、そこに着想の独創性、理論的な整合性、そして必要十分な先行研究の記述などが求められよう。もちろんそれを読んだ同業者が知的な刺激を受け、面白いと感じてくれるのであればそれに越したことはないものの、それは学術的な価値の高さに付随するものでしかない。
それでは学術論文の著者は、それを執筆することに面白さを感じるのだろうか。それはその論文の性質上必然的に喜びを伴っているはずである。これまで誰も思いつかなかったことを発見したという思いを抱き、いち早く文章にしよう、という活動が喜びを伴わないわけはない。先ほどのペレリマンの論文の例を考えてみよう。彼が数学の専門家の中でも数人しか理解できないような、という事は全世界で数人しか理解できないような理論を発表した際に、「沢山の人に面白いと思ってほしい」とは微塵も思っていないはずだ。ただ自分の発見した真理をしたためたい、それだけだったのだろう。その意味では彼は読まれることを特に望んでいなかったとも言える。事実彼は特に著書は書いていないようであるし、そもそも自分の説を公表しようとする意図も希薄だったらしい。「自分の証明が正しければ賞は必要ない」として数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞の受賞を辞退したという。これは前代未聞のことだというが、その気持ちも私は少しだけわかる気がする。
私がここで言いたいことは次のことである。書くという作業は、少なくとも私にとってはそこに独創性が発揮されていると感じるときに楽しさを伴う。もしすでに知られていることを面白おかしく、しかも読みやすいように書くことには楽しさを感じないのである。しかも私の本職は医師であり、売れるような本を書くことで入るであろう印税を当てにする必要はない。私が売れることのない本を確信犯的に書くとしたら、それはもともと書くという作業に伴う喜びが、学術論文に関するそれではあっても、売れる本を書くことの喜びではないということだ。
 もちろん学術論文が著作として成立するという可能性はある。論文集、アンソロジーというジャンルが立派にあるのだ。すでに述べた博士論文はむしろそのような部類に属するかもしれない。だから博士論文をいかに書くかという事を論じていた際、実はこの「一般の読者にとっては読んでもつまらない」論文集としての著作のことを論じていたことになる。そして事実博論が著書になったものは、たいていは絶望的なまでに読みにくく、一般の読者はなかなか手に取らないのである。(博士論文は大抵はとても読みにくく、理解するのに骨が折れる。)
ただしそうは言ってももちろん「売れる」論文集はある。それはその著者の評価がすでに定まっていて、読む人間がその読みにくさを高尚さ、自分の読む力がまだ足りないことの証明と感じつつ、それこそ勉学のつもりで読んでいく本だ。いかにヘーゲルの「精神現象学」が難しくても、ラカンの「エクリ」が意味不明でも、それを押して読むのはヘーゲルやラカンが偉大だという評価がすでに確定しているからである。もし無名の学者が同じような内容の本を自費出版でもしたとして、一般の読者が買う可能性はゼロに近いだろう。もし店頭に並んだその本を手にして23行読んだ文章が頭に入ってこないとしても、読者はその分からなさを、自分の理解力の不足とは考えず、著者の論述の意味不明さや文章の未熟さと決めつけて、それ以上余計なエネルギーを注ごうとは思わないだろう。
そこで独創性を盛り込んだ著書を書き、それをある程度売ろうと考えることがいかに難しいかという事になる。私はこれを書きながら、自分の本が売れて欲しいと願うことがいかに理不尽だったのかという事を痛感している。著書を発表できるというただそれだけでもいかに幸運かという事をかみしめなくてはならない。そしてもう私たちの世代は、独創的で面白くない著作を世に送り出すことが出来ないという宿命を一気に打破する手段に恵まれていることを心から感謝しなくてはならないと思う。それがネット出版である。
ネット出版に関しては私自身の体験も含めて語ってみたい。かつてアメリカの知人が素人ながら哲学的な文章を執筆していた。彼は黙々と書き溜めたその内容を、出版するという。そんなことは出来るのかと思ったが、彼はアマゾンを通してそれを無料で自費出版したという。米国ではそのような積極的な方が結構いらっしゃるようである。そのことが私の興味を引いた。私には英語の著書はないが、日本語の著書はあるので、そのうちの一冊をざっと英訳して(何年も前にこのブログでも連載したからご存知の方もいるだろう。半年ほど毎日英語の文章を書いていた、アレである)。私はごく単純に、日本語で書いた本を英語に自分で翻訳したらモノになるのかが知りたかったのだ。作業はさほど苦痛でもなく、むしろ楽しかったくらいだ。ただしもちろん英語に直した後にネイティブチェックが必要であり、それにかなり費用をかけることとなった。まあ必要経費だから仕方ない。(ネイティブチェックとは、英語を母国語としない人の文章を、ネイティブスピーカーに校正してもらうことである。) そしてさっそく米国の出版社に売り込んだのだが、案の定ことごとくボツである。もちろんその事情はよくわかる。日本の専門書の出版社に出版の経歴のない人間が原稿を持ち込んでも、門前払いを食らうのがふつうである。それが解離関連の本なので、何人かの専門家に送ったが・・・・・。全く反応なし…であった。そこでアマゾンを通してE出版を試みると、あっさりできてしまった。今でも私の名前を入れるとその本が出てきて、数ドルでキンドル版をダウンロードできる。しかしどれだけ読まれたかは調べようもない。