2015年9月4日金曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 24/50)

まったく不本意な章である。誰か加筆していただければ、大歓迎である。

第13章 美人の自己愛
美人であることのナルシンズム。これが存在しないわけがない。ここでは「美人」として女性を対象にするが、見た目が美しいことにより彼女たちが持ち得る特権は、おそらく計り知れないだろう。私は女性を美醜で差別するもりはなく、むしろそれには明確な反対の意を唱えるという意図のもとに主張したいのだが、たとえばマスメデイアで「美人」を優遇する傾向はあまりに露骨すぎはしないだろうか? ドラマの出演者も、ニユースキャスターもお天気お姉さんも、各局は競って美形を揃えている。あるいは週刊雑誌の表紙をかざる女性の顔かたちはどうだろう? 美形に一定の数値、たとえば偏差値が当てはまるとしたら、おそらく70以上は必要ということにもなるのだろう。「週刊なんとか」の表紙に、ごく平均的な女子大生か掲載されたら、これは一種の事件扱いされてもおかしくないだろう。(実はその女子大生が、芸能人の子供だったりすることが分かると、世間はたちまち「フーン」となるのだろうが。
 ここで特に70という数字に意味はない。ただ試験などで偏差値70、と聞くと「スゴーい」、という印象があるからだ。数学的に行ったら、2標準偏差以上の偏りがあるということ。するとざっと100人に、1,2人の美人。偏差値で80になると、ざっと1000人に一人。しかし考えてみると応募者一万人から選ばれたミス何とかが、見た目もフツーのお嬢さんだったりする。ということはタレントとして登場する女性たちはおそらくよっぽど選ばれた人たちなのだ。
美人がメデイアに登場する最も明白な理由は、それが雑誌の購売数やテレビの視聴率に反映するからだろう。それ以外に業界が高いギャラを払い、人気美人モデルを起用する理由はあり得ない。ではどうして美人が購売意欲や、視聴意欲を高めるのかと言えば、身もフタもないことを言ってしまえば、美人を見るとイイ気持ちになるからだ。それか人の報酬系を刺激し、心地よくするから、ということに尽きるだろう。ここで報酬系とは、ある刺激が脳の中でそこの部分が刺激されると快感を催し、それをそのような刺激を追い求めるようになるような部分だ。美形がこの報酬系を刺激するという研究は実際にある。(Aharon,I et al. :Beautiful Faces Have Variable Reward Effect. fMRI and Behavioral effect. Neuron 32: 537-551、2001)
あるハーバード大学の学術的な調査によれば、fMRIを用いて検査をすると、男性が「美人」と感じた女性の写真を見ている時には、明らかに報酬系の一部の側坐核が興奮していることか示されているという。
 この事実が端的に物語つているのは、美人は笑いかけることで、多くの男性に、そしておそらく女性のかなりの部分にも心地好さを提供するという、素敵な能力を備えているということなのである。美人とは、きれいな一輪の花のように、人を幸せにする存在なのだ。
 私はこれ自体はこの上なくすばらしいことだと思うのだが、ひとつの重要な問題がここに生じる。それは言うまでもなく格差である。一部の恵まれた人のみが美人としての恩恵に浴する。もちろん美人の基準が人により異なることも確かであり、また美人が体験するのは決して有難いことばかりではない。それでも格差は厳然としてあるだろう。
 ところで美人は自分か美人である、ということを自覚しているだろうか? 実は私は「美人ですね」と言われた女性が「はい」と答えた状況に、一度たりとも出くわしたことかない。例えば「スタイルがいいですね」とか「目が大きいですね」程度のコメントには「そうですか?」程度に答えることもある女性でも、「美人ですね」は、決してそのまま受けることが出来ないものなのだ。それほどに、自らを美しいと自覚することを表明することには様々な制限が自らによって加えられているのだ。そしてそれだけ「美人であること」は彼女たちにとっていかに強烈な自己愛の満足をもたらしているかを示しているのではないだろうか? (ちなみに今のは日本人の女性の話である。欧米人に「あなたは美しい」というと、十中八九、「Oh, thank you! (あーら、ありがとう!)」となる。ほぼ間違いない。)
しかし美人が心のうちで、それを自覚しているか、という話になると・・・・もちろんそうだろう。自覚していないわけがない。ある魅力的な中年の女性が、若いころのことを思い出して言っていた。「20代のころは、少し露出を多くしただけで、男性の目をシャワーのように浴びたわ。」「完全に自分の魅力を意識し、男性を思いのままに操っているという感じがした。」
 しかし同時に私が不思議に感じるのは、どう見ても魅力的と感じるにもかかわらず、全くそれを自覚しない、あるいはそれが信じられない、という人も多いということである。一方では美人と見られているという自覚があり、そのために男性たちが自分に注目しているということを認識している。しかしそれだからこそ申し訳ないと思ったり、後ろめたさを感じたりする。自分自身についての自信に決定的に欠け、それが誇らしさや自己愛の満足に全くつながっていない場合もまた多いのである。
 美人のナルシシストの典型的なライフコースについて書こう。
美人の素質はおそらく幼少時には明らかである。生後すぐの赤ちゃんの顔は通常は皺くちゃで、その整い具合を判断しがたい。蛹から羽化したばかりの、羽がクシャクシャなままの蝶のようなものだ。しかし生後一二カ月ですでに、将来の顔かたちをある程度まで占うことができる。
 彼女は3歳頃になるとかなりはっきりとした顔立ちになり、「将来は美人さんだね」などと周囲の大人から言われたりする。もちろん本人には深い意味は理解できないが、何か自分が特別のものを与えられているのではないか、という満足感を伴った想像が芽生えてもおかしくない。美人のナルシシズムの萌芽である。
 小学校に入る前から、おそらくは幼稚園の頃から、将来の美人はその顔立ちのために、男の子たちの特別の注目を浴びるようになっている。ただし小学校時代の美人さんたちはその振る舞いの優雅さや運動能力もコミで評価されることが多い。顔立ちが整っていても、極端に引っ込み思案だったり、性格が暗かったり運動能力に難があったりすると、美人の要素はそれとしてはあまり引き立たないこともある。それに何といっても子供である。美少女といってもまだ鼻梁は低く、幼児顔貌であり、インパクトは少ない。
運動能力も比較的優れ、ふるまいに優雅さや知性のきらめきを備えた美少女は、小学校も高学年になると特別の存在感を放ち始める。 彼女たちが特別にその振る舞いが優雅である必然性はないが、美人であることは、その振る舞いや声をひときわ美しいものに際立たせる可能性がある。そしてそのことを彼女たちもおそらく既によく自覚している。わずかではあるが、「私は特別よ」オーラを既に出し始めている少女もいるだろう。クラスの悪戯な男子がその美少女の前に出ると、へどもどしたり急にぎこちない表情になり、「〇〇ちゃんを好きなんだ」という噂が立ったりする。クラスの中の美少女ランキングなどという不躾な順位付けが行われて、自分がいつもトップに選ばれることを美少女はどこかで承知している。
 ただしその少女たちが自分が美人であるという事実に甘んじているかどうかはわからない。多くの少女たちはそれを自己愛的な満足体験としているかもしれないが、別の少女はそれをむしろ疎ましく、あるいは後ろめたく感じている可能性がある。
小学生時代の美少女の一部は、それから受難の時期を迎える。第二次成長期を迎えて、実は顔立ちに大きな変化がある。上額、下顎などの顔面を構成する骨の何が特にスパートをかけて来るかわからない。すべてが均等に成長すると美少女は本格的な美人になっていく。ハリーぽたーに登場したエマ・ワトソンのように。しかし一歩間違うと、思春期を経た美少女はすでに美少女ではなくなっている。それとは逆に、美少女という認識は周囲に与えなかったような少女が急に大人びて美女に変身するという場合もある。あれだけ人気があって、チヤホヤされ、女王様のように振る舞っていた彼女が、一番多感な思春期に差し掛かってその地位から突然陥落したことを自覚した時の気持ちはどうだったろう。
ということで美人のナルシシズムについて書きながら、私はむしろ彼女たちに同情的である。美人がナルシシズムに浸っていいではないか。私は彼女たちの味方である。美人にはナルシシズムに浸る権利がある。人を心地よくしてくれる力を持っているのだから。
それに美人として世間から認められ、扱われる期間は決して長くはない。早晩普通の人になっていく。あるいはかつての美人だった人、という扱いを受ける。「まだお美しいですね」というような言い方をされる。その意味ではこれは「お若いですね」と言われるのと似ている。あくまでも期間が限られ、得意になれる期間はすぐに去ってしまう、と言う事を本人も周囲も理解している。その間は大目に見てあげればいいのではないか?
美人のナルがナルでいられる期間は短い。若い盛りをあっという間に通過した美人たちはそれから受難の時期に入る。自信の根拠になっていた顔に様々な変化が生じる。ふと気がつくと小皺や小さなシミが・・・・。マイクロスコープ(PCで用いる一種の実体顕微鏡)で自分の肌を見慣れている人は(そんな人はめったにいないかもしれないが)肌の微細なきめそのものが変化しつつあることに気が付く。それまで素のままで美しかった顔に様々な「不都合な変化」が生じ、化粧による「補正」が必要になってくる。これまでは美しさを引き立て、強調するために用いていたファンデーションが、「現状復帰」のために用いられるようになる。
  おそらく20歳代に突入した時点で、美人たちは現在の自分の写真を見ることが苦痛になってくる。確かに化粧栄えはするようになっているかもしれない。幼児時期の皮下脂肪が徐々に消えていく過程で顔の輪郭がよりハッキリして、美人が美人らしくなるのもこの時期かもしれない。しかしそれも20歳代前半までと見たほうがよい。それ以降は確実に「劣化」(嫌な言葉だ)の一途となる。ともかくも短かった美人ナルの時期はもうカウントダウンに入ってしまっている。
 20歳代の美人達には、すぐ後ろに10代の美少女という強敵が迫っていることを、そしておそらく自分が彼女たちには決して勝ち目がないことを知っている。10代の頃の屈託なく、「これからいくらでも綺麗になれる」という自信を持っていたことをまだ覚えているので、自分が追われる立場になっていることもよくわかる。結局美人のナルは、それに浸る余裕も十分にないままにつらい守りの時期に入っていく。ふと小学生の女子の群れを見ると、彼女たちも実は次の次の世代のライバルであることに気がつく。
 ところで余談であるが、本当に不思議なのが、化粧、ということだ。何しろ顔に対するちょっとした加工(化粧のことである)を施すことで、印象はまったく違ってくるからだ。いったいどちらが彼女の本当の顔だというのだ。私がこのことがわからなくなったのは、精神科医としての仕事を始めてからだから、はるか昔ということになる。来談にこられる方は、時に非常に体調を崩し、ようやくのことで外来に訪れるといった方もおられる。うつのつらい時期など、もはや化粧をしている余裕もなくなってくるだろう。すると普段とはまったく趣の違う感じで、時には誰だか一瞬わからない姿でいらっしゃる。私は不覚にもこう思ったのだ。「ああ、今日の彼女はいつもの、本来の彼女ではないのだ。」 でもこのとき私はすでに誤解を始めている。化粧をしていない彼女たちこそ本来の彼女ではないか?「いつもの目のパッチリとして肌のつるつるしたAさんこそが、本来の、普通のAさんなんだ」という私の認識こそが誤認なわけであるが、それがどんどん普通になっていく。
 そして私にとってもっとわからないのは、美容整形である。ネットなどでタレントの見慣れた顔の横に、高校の卒業アルバムに映った写真が並べられるのを見かける。するとごく自然にデビュー前の高校の頃の写真を「まだタレントBさんになっていない(すなわち本当のBさんじゃない)頃だな」などと勝手に解釈するのだが、これも明らかな誤認なのだ。そしてAさんもBさんも、化粧をした、整形を施した顔が「本当は自分ではない、偽りの自分である」ことを知っているのだ。しかしそれでも彼女たちは二次的に獲得した美によるナルシシズムを放棄しようとはしない。ただ一抹の後ろめたさはあるのだろう。
 結局美人のナルは、ごく一部の恵まれた人々が、限られた期間と状況において置かれる状況である。それは一過性であり、常に失われることの予期を含んだ状態である。才能や業績や名声といったそれ自体に当分は安住できるような要素を欠いた、いつそれが奪われてしまうかもわからない(というよりも現在のこの瞬間にも刻々と蚕食されている)自分の容姿のみが頼りの、きわめて不安定なナルシシズム。それが美人のナルシシズムの特徴といえるかもしれない。
さて最後に美人のナルの「余生」である。余生などと失礼な言い方をしたが、自己の美に対するナルシシズムがその人を支えている場合には、すでに自分の姿をさらす事が出来なくなった時点からの人生は、それ以前とは明らかに異質のものとなるであろう。
このテーマで思い出されるのが、戦前の大女優原節子である。原は「永遠の処女」とまでうたわれ、その美貌や清楚なイメージが多くのファンの心を掴んだ。しかし42歳での引退後は決して公式の場に姿を見せなくなった。その原も現在では91歳になるという。鎌倉市内の親戚宅でひっそり暮らしているというが、ファンが訪れても頑として会わないという。
もちろん原節子のケースを自己愛と結びつけることは出来ないという見解もあろう。彼女の場合は1953年の映画撮影中に、カメラマンであった実兄が不慮の死を遂げ、それを原自身が目にしたことがトラウマになったという説もある。しかしたとえそうであっても、原が自分の姿を世間にさらさないというポリシーは、おそらく彼女自身の美しさのイメージに対する矜持や、それを決してくずさせまいとする強い意志を象徴していることには変わりないであろう。


2015年9月3日木曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 23/50)

第12章 高知能な自己愛者

高い知能を備えていることと、学校での成績が優秀であり結果的に高学歴を有する、ということは必ずしも一致しない。本来は高い知能を備えるということは、自分自身についての洞察も深く、自分の振る舞いや他者との関係性に対する自覚が優れ、それだけ余計な人との葛藤や軋轢を避け、より賢明に振る舞うことを可能にするだろう。つまり彼の知能は自分や他人の幸福をそれだけ増すことに貢献するはずだ。
 ところが実際にそうではない場合が多い。高い知能を備えているということがその人の自己愛を高め、他人を見下し、傲慢な振る舞いを生むということがある。つまり「高知能のナルシシスト」というわけだが、彼らはどうやって作られていくのだろうか?
まず高知能のために学校の成績が優秀であり、それがその人を自己愛的にするということは、充分ありうる。もちろん学校の成績と知能の高さは必ずしも一致しないが、通常はかなりの相関があることは確かめられている。
 皆さんも小学校中学校の頃を思い出されるといい。クラスで特別扱いされる存在であるためには、いくつかの条件があったはずである。一つは運動神経の良さ。体育の時間や運動会に抜群の能力を発揮する子の多くは、クラスの人気者だったはずだ。そしてもう一つは成績の良さ。小学校の低学年の頃はそれほど重要ではなった「成績」は、やがて受験をする年代が近付くにつれて大きな意味を持ってくる。
 たいがいどこの学校のどのクラスにも、この二つの要件をある程度は備え、つまり運動神経もよく、成績もそこそこ優秀という子がいて、クラスの花形だったりするものだ。そして運動はダメでも成績抜群という子も中にはいる。それまではクラスでも全然目立たなかった子が、小学校の高学年になり、急に大人びて、クラスで指された時に使う言葉も洗練され、成績も優秀で皆に一目置かれたりするようになるのだ。そのうち「出来過ぎクン」等のあだ名がついたりする。
その成績優秀な子は、おそらく多少なりともそれを意識し、鼻にかける傾向を持つであろう。そうして自己愛的な言動や振る舞いも出てくるはずだ。彼は優秀な成績を収めることが出来ることがいかに幸運で特権的なことかを、徐々に自覚していくことになる。そしてそれはある程度はやむを得ないことだ。
成績優秀な子は担任の先生にとっても、とてもありがたい存在だ。クラスから学年でトップの子が出ると、担任の教師もまんざらでもない気分のはずである。自然とその生徒を見る目や扱い方が違ってくる。そのことを周囲の生徒たちも敏感に察知する。そして教師にとっての特別な生徒としてのその子の自己愛は増していく。その子は学校という環境において、特に受験に力を注いでいる場合には、成績という二文字がいかに難しい扉をこじ開けてくれ、人からの羨望を集めるかということを学習する。それにより運動が苦手であるというハンディでさえディスカウントされ、さほど自分にとって不利に働かないということも知るのだ。
 しかし成績の優秀さは、実はそれほど人の自己愛に貢献しないのである。そこにはごく単純な理由がある。上には上がいくらでもいるということだ。たとえば田舎の中学で断トツの成績を修め、都会の進学校の高校を受験して合格する。その中学始まって以来の快挙で、町中の噂になり、その生徒の両親も鼻が高い。その生徒だって得意の絶頂であろうし、多少なりとも天狗にもなるだろう。
 しかし都会の進学高校には、結局そのような生徒が集まっているのである。それまでは学年で3番以下にはなったことがないという生徒が、初めての中間テストで、クラスで半分以下の成績を取り、愕然とする。たちまちのうちに天狗の鼻はへし折られ、茫然自失になる。それまで「勉強ができる」ということが唯一の誇りだった少年が、たちまちそれを奪われてどん底に叩き落される体験をするのである。
 彼はそれでもがんばって成績を向上させようとするだろう。自分が平均そこそこの成績しか取れないなんてありえない・・・・。そしてある程度はそれも効果があるかもしれない。しかし周りには同様のショックを受け、そこから立ち上がろうともがいている田舎の秀才はいくらでもいる。結局彼は二度と優等生というアイデンティティを勝ち取ることが出来ずに、そのうち学校に通う意欲が失われ、ぶつぶつ独り言を言うようになり、服装も乱れ、クラスでのおかしな言動が見られるようになる。そのうち幻聴が聞こえてきて、教室に姿を見せなくなった・・・・。(もちろん最初から発症する運命にはなっていたのだろうが。私みた実際の話である。)
 結局「成績優秀者」のナルは、その大部分が自然淘汰される、ということはお分かりだろうか。そのような人たちが集まる進学校に進み、そこで平凡な生徒になってしまう、という道を歩む運命にあるからだ。そして最終的に最高学府であるA大学に入ったとしても、そこには一位からビリまでいることになる。留年する生徒もたくさんいるだろう。そうするとそれまでのプライドを維持できる人は上位のほんのわずか、ということになる。「成績優秀」なナルシシストというのは、だから案外存在しがたいのではないか?町の人にインタビューをする。「あなたは自分が成績優秀だとおもいますか?」おそらく9割の人は「そう思いません」と答えるのではないか?たとえA大学の学生でも、そこで平凡の成績しか上げられないなら、自己価値も自然に下がっていくものだ。

周囲が馬鹿に見えてしまう
それでも高知能者のナルシシストは、少数だが存在する。トップのトップのひとにぎりだ。超「出来過ぎクン」というわけだ。彼らは特に努力をすることもなく、むしろ興味に惹かれて数学や物理の法則を吸収していく。特に理科系に強い彼らは、自然界に整然と存在していたり、テキストに数式として収められていたりする秩序をすばやくマスターしてしまう。努力や詰め込みという感覚はあまりない。自然に頭に入り、整理されていく。クラスメートが簡単な数式と格闘しているのがどうしてかさっぱりわからない。そのうち「自分の頭は違うんだ」という自覚が生まれる。
 彼らはそのうち、同様のやり方で社会のあり方や人間関係上の法則を見出すことができるような気がする。もちろん人間関係の在り方に法則などないが、彼らはごく単純なロジックやアフォリズム、自らの経験則をかなり強引にあてはめていく。社会の在り方や人の心や人間関係はいかような軸に沿っても切れるわけであるから、彼らの論法はそれなりに筋が通っていることも多い。こうして彼らは世界を「わかった」つもりになるのである。
 彼らは概して文科系の、あるいは単純記憶を必要とするような学科にはあまり興味を持たないかも知れないが、その優れた記憶力をもって暗記モノが必要な科目は無難にこなし、受験は難なくクリアーする。こうして試験と名の付くものには、絶対的な自信を持つことになるのだ。
 順調に仕上がった高知能なナルたちは、たいていは「一般人」に対する優越感を持つにいたる。彼らは数字にアレルギーを示したり、初歩の数学についていけなくなったり、話の少し込み入ったロジックを飲み込めない人たちを、自分とは別種の人間と見なすであろう。もちろん「一般人」に対してあからさまに差別の目を向けたりはしないが、「自分は別人種」という認識は常に持っている可能性がある。露骨な言い方をすれば、「周囲はバカに見えてしまう」わけである。
高知能の人たちはかなり社会性に関しては危ういところがある。人とのかかわりに関しては興味や関心が薄い場合が多いからだ。しかし「自分がどのように動けば周囲がどのように反応する」「自分が~を達成したい時には、~すればいい」ということを判断する能力も非常に高いことが多い。必要に応じてそれを用いて無難に対人関係を乗り切ることで、集団の中で地位を得て、しばしば非常に有能な人材として評価され、重用されたりする。頭脳優秀な彼らは大学の教授や研究職を難なく得るだろう。
さて高知能な彼らが、いつまでもナルシシズムに浸るとしたら、実は彼らの優秀さとは裏腹の、人間理解の浅薄さがそこに関係していると見ていい。システマティックな知識やそれを使いこなす頭脳は、かなりの程度情緒的な知能、すなわちEQと綱引きの関係にある。一般的に言って、理科系的な意味で優秀な頭脳は、共感に関する能力を犠牲にした上で成り立っている。そしてそのことを彼らは知らないか、あるいは知っていても重要と考えない。人に共感すること、他人のために尽力することは、彼らの頭脳においては「無駄なこと」「意味のないこと」として棄却されてしまう傾向にある。
 私はこの高知能のナルシシズムを発揮している人たちに何人か会ったが、彼らにはひとつの特徴がある。それは彼らが他人と交わす会話は、よくよく聞いてみると、彼らの成功体験、いかに彼らの頭脳が優れているかを示すようなエピソードに終始しているということである。彼らの体験談はそれなりに興味深く、魅力的であるが、それは結局は、彼らの優秀さがどのような驚きを周囲に与え、そのために事態がどのように彼らに有利に展開していったかの自慢話なのである。考えてみれば特別優秀な彼らの頭脳は、結果的に多くの成功体験を生んでいるので、自分の人生を話せば結局自慢になる、というのは彼らにとっても不幸なことかもしれない。しかし彼らは周囲が「エー、すごいじゃないですか!」「いったい先生の頭の中はどうなっているんでしょうね。」という、周囲の反応から来る心地よさには勝てない。そのような羨望を向けられるような話をすることを、期待されてしまうという認識もある程度あるだろう。と言うことで「口を開けば自慢話」というパターンが出来上がる。また記憶力が非常にいい彼らにとっては不思議なことなのだが、自分の話が同じ話の繰り返し、焼き直しであることの自覚はあまりない。
彼らの話の中で自慢話以外に多いのが、薀蓄、知識、ないしは雑学の披露である。何しろ記憶力に優れ、また知識の吸収には貪欲なところがある。興味を持ちしばらく没頭することで、少なくとも知識のレベルではその分野の玄人はだしになる。それを求められるがままに、あるいは求められない場合にでも彼らの知識を披露することも、彼らの対人関係を維持する上で用いる重要なレパートリーのひとつになる。
 しかし彼らが自らの知識を披露し、あるいは成功体験を得々と語っているのを我慢する、苦々しく思う、という人も少なくない。自慢話も、知識の披瀝も、彼らの自己愛を満足させはするであろうが、周囲に不快感や羨望を抱かせる可能性は十分にあるのである。
私は「高知能はその人を滅ぼしかねない」という説を持つ。それは彼らの知的なこだわりが、異常なまでの細部への執着、いわば「重箱の隅つつき」へ向かわせ、それにより彼らが物事の全体像を見落とす傾向があるからだ。もちろんそれが彼らの高い知能の「賢い」使い方ではない。もし自らの高い知能を、内省や自己に関する洞察に向ける事が出来たら、彼は自らの自己愛的な振る舞いを客観的に観察することが出来、必要に応じて抑制できるはずだ。そしてそのような高知能者は、おそらく外見上はほとんど一般人と区別が出来ないように振る舞うのかもしれない。特に自慢話もせず、目立ちもせず、淡々と、あるいは飄々と生きているに違いない。
しかし不幸なことに、高知能者は自らがそれに詳しく、またこだわりや一家言を持っているような話題になった時には、黙っていられないものである。自分の頭に整理されている知識を披瀝することが、そこにいる皆の興味を惹き、彼らの好奇心を満足させると信じてしまうのである。
高知能なナルとアスペルガー傾向
ところでここまで書くと、高知能のナルな人々と、アスペルガー障害には重複があるのではないかとお考えになるかもしれない。確かに高知能の方にはアスペルガー傾向が高い方も当然いらっしゃる。(何か急に丁寧語になっている。具体的な人々の顔が見え隠れしているからかもしれない。)ちなみにこれは、高知能の人はアスペルガーに「なりやすい」、というような話ではない。アスペルガーは一応発達障害(最近の言葉では「神経発達障害」)であり、生まれつき脳に備わった癖、その性能の偏りのようなものである。この高知能とアスペルガーの関係に関して、アバウトな言い方をしてみれば次のようになる。
 アスペルガー障害は他者との情動的なかかわりに十分な大脳皮質を割いてない可能性がある。そしてその分「余っている」皮質を与えられることで、その分だけある能力が、ほかの知的能力より優れている可能性がある。大脳皮質が一種の棲み分けのような現象を呈することは、サバン症候群の例を見ればわかる。また同様に生まれつき視覚障害を持つ人の中に超人的な音楽的ないし芸術的な才能を発揮する場合、視覚に通常使われるべき大脳皮質がほかの事に使われている事情が考えられ、それも一つの傍証になる。
 アスペルガー障害には、興味関心の特異性、常同性、つまり「オタク傾向」が見られることが多い(というより定義の一部になっている)が、これは以上の事情に関連する。後はその興味関心が、どの程度学問的なレベルの高さに至るかどうかは、その人の知的能力に大きく左右される。比較的質の高い、より広い皮質野を与えられた場合、それは例えば数学や物理学の才能、芸術的な才能として花開くであろう。それほどでなければ、「~博士」「~マニア」と言われるような、特定のテーマに非常に詳しい人たちになる。そしてアスペルガー傾向があっても、十分な皮質という恩恵に浴さない場合人の場合には、生産性のない、ステレオタイプ的な行動とか著しい好みの偏向にとどまる可能性がある。
 私はアスペルガー傾向のある人に、その人のオタク傾向やこだわりを見出すと少しホッとする。常々思うのだが、オタクであるためには一定の知的能力はどうしても必要なのだ。別の言い方をすれば、オタクであり、○○博士であることは、その人の知的レベルをある程度補償してくれているということになるのだ。アスペルガー傾向があり、同時に知的な能力に限界があるということは、それだけハンディキャップとなる可能性がある。
少し話が回りくどくなったが、高知能であり、それにより自己愛的な傾向に陥っている場合、そこに多少なりともアスペルガー傾向が介在している可能性が高いという主張をしたかったのである。先にも述べたが、本当の意味で知能が高ければ、自らの知能を自らの、そして社会のために用いることにもその知的能力を向けられるべきであろう。


2015年9月2日水曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 22/50)

中国的なナルシシズムは国を利するのか?
中国という国についてのナルシシズムを考えていくと、一つの重要なテーマが浮かんでくる。国のナルシシズムは、最終的にその国のためになるのだろうか?
 この問いの根拠を示す前に、「(人の)ナルシシズムは、その人のためになっているか?」を考えてみよう。ナルシシストは自分の満足のために、他者を利用する。それは最終的にその人を利するのだろうか?答えはある程度分かっていると思うが、一応順番としてこちらをまず考える。
ナルシシズムは、その人が権力や能力を獲得すると、それに従って膨らんでいくものだと私は本書で主張している。ナルな人たちは、自分たちのナルシシズムを、ある種の目的意識を持って満足させてきたというわけではない。彼らはその地位や権力のために、ナルシシストとして振る舞うことを許されるだけなのだ。恐らく大多数のナルシシストたちは、そのナルシシズムのせいで人に疎まれ、信頼を失い、敵を増やす。誰だってナルな上司や友人から搾取的な扱いをされるのは好まないだろうし、彼らの自慢話を聞き続けたくはない。「あの高慢さや人を見下すところさえなかったら、あの人もいい人なのに…」と言われている人は大勢いるだろう。
ナルシシズムとは、権力や能力を持った人が得るご褒美のようなものかもしれない。自慢話を聞いてもらうことは、拍手喝さいを浴びることは、ナルシシストたちには快感だろう。その快感は、彼らの努力や運の見返りという事が出来る。しかし同じ見返りでも、たとえば金銭的な報酬と違い、自己愛の満足という報酬は、人にはしばしば直接的な不快感を与える。そしてそれはやがては対人関係を通じて自分に跳ね返ってくる。
 結論から言えば、自己愛的な人たちは、自分のナルシシズムにより、結果的に損をしている場合が多いと考えるべきだろう。だから「自己愛はその人を最終的に利するのか?」という問いには、一応否、としておくことができよう。自己愛の満足は、原則として自己を利さないのだ。 (もちろん大まかに言って、と断っておこう。例外もおそらく多いであろうからだ。) 
ただしこの結論には一つの但し書きがある。それはナルシシズムは長期的にはその人を利さないとしても、短期的に見ればその限りではない、と言うことである。自己愛的な振る舞いは一時的には相手を圧倒し、こちらの言い分を無理やり聞き入れさせることにつながるかもしれない。もしその自己愛的な人が、たとえ相手に迷惑をかけたり嫌われたりしようと、それに構わず何らかの実利を得ようとすれば、それはかなう場合もあるだろう。先に見たように、一般的に「勝ち組はナルである」、という原則が成り立つのもそのためなのだ。
さて最初の問い、つまり「国としてのナルシシズムは、その国を利するのだろうか?」について考えよう。外交は、自国を利するための駆け引きである。最終的に国を利するためには、あらゆる策が弄されてしかるべきである。
 中国はその長い歴史の中で、何度も異民族による統治を受けてきた。アヘン戦争の後は、実にあくどい手段で列強に支配されるという、長い屈辱の時代を過ごした。外交を有利に進めることは自国にとって死活問題であることを、歴史に学んでいるはずである。そしておそらく確かなのは、外交に関して、中国は日本よりはるかに長けているということだ。その中国が、どうして自己愛的に振る舞うのだろうか?中国という利に聡い国の代表が、個人として考えるならば自分を害するはずの自己愛的な振る舞いを、どうしてあそこまで露骨に見せるのだろうか?
この問いに関する議論も結局は同じ結論に至る。中国は自己愛的な振る舞いをすることが、たとえ一時的にではあれ、国益につながると判断しているのであろう。それは例えば中国という国が横紙破りであったり、ならず者であったりという印象を与えるとしても、守るべきものと判断しているからであろう。しかも諸外国に対する強硬な姿勢はナショナリズムに訴えることにもなる。それは結局は中国国内で著しい形で生じている格差や汚職の蔓延が反政府運動へ発展することを防ぐという目的を持つことは言うまでもない。
 しかしこの中国政府の路線は、実は重大な「勘違い」に基づいたものかもしれない。現在の中国は一党独裁であり、権力の中枢にあるごく一部の人間たちにより国を運営する方針が決定されている。少なくとも彼らが人民をどのようにコントロールし、掌握するかについては、方向が間違っていることは確かであろう。それは反対派を弾圧し、口封じをするという政策である。
 最近(これを執筆中の2015年7月現在)でも、中国の人権派弁護士らが相次ぎ拘束されているというニュースが報道された。しかしその種の弾圧による統治が安定的に永続的に成功することはおそらくないということは、ベルリンの壁の崩壊を通じて、世界の常識となりつつある。一党独裁の政権が安定して存続したためしなどないのだ。
 中国の政府の首脳が、単なる政権の延命策としてこのような方針を取っているのか、それとも真剣にそれが最善の方策と考えているのかはわからないが、もし後者だとしたら、上の「勘違い」の可能性も高くなるのではないか。つまり人民に行っている、強引で力ずくの政策が最善であり、そこに永続性があるという「勘違い」を外交場面でも行っているということだ。
とすると中国という国が示しているナルシシズムはあまり将来性がないのではないかと考えざるを得ないのだ。
最後に再び問う。「中国」はナルシシストなのか?
中国という国を人になぞらえて、それが示している自己愛的な特徴について論じてきた。しかし最後に再び問い直したい。「中国」はナルシシストなのか? これに対しては「是」という回答を提出してきたわけだが、ここでそれとは少し違った見方を最後に示しておきたい。それは、中国は戦術として実に冷静に、意図的に自己愛的な態度をとっているという可能性である。
実はこの議論を重ねていくと、中国人は、あるいは中国の国民は自己愛的なのか、という問いそのものに疑問が生じてくるのであるが、少し説明したい。中国は傲慢で強気で周囲を強引に服従させる・・・・。もしそれだけにとどまっているとしたら、中国の外交はどうしてこれまでは一応の「成功」を収めているのだろうか? 
 私は「国際情勢音痴」だが、中国の外交がしたたかで、おそらく日本が考えるよりはるか先を見越しているであろうことがわかる。アジアに、アフリカに対する露骨な投資と経済支援による取り込み、米国に対するロビー活動。中国がコワモテなのは、それで言うことを聞く、あるいは歯牙にもかける必要がない相手だけという気がする。かの国は自分たちの自己愛的な接し方が自国に有利に働かない場合には柔軟にその姿勢を変え、友好的な顔を見せる。彼らの自己愛的で強気な態度や姿勢は、それが通用する限りにおいて用いられ、それが不利と分かると態度を一変させる可能性がある。そして実は中国人の気質に、そのように実利に難く、相手によって態度を変える性質が備わっているのである。
考えてもみよう。中国の人々が互いに仕事の交渉を行う場合に何が起きるのか。互いが自分たちの立場を譲らず相手を強引に丸め込むことだけを考えるだろうか?そのうちどこかで折り合いをつけ、譲歩をし合うことになるだろう。何らかの形で交渉を成立させることは、両者にとっての目的でもあるからだ。互いが強気なもの同士の戦いには、それなりの空気の読み合いがあり、妥協の仕方や落としどころの見つけ方がある。最初はブラフや無理な条件の吹っかけあいから始まっても、それが互いに見破られ、有効でないことがわかれば、当然戦術を変えるだろう。そうなると彼らの交渉も結構静かで秩序だったものになるのかもしれない。
ここで脱線であるが、私は空手の高段者の自由組手を見て興味深いと思うことがある。極真会などの、体同士の壮絶な接触を売りにする選手たちの決勝戦などを見ても、一見非常に退屈なのである。華麗な回し蹴りや突きが決まり、相手は吹っ飛ぶということがあまり起きず、ちょっと見ただけではむしろ退屈な技の掛け合いで時間が過ぎていく。華麗な技が決まるのは、まだ一回戦、二回戦の、選手同士の力の差が歴然としている場合に限られ、そこでは見事な見事な一発KOのシーンが見られるのだ。
外交シーンで中国やアメリカを相手にして日本の代表が怯み、充分に国益を代弁できずに相手に押し切られるのは、日本がパワーポリティックスを苦手とし、というか、そもそも丸腰ということもあり(意味はお分かりであろう)相手に強気で迫ることが出来ないからであろう。そしてそのことを気取られたが最後、中国も米国も強気で押し切り、自分たちが有利のうちに交渉を終えようとする。こちらが弱腰である限りは、相手はとんでもなく自己愛的で強引に映るが、それはこちらが交渉に弱い、商売なら「言い値で買ってくれる」ということを知っているから、ということになるだろう。
ということでもう一つの可能性である。中国という国はそれ自体がナルシシストに見える。そして中国という国民性に同様の性質を見ることが出来る。ただし中国人のナルシシズムは本書で論じてきたナルシシズムとは異質である。それは彼らの文化における対人関係の持ち方が「自分の利益を優先する」「そのために事実を歪曲することもありうる(犯罪にならない限り)」を前提としているために、日本文化のように外側から見て、自己愛的に見えるだけである。おそらく中国人自身は自己愛的という意識はなく「当たり前のこと」と思っているはずである。自分や周囲に意識されないような自己愛というのはあまり考えられないだろう。
以前に中国人のナルシシズムはサイコパス型ではないか、という疑問を呈した。上記の自己愛の在り方は、確かにそう見えるのである。しかしある集団のルールが、「皆が多少の嘘をつき、誇張することはお互い様だ」「役人には賄賂を与えるのが常識である」だったらどうだろうか?そこに真っ正直な振る舞いが称賛されるような国からやってきた人が放り込まれる。彼は周囲から所持品をむしり取られ、嘘をつかれ、たまたま通りがかったお巡りさんに助けを求めたら、その代わりに「金を出せ」、と言われる。瀕死の思いで自国に逃げ帰り、「あそこの国はみながサイコパスだった」というかもしれない。しかしその国の人からは、「どこからか全く無防備な男が現れ、カモにされた」と思われるだけかもしれない。
私はアメリカ生活しか経験していないが、都会を歩くときは、いつも鞄をぎゅっと握りしめていた。いつだれがひったくろうとしても、簡単には奪われないように。ニューヨークの地下鉄などでは、ちょっと居眠りするということが怖かったのを覚えている。私は周囲を泥棒の集団と見なしていたのかもしれない。しかしそこでも人は助け合い、冗談を言い合い、信頼関係を結ぶ。相手に何をされるかもしれないような社会に暮らしている、という覚悟を共有しているところを除いては、特別なことは起きないのだ。
私たちの目に映る中国人、アメリカ人(いつの間にか加わった)の自己愛的な振る舞いとは、結局彼らの国民性やそこで前提とされる事柄があまりに異質であることからくる、一種の錯覚という可能性もあるのである。

<余談>ニホンザルはナルシストか?
ここでふと思いついた。霊長類研究の権威である山極寿一先生の本にあった話である。ニホンザルは互いに視線が合うと、それは相手からの挑戦と取り、まずは相手を威嚇してくるという。彼らにとっては、対人(対猿?)関係は、自分の方が偉い、という前提から出発するのだ。いわばブラフをお互いに仕掛けることになる。こちらが目を伏せたり弱気な態度を取ったりすると、相手は早速攻撃してくるという。したがってわれわれ人間がサルと出会っても、まず目を合わせないように注意しなくてはならないという。そして目が合ってしまったら、今度は急にそらしたりはしないこと。それは敗北を認めることで、それをきっかけに相手が攻撃してくるかもしれないというのだ。
 ちなみにこの視線の意味が、たとえばゴリラの視線などと全く異なるということを山極先生が書いていらした。ゴリラの場合は、その視線はむしろ人間のそれに近く、同情や求愛などのさまざまなメッセージを含みうる、というのだ。そこでゴリラの視線について調べていくうちに面白い記事に出会った。(http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d6a46f1d4c474ff9a37136fe52b9eec5)

オーストラリアのある動物園で、ゴリラに人が襲われるということが起きて、それから特殊なメガネをつけることになったという。そのメガネには、レンズの部分に目が描かれてあり、ただしその黒目が横を向いているために、ゴリラは、そのメガネをかけた目で見られても、自分が見られていると感じないという。要するにやくざで言う「ガン付け」防止メガネというわけだ。(面白いだろうな。繁華街などでやくざに狙われないように、人々が皆横眼を描いたメガネをかけているとしたら。私は若い頃「ガンを付けただろう」と言われてすごく怖い目にあった体験があるだけに、すごく興味深い。)
 ともかくもニホンザルだけでなく、ゴリラでも結局ガン付けが意味を持つということらしい。そこでは相手を弱い立場であるという前提でかかわりを始める。
 このサルの話を思い出したのは、何か中国人的なかかわりと似ている気がするからだ。相手を威圧し、プレッシャーをかけるというところから出発するところが、である。ボクシングでも試合の前日の計量の際に対戦相手が睨み合い、威嚇しあうのが定番になっている。亀田兄弟の場合は極端だったな。俺ほど強い人間はいない、という表情、態度をぶつけ合うことが、お決まりになっているわけだ。ああいうところで、「どうぞよろしくお願いします。」とか行って愛想笑いを浮かべて握手を求めるボクサーがいたら面白いだろう。かえって殴られたりするかもしれないが、そのようなボクサーが実際の試合では相手を圧倒したとしたら、痛快だろう。
 そこで考える。ニホンザルは、ヤクザは、ボクサーたちは自己愛的なのだろうか? やはり中国という国について考えたのと似たような議論になる。彼らにとってはそのような態度がお決まりになっている。それは彼らの社会におけるルールのようなものだ。そしてそのルールに従っている際には、互いに相手を自己愛的とは感じないのかもしれない。お互いが互角同士だと感じるだけだろう。そこには互いに持っている実力を照合しあう、嗅ぎ分けると言ったニュアンスしかない可能性があるのだ。他方ナルシシズムを考える時は、その人の持つ特性、性格傾向ということを前提としている。その議論は社会のルールとして力を示し合うような人々、動物などにはどうもなじまないのである。

2015年9月1日火曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 21/50)

第11章 自己愛的な国 ― 中■(■は、口の中に玉)

本書ではこれまで基本的には自己愛的な「人」について論じてきた。ナルな人たちには様々な種類がいる、ということをこれまで主張してきたわけである。でも、「これはナルだ!!」と思いたくなる「国」はある。ニュースを読むたびに、「自分たちを何様だと思っているんだ!」と叫びたくなる。そして私にとっては、それがたとえば中国なのだ。「人ではなく、国が自己愛的になる」ということがあるのだろうか? 「ナルな国」なんてヘンじゃないか? この疑問を自らに問いつつ、少し考えたい。だからこの章は、いわば番外編なのである。
まず最近読んだインターネットのニュースで、特に私が腹が立ったものが二つあったので、紹介する。

① 発展した隣国を日本は受け入れるか…中国外相
【北京=竹内誠一郎】中国の王毅(ワンイー)外相は27日、北京市内で行った講演の中で、日中の関係改善を巡る課題について、「発展を遂げた最大の隣国・中国を、日本が真の意味で受け入れるかどうかだ」と発言した。
 中国の要人が公式の場で日中両国の「地位」に言及するのは異例とされ、講演で本音が出たとみられている。
 王外相はこの日、清華大で開幕した「世界平和フォーラム」で講演。質疑では「日本の古い友人の話」を紹介する形で、「中国は過去の歴史上のあるべき状態に戻っただけで、日本人はそれを受け入れるべきだ」とも訴えた。歴史問題では、「(日本は)歴史の『被告席』に立ち続けるか、過去に侵略した国との和解を実現するか」と発言。安倍首相が発表する戦後70年談話を念頭に、日本をけん制した。(Yomiuri Online, 2015年06月27日)

勘違いもはなはだしいだろう。私たち日本人は、中国が普通にしていれば文句はないのである。中国がいかに大国になろうと、基本的には全然OKである。日本人は強い国に慣れているし、迎合する術もわきまえている。だから善良な大国なら歓迎である。日本に対して余計な干渉や悪さをしなければ問題はない。しかし尖閣列島の権利を主張し、小笠原に魚船団を送りつけ、それに対して正当な抗議すると「大国としての中国を素直に受け入れよ」となる。それは違うだろう。
それではもう一つ。
②中国、米を批判…「いわれのない脅威論を誇張」
 【北京=竹腰雅彦】中国外務省の華春瑩(ファチュンイン)副報道局長は3日の定例記者会見で、米軍が1日発表した「国家軍事戦略」について、「いわれのない中国脅威論を誇張しており、不満と反対を表明する」と批判した。「軍事戦略」は、中国が「アジア太平洋地域で緊張を高めている」などと指摘していた。華氏はまた、南シナ海の人工島建設に対する米国の批判について、「米国は冷戦的思考を捨て、中国の戦略意図を正確に認識すべきだ」と強調。人工島で軍事・民事の施設建設を進める考えを改めて示した。(Yomiuri Online, 2015年07月03日)
思わず「強烈な不満」を唱えたくなるような内容である。 中国の南シナ海での傍若無人な振る舞いがそもそもの発端ではないか。中国が軍事的な野心を露骨に示しながら、米国に「いわれのない中国脅威論を喧伝するな!」というのは全くの筋違いである。
 中国の主張にたいしては、まったく言っていることが傲慢で、自己愛的、人を人とも思わない・・・・・。と、感情面での反応は自己愛的な人に対するものと同じなのである。
 もちろんこの中国の報道局長の主張を読んで、大多数の中国人は「そうだそうだ」 と考えるであろう。だから中国の主席や報道官が言っていることが、中国国民が声をそろえて言っていることと同等と見なすことができるだろう。すると結局、国をあたかも一人の人間と見なし、そこにナルシシズムを見出すということは可能だ、と考えられるのである。そこで本章ではその路線で話を進めよう。
中国のナルシシズムは「サイコパス型」か?
国を一人の人間と同等にみなすことには、もちろん問題もある。たとえば国の代表どうしが会談や交渉をすることを考えよう。彼らは自国の最大の利益のために、時には演技をし、ブラフを試み、他国との交渉を有利に進めようとするだろう。すると一見傲慢だったり、卑屈だったり、強気だったり弱気だったりする振る舞いや態度も、一種の「お芝居」や「演出」であり、いわばシナリオに従ったものであって、そこにパーソナリティ障害を読み込むのには無理があるだろう、という考えも確かに成り立つのだ。
 ただしそれにしては、外交の在り方そのものに、あまりにあからさまに国民性が出てはいないだろうか? それぞれの国民の気質や対人関係上のパターンが、外国との交渉に全く反映されないということはありえないと思う。ちょうどロールプレイングをしても、結局はその人の人柄がにじみ出てしまうように。
 例えば日本、中国に加えて米国を取り上げ、その外交術と、国民性を比べてみよう。両者は見事に一致しているとしか言いようがない。遠藤滋氏の「中国人とアメリカ人」(文春新書)は、アメリカ人と中国人の国民性を、次のように言い表す友人を紹介している。「[アメリカ人も中国人も]両方とも自分の非をなかなか認めない。ただしアメリカ人は証拠が出てくると謝る。中国人は証拠が出てきても謝らない。」(p.34、下線は岡野) よく言われる国民性の違いを的確に言い表していると言えよう。(ちなみにこのたとえ話で言うと、日本人はどうだろうか? 「日本人は証拠が出てくる前から謝る。」か?「反対の(潔白を示す)証拠が出てきても、それでも謝る」か? もちろん例外は沢山あることだろうが。)そして外交の面でも、同様のことがまさに生じているという印象を受ける。
 そこでまずアメリカ。一例を挙げよう。(息子)ブッシュ大統領は2002年1月に、イラクが大量破壊兵器を保有する「ならず者国家」であるとして、イラクへの攻撃を正当化した。国民の多くは、よほど確たる証拠があるのだろうと思ったのだ。しかし最終的にイラクに大量秘密兵器が見つからなかった。その時、アメリカはばつの悪さを隠さなかった。もちろんイラクに対して正式な謝罪をするなとはありえない。でも「悪さをしているところを見つかった子供」のような態度であったと記憶している。そして2004年1月には、CIAのデビッド・ケイ博士が、米上院軍事委員会の公聴会で「私たちの見通しは誤っていた」と証言したのである。
 そして私が知っているアメリカ人たちも、おおむねそんなところ感じだ。彼らはブラフをよく使う。しかし嘘や誇張がばれると、すぐにミエミエの愛想笑いを浮かべ、機嫌取りに転じるというところがある。もちろんアメリカ人もさまざまであり、サイコパスからとんでもないお人よしまでいる。だから全体的な印象として述べているのである。
 では中国はどうか? 2013年の3月、米国は世界各地へのサイバー攻撃が中国のある地区から発していることを報道した。ところがそれを受けた中国外務省の報道官は昂然と言い放った。「我々こそ米国のハッカーにサイバー攻撃を受けている、私たちは犠牲者なのだ。」これは「証拠が出てきても謝らない」という中国人の国民性がそのまま表れているといっていいだろう。
 もうひとつ例を挙げよう。2015/03/16 に、外務省は沖縄県の尖閣諸島が日本名で明記された中国の古い地図が見つかったとしてホ­ームページで公表している。この地図は、中国政府の機関が1969年に出版したもので、「尖閣群島」のほか、「魚­釣島」という日本の名称が使われているということだ。しかしそれに対する中国側の反論は瞠目すべきものであった。
「釣魚島が中国固有の領土だという事実をたった1枚の地図で覆すことは不可能」である。これなども「証拠が出てきても謝らない」中国人の傾向の、外交バージョンと言えるだろう。
 このように中国という国の自己愛の在り方を考えた場合、私たちは次の点を問わなくてはならない。中国という国の自己愛は、すでに考察した「サイコパス型」と関係していないか。
 ここにもアメリカとの対比が役にたつであろう。アメリカという国も自己愛的であろうが、それは「厚皮タイプ」と認定することができるだろう。彼らはあからさまな嘘はつくのが下手である。むしろ下を向いて黙ってしまうのではないか。公開の場で自分の女性関係を質問されて、しどろもどろになった、元大統領のクリントン氏のように。
 ところが中国の報道官の言動などは、聞く方が赤くなるほどの虚偽が含まれている。そして嘘をつく、という特徴を典型的に有するのが、サイコパス型の自己愛だったことはご記憶であろう。
 私たち日本人の多くが、中国の人々のこのような言動を見ていて考え込んでしまう点がある。「こんなに嘘をついて、本人たちは大丈夫なのだろうか?」「彼らの心はよくぞ壊れないで働いているものだ。」 しかし私たちはすでに、うそをついても壊れない人々を知っている。サイコパスはその典型なのだ。彼らにとっては二つの矛盾する心は葛藤を生むことなく心に共存できる。それがむしろ心地よく、心の安定につながるかのように。
もちろんこう書くからと言って、私は中国人を犯罪者扱いしているというわけではない。中国の人は家族や親しい友人、長く付き合っているビジネスパートナーは信用し、相手の恩に報いようとするという。信頼関係を持つ相手はいるわけだ。そこが本当のサイコパスと異なるところである。
 中国人は確かに初対面の人は決して信用してかからないだろう。交渉の際は相手の足元を見て、少しでも有利な条件で契約を結ぼうとする。そこでは事実を誇張したり、虚偽を交えて伝えることもあるかもしれない。しかしこのように周囲に猜疑の目を向け、同時に自分が相手から騙され、搾取されないかに注意を向けていることには、かなりのストレスを伴うはずだ。だから彼らのサイコパス的な振る舞いも、限られた人々に対してみせると考えるべきであろう。この点は彼らの名誉のために強調しておきたい。
中国人と面子
中国という国、ないし中国人の自己愛について考える際、特に重要なのが、彼らにとっての面子(メンツ)の持つ意味である。上述の遠藤滋氏は、中国人の行動基準となるのは、「銭」、「報」、「面子」であるという。そしてこのうちの面子が、「中国人にとっては命のように大切」であるという。日本人は面子がつぶされた、ということをよく言うが、中国人はこれを自分から口にしないものの、はるかにこれを重要視しているという。そしてそのためには事実を捻じ曲げることもあるというのだ。
この面子という概念、中国という国やその国民のナルシシズムを考える上でとても重要なのかもしれない。彼らは外見上は倫理的に正しく、高い能力を備え、自信にあふれているというイメージを、外に向かって示し続ける。そしてそれを否定され、恥をかかされるような体験を死に物狂いで回避する。おそらくは面子を守るための虚偽は心の中で全面的に正当化されているのだろう。
 そしてこれは、それとは逆の内面重視の思考、つまり内なる倫理性、高潔さ、内面的な強さを求める傾向とはまったく異なる。後者の場合は人を欺くことも否定され、恥ずべきことと考えられるだろう。しかし「面子」を重んじるということは、しばしば他者を搾取したり利用したりすることとにも結び付く。何しろ「事実を捻じ曲げる」ことで犠牲になるのは他者だからだ。
遠藤氏が同著で用いている体験談が面白いので紹介させていただく。昔ゴルフボールがまだ高価だった頃のことである。中国でゴルフをする機会があったが、周囲の林には飛んできたボールを拾おうと、何人かの人が立っていたという。あるとき彼のボールが右にそれて、林の中に飛んだので探しに行くと、そこにも一人の男が立っていた。彼が飛んできだボールを拾って隠し持っているのは明らかであった。しかし彼を問い詰めても決して認めることはない。そうすることは彼の面子をつぶすことだからだ。そこで一緒にボールを探すふりをしたという。するとその男はポケットからひそかにボールを落として、「このボールがあなたのであろう」と言ったという。

この意味での面子はほぼ自己愛と同類と言っていいと思うが、そこにはある種のルールといったものが存在しているようにも思える。「互いの面子をつぶさない」は中国社会ではある種の常識ないしは作法となっているのだろう。すると人と人との関わり合いも日本のそれとはずいぶん違ってくるはずだ。中国では自分たちの面子を守るための事実の歪曲の応酬ということになる。それは一種のパワーゲームであり、極端に打算的でシビアな世界と言える。日本人がその中に入ってどの程度彼らと渡り合っていけるのだろうか?およそ別の世界観や人間観を持つことでしか、自らの主張を貫いたり、有利にビジネスを展開したりすることなどできないだろう。