2015年9月1日火曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 21/50)

11章 自己愛的な国 ― 中■(■は、口の中に玉)

本書ではこれまで基本的には自己愛的な「人」について論じてきた。ナルな人たちには様々な種類がいる、ということをこれまで主張してきたわけである。でも、「これはナルだ!!」と思いたくなる「国」はある。ニュースを読むたびに、「自分たちを何様だと思っているんだ!」と叫びたくなる。そして私にとっては、それがたとえば中国なのだ。「人ではなく、国が自己愛的になる」ということがあるのだろうか? 「ナルな国」なんてヘンじゃないか? この疑問を自らに問いつつ、少し考えたい。だからこの章は、いわば番外編なのである。
まず最近読んだインターネットのニュースで、特に私が腹が立ったものが二つあったので、紹介する。

① 発展した隣国を日本は受け入れるか中国外相
【北京=竹内誠一郎】中国の王毅(ワンイー)外相は27日、北京市内で行った講演の中で、日中の関係改善を巡る課題について、「発展を遂げた最大の隣国・中国を、日本が真の意味で受け入れるかどうかだ」と発言した。
 中国の要人が公式の場で日中両国の「地位」に言及するのは異例とされ、講演で本音が出たとみられている。
 王外相はこの日、清華大で開幕した「世界平和フォーラム」で講演。質疑では「日本の古い友人の話」を紹介する形で、「中国は過去の歴史上のあるべき状態に戻っただけで、日本人はそれを受け入れるべきだ」とも訴えた。歴史問題では、「(日本は)歴史の『被告席』に立ち続けるか、過去に侵略した国との和解を実現するか」と発言。安倍首相が発表する戦後70年談話を念頭に、日本をけん制した。(Yomiuri Online, 20150627日)

勘違いもはなはだしいだろう。私たち日本人は、中国が普通にしていれば文句はないのである。中国がいかに大国になろうと、基本的には全然OKである。日本人は強い国に慣れているし、迎合する術もわきまえている。だから善良な大国なら歓迎である。日本に対して余計な干渉や悪さをしなければ問題はない。しかし尖閣列島の権利を主張し、小笠原に魚船団を送りつけ、それに対して正当な抗議すると「大国としての中国を素直に受け入れよ」となる。それは違うだろう。
それではもう一つ。
②中国、米を批判「いわれのない脅威論を誇張」
 【北京=竹腰雅彦】中国外務省の華春瑩(ファチュンイン)副報道局長は3日の定例記者会見で、米軍が1日発表した「国家軍事戦略」について、「いわれのない中国脅威論を誇張しており、不満と反対を表明する」と批判した。「軍事戦略」は、中国が「アジア太平洋地域で緊張を高めている」などと指摘していた。華氏はまた、南シナ海の人工島建設に対する米国の批判について、「米国は冷戦的思考を捨て、中国の戦略意図を正確に認識すべきだ」と強調。人工島で軍事・民事の施設建設を進める考えを改めて示した。(Yomiuri Online, 20150703)
思わず「強烈な不満」を唱えたくなるような内容である。 中国の南シナ海での傍若無人な振る舞いがそもそもの発端ではないか。中国が軍事的な野心を露骨に示しながら、米国に「いわれのない中国脅威論を喧伝するな!」というのは全くの筋違いである。
 中国の主張にたいしては、まったく言っていることが傲慢で、自己愛的、人を人とも思わない・・・・・。と、感情面での反応は自己愛的な人に対するものと同じなのである。
 もちろんこの中国の報道局長の主張を読んで、大多数の中国人は「そうだそうだ」 と考えるであろう。だから中国の主席や報道官が言っていることが、中国国民が声をそろえて言っていることと同等と見なすことができるだろう。すると結局、国をあたかも一人の人間と見なし、そこにナルシシズムを見出すということは可能だ、と考えられるのである。そこで本章ではその路線で話を進めよう。
中国のナルシシズムは「サイコパス型」か?
国を一人の人間と同等にみなすことには、もちろん問題もある。たとえば国の代表どうしが会談や交渉をすることを考えよう。彼らは自国の最大の利益のために、時には演技をし、ブラフを試み、他国との交渉を有利に進めようとするだろう。すると一見傲慢だったり、卑屈だったり、強気だったり弱気だったりする振る舞いや態度も、一種の「お芝居」や「演出」であり、いわばシナリオに従ったものであって、そこにパーソナリティ障害を読み込むのには無理があるだろう、という考えも確かに成り立つのだ。
 ただしそれにしては、外交の在り方そのものに、あまりにあからさまに国民性が出てはいないだろうか? それぞれの国民の気質や対人関係上のパターンが、外国との交渉に全く反映されないということはありえないと思う。ちょうどロールプレイングをしても、結局はその人の人柄がにじみ出てしまうように。
 例えば日本、中国に加えて米国を取り上げ、その外交術と、国民性を比べてみよう。両者は見事に一致しているとしか言いようがない。遠藤滋氏の「中国人とアメリカ人」(文春新書)は、アメリカ人と中国人の国民性を、次のように言い表す友人を紹介している。「[アメリカ人も中国人も]両方とも自分の非をなかなか認めない。ただしアメリカ人は証拠が出てくると謝る。中国人は証拠が出てきても謝らない。」(p34、下線は岡野) よく言われる国民性の違いを的確に言い表していると言えよう。(ちなみにこのたとえ話で言うと、日本人はどうだろうか? 「日本人は証拠が出てくる前から謝る。」か?「反対の(潔白を示す)証拠が出てきても、それでも謝る」か? もちろん例外は沢山あることだろうが。)そして外交の面でも、同様のことがまさに生じているという印象を受ける。
 そこでまずアメリカ。一例を挙げよう。(息子)ブッシュ大統領は20021に、イラクが大量破壊兵器を保有する「ならず者国家」であるとして、イラクへの攻撃を正当化した。国民の多くは、よほど確たる証拠があるのだろうと思ったのだ。しかし最終的にイラクに大量秘密兵器が見つからなかった。その時、アメリカはばつの悪さを隠さなかった。もちろんイラクに対して正式な謝罪をするなとはありえない。でも「悪さをしているところを見つかった子供」のような態度であったと記憶している。そして2004年1月には、CIAのデビッド・ケイ博士が、米上院軍事委員会の公聴会で「私たちの見通しは誤っていた」と証言したのである。
 そして私が知っているアメリカ人たちも、おおむねそんなところ感じだ。彼らはブラフをよく使う。しかし嘘や誇張がばれると、すぐにミエミエの愛想笑いを浮かべ、機嫌取りに転じるというところがある。もちろんアメリカ人もさまざまであり、サイコパスからとんでもないお人よしまでいる。だから全体的な印象として述べているのである。
 では中国はどうか? 2013年の3月、米国は世界各地へのサイバー攻撃が中国のある地区から発していることを報道した。ところがそれを受けた中国外務省の報道官は昂然と言い放った。「我々こそ米国のハッカーにサイバー攻撃を受けている、私たちは犠牲者なのだ。」これは「証拠が出てきても謝らない」という中国人の国民性がそのまま表れているといっていいだろう。
 もうひとつ例を挙げよう。2015/03/16 に、外務省は沖縄県の尖閣諸島が日本名で明記された中国の古い地図が見つかったとしてホ­ームページで公表している。この地図は、中国政府の機関が1969年に出版したもので、「尖閣群島」のほか、「魚­釣島」という日本の名称が使われているということだ。しかしそれに対する中国側の反論は瞠目すべきものであった。
「釣魚島が中国固有の領土だという事実をたった1枚の地図で覆すことは不可能」である。これなども「証拠が出てきても謝らない」中国人の傾向の、外交バージョンと言えるだろう。
 このように中国という国の自己愛の在り方を考えた場合、私たちは次の点を問わなくてはならない。中国という国の自己愛は、すでに考察した「サイコパス型」と関係していないか。
 ここにもアメリカとの対比が役にたつであろう。アメリカという国も自己愛的であろうが、それは「厚皮タイプ」と認定することができるだろう。彼らはあからさまな嘘はつくのが下手である。むしろ下を向いて黙ってしまうのではないか。公開の場で自分の女性関係を質問されて、しどろもどろになった、元大統領のクリントン氏のように。
 ところが中国の報道官の言動などは、聞く方が赤くなるほどの虚偽が含まれている。そして嘘をつく、という特徴を典型的に有するのが、サイコパス型の自己愛だったことはご記憶であろう。
 私たち日本人の多くが、中国の人々のこのような言動を見ていて考え込んでしまう点がある。「こんなに嘘をついて、本人たちは大丈夫なのだろうか?」「彼らの心はよくぞ壊れないで働いているものだ。」 しかし私たちはすでに、うそをついても壊れない人々を知っている。サイコパスはその典型なのだ。彼らにとっては二つの矛盾する心は葛藤を生むことなく心に共存できる。それがむしろ心地よく、心の安定につながるかのように。
もちろんこう書くからと言って、私は中国人を犯罪者扱いしているというわけではない。中国の人は家族や親しい友人、長く付き合っているビジネスパートナーは信用し、相手の恩に報いようとするという。信頼関係を持つ相手はいるわけだ。そこが本当のサイコパスと異なるところである。
 中国人は確かに初対面の人は決して信用してかからないだろう。交渉の際は相手の足元を見て、少しでも有利な条件で契約を結ぼうとする。そこでは事実を誇張したり、虚偽を交えて伝えることもあるかもしれない。しかしこのように周囲に猜疑の目を向け、同時に自分が相手から騙され、搾取されないかに注意を向けていることには、かなりのストレスを伴うはずだ。だから彼らのサイコパス的な振る舞いも、限られた人々に対してみせると考えるべきであろう。この点は彼らの名誉のために強調しておきたい。
中国人と面子
中国という国、ないし中国人の自己愛について考える際、特に重要なのが、彼らにとっての面子(メンツ)の持つ意味である。上述の遠藤滋氏は、中国人の行動基準となるのは、「銭」、「報」、「面子」であるという。そしてこのうちの面子が、「中国人にとっては命のように大切」であるという。日本人は面子がつぶされた、ということをよく言うが、中国人はこれを自分から口にしないものの、はるかにこれを重要視しているという。そしてそのためには事実を捻じ曲げることもあるというのだ。
この面子という概念、中国という国やその国民のナルシシズムを考える上でとても重要なのかもしれない。彼らは外見上は倫理的に正しく、高い能力を備え、自信にあふれているというイメージを、外に向かって示し続ける。そしてそれを否定され、恥をかかされるような体験を死に物狂いで回避する。おそらくは面子を守るための虚偽は心の中で全面的に正当化されているのだろう。
 そしてこれは、それとは逆の内面重視の思考、つまり内なる倫理性、高潔さ、内面的な強さを求める傾向とはまったく異なる。後者の場合は人を欺くことも否定され、恥ずべきことと考えられるだろう。しかし「面子」を重んじるということは、しばしば他者を搾取したり利用したりすることとにも結び付く。何しろ「事実を捻じ曲げる」ことで犠牲になるのは他者だからだ。
遠藤氏が同著で用いている体験談が面白いので紹介させていただく。昔ゴルフボールがまだ高価だった頃のことである。中国でゴルフをする機会があったが、周囲の林には飛んできたボールを拾おうと、何人かの人が立っていたという。あるとき彼のボールが右にそれて、林の中に飛んだので探しに行くと、そこにも一人の男が立っていた。彼が飛んできだボールを拾って隠し持っているのは明らかであった。しかし彼を問い詰めても決して認めることはない。そうすることは彼の面子をつぶすことだからだ。そこで一緒にボールを探すふりをしたという。するとその男はポケットからひそかにボールを落として、「このボールがあなたのであろう」と言ったという。

この意味での面子はほぼ自己愛と同類と言っていいと思うが、そこにはある種のルールといったものが存在しているようにも思える。「互いの面子をつぶさない」は中国社会ではある種の常識ないしは作法となっているのだろう。すると人と人との関わり合いも日本のそれとはずいぶん違ってくるはずだ。中国では自分たちの面子を守るための事実の歪曲の応酬ということになる。それは一種のパワーゲームであり、極端に打算的でシビアな世界と言える。日本人がその中に入ってどの程度彼らと渡り合っていけるのだろうか?およそ別の世界観や人間観を持つことでしか、自らの主張を貫いたり、有利にビジネスを展開したりすることなどできないだろう。