2015年9月3日木曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 23/50)

12章 高知能な自己愛者

高い知能を備えていることと、学校での成績が優秀であり結果的に高学歴を有する、ということは必ずしも一致しない。本来は高い知能を備えるということは、自分自身についての洞察も深く、自分の振る舞いや他者との関係性に対する自覚が優れ、それだけ余計な人との葛藤や軋轢を避け、より賢明に振る舞うことを可能にするだろう。つまり彼の知能は自分や他人の幸福をそれだけ増すことに貢献するはずだ。
 ところが実際にそうではない場合が多い。高い知能を備えているということがその人の自己愛を高め、他人を見下し、傲慢な振る舞いを生むということがある。つまり「高知能のナルシシスト」というわけだが、彼らはどうやって作られていくのだろうか?
まず高知能のために学校の成績が優秀であり、それがその人を自己愛的にするということは、充分ありうる。もちろん学校の成績と知能の高さは必ずしも一致しないが、通常はかなりの相関があることは確かめられている。
 皆さんも小学校中学校の頃を思い出されるといい。クラスで特別扱いされる存在であるためには、いくつかの条件があったはずである。一つは運動神経の良さ。体育の時間や運動会に抜群の能力を発揮する子の多くは、クラスの人気者だったはずだ。そしてもう一つは成績の良さ。小学校の低学年の頃はそれほど重要ではなった「成績」は、やがて受験をする年代が近付くにつれて大きな意味を持ってくる。
 たいがいどこの学校のどのクラスにも、この二つの要件をある程度は備え、つまり運動神経もよく、成績もそこそこ優秀という子がいて、クラスの花形だったりするものだ。そして運動はダメでも成績抜群という子も中にはいる。それまではクラスでも全然目立たなかった子が、小学校の高学年になり、急に大人びて、クラスで指された時に使う言葉も洗練され、成績も優秀で皆に一目置かれたりするようになるのだ。そのうち「出来過ぎクン」等のあだ名がついたりする。
その成績優秀な子は、おそらく多少なりともそれを意識し、鼻にかける傾向を持つであろう。そうして自己愛的な言動や振る舞いも出てくるはずだ。彼は優秀な成績を収めることが出来ることがいかに幸運で特権的なことかを、徐々に自覚していくことになる。そしてそれはある程度はやむを得ないことだ。
成績優秀な子は担任の先生にとっても、とてもありがたい存在だ。クラスから学年でトップの子が出ると、担任の教師もまんざらでもない気分のはずである。自然とその生徒を見る目や扱い方が違ってくる。そのことを周囲の生徒たちも敏感に察知する。そして教師にとっての特別な生徒としてのその子の自己愛は増していく。その子は学校という環境において、特に受験に力を注いでいる場合には、成績という二文字がいかに難しい扉をこじ開けてくれ、人からの羨望を集めるかということを学習する。それにより運動が苦手であるというハンディでさえディスカウントされ、さほど自分にとって不利に働かないということも知るのだ。
 しかし成績の優秀さは、実はそれほど人の自己愛に貢献しないのである。そこにはごく単純な理由がある。上には上がいくらでもいるということだ。たとえば田舎の中学で断トツの成績を修め、都会の進学校の高校を受験して合格する。その中学始まって以来の快挙で、町中の噂になり、その生徒の両親も鼻が高い。その生徒だって得意の絶頂であろうし、多少なりとも天狗にもなるだろう。
 しかし都会の進学高校には、結局そのような生徒が集まっているのである。それまでは学年で3番以下にはなったことがないという生徒が、初めての中間テストで、クラスで半分以下の成績を取り、愕然とする。たちまちのうちに天狗の鼻はへし折られ、茫然自失になる。それまで「勉強ができる」ということが唯一の誇りだった少年が、たちまちそれを奪われてどん底に叩き落される体験をするのである。
 彼はそれでもがんばって成績を向上させようとするだろう。自分が平均そこそこの成績しか取れないなんてありえない・・・・。そしてある程度はそれも効果があるかもしれない。しかし周りには同様のショックを受け、そこから立ち上がろうともがいている田舎の秀才はいくらでもいる。結局彼は二度と優等生というアイデンティティを勝ち取ることが出来ずに、そのうち学校に通う意欲が失われ、ぶつぶつ独り言を言うようになり、服装も乱れ、クラスでのおかしな言動が見られるようになる。そのうち幻聴が聞こえてきて、教室に姿を見せなくなった・・・・。(もちろん最初から発症する運命にはなっていたのだろうが。私みた実際の話である。)
 結局「成績優秀者」のナルは、その大部分が自然淘汰される、ということはお分かりだろうか。そのような人たちが集まる進学校に進み、そこで平凡な生徒になってしまう、という道を歩む運命にあるからだ。そして最終的に最高学府であるA大学に入ったとしても、そこには一位からビリまでいることになる。留年する生徒もたくさんいるだろう。そうするとそれまでのプライドを維持できる人は上位のほんのわずか、ということになる。「成績優秀」なナルシシストというのは、だから案外存在しがたいのではないか?町の人にインタビューをする。「あなたは自分が成績優秀だとおもいますか?」おそらく9割の人は「そう思いません」と答えるのではないか?たとえA大学の学生でも、そこで平凡の成績しか上げられないなら、自己価値も自然に下がっていくものだ。

周囲が馬鹿に見えてしまう
それでも高知能者のナルシシストは、少数だが存在する。トップのトップのひとにぎりだ。超「出来過ぎクン」というわけだ。彼らは特に努力をすることもなく、むしろ興味に惹かれて数学や物理の法則を吸収していく。特に理科系に強い彼らは、自然界に整然と存在していたり、テキストに数式として収められていたりする秩序をすばやくマスターしてしまう。努力や詰め込みという感覚はあまりない。自然に頭に入り、整理されていく。クラスメートが簡単な数式と格闘しているのがどうしてかさっぱりわからない。そのうち「自分の頭は違うんだ」という自覚が生まれる。
 彼らはそのうち、同様のやり方で社会のあり方や人間関係上の法則を見出すことができるような気がする。もちろん人間関係の在り方に法則などないが、彼らはごく単純なロジックやアフォリズム、自らの経験則をかなり強引にあてはめていく。社会の在り方や人の心や人間関係はいかような軸に沿っても切れるわけであるから、彼らの論法はそれなりに筋が通っていることも多い。こうして彼らは世界を「わかった」つもりになるのである。
 彼らは概して文科系の、あるいは単純記憶を必要とするような学科にはあまり興味を持たないかも知れないが、その優れた記憶力をもって暗記モノが必要な科目は無難にこなし、受験は難なくクリアーする。こうして試験と名の付くものには、絶対的な自信を持つことになるのだ。
 順調に仕上がった高知能なナルたちは、たいていは「一般人」に対する優越感を持つにいたる。彼らは数字にアレルギーを示したり、初歩の数学についていけなくなったり、話の少し込み入ったロジックを飲み込めない人たちを、自分とは別種の人間と見なすであろう。もちろん「一般人」に対してあからさまに差別の目を向けたりはしないが、「自分は別人種」という認識は常に持っている可能性がある。露骨な言い方をすれば、「周囲はバカに見えてしまう」わけである。
高知能の人たちはかなり社会性に関しては危ういところがある。人とのかかわりに関しては興味や関心が薄い場合が多いからだ。しかし「自分がどのように動けば周囲がどのように反応する」「自分が~を達成したい時には、~すればいい」ということを判断する能力も非常に高いことが多い。必要に応じてそれを用いて無難に対人関係を乗り切ることで、集団の中で地位を得て、しばしば非常に有能な人材として評価され、重用されたりする。頭脳優秀な彼らは大学の教授や研究職を難なく得るだろう。
さて高知能な彼らが、いつまでもナルシシズムに浸るとしたら、実は彼らの優秀さとは裏腹の、人間理解の浅薄さがそこに関係していると見ていい。システマティックな知識やそれを使いこなす頭脳は、かなりの程度情緒的な知能、すなわちEQと綱引きの関係にある。一般的に言って、理科系的な意味で優秀な頭脳は、共感に関する能力を犠牲にした上で成り立っている。そしてそのことを彼らは知らないか、あるいは知っていても重要と考えない。人に共感すること、他人のために尽力することは、彼らの頭脳においては「無駄なこと」「意味のないこと」として棄却されてしまう傾向にある。
 私はこの高知能のナルシシズムを発揮している人たちに何人か会ったが、彼らにはひとつの特徴がある。それは彼らが他人と交わす会話は、よくよく聞いてみると、彼らの成功体験、いかに彼らの頭脳が優れているかを示すようなエピソードに終始しているということである。彼らの体験談はそれなりに興味深く、魅力的であるが、それは結局は、彼らの優秀さがどのような驚きを周囲に与え、そのために事態がどのように彼らに有利に展開していったかの自慢話なのである。考えてみれば特別優秀な彼らの頭脳は、結果的に多くの成功体験を生んでいるので、自分の人生を話せば結局自慢になる、というのは彼らにとっても不幸なことかもしれない。しかし彼らは周囲が「エー、すごいじゃないですか!」「いったい先生の頭の中はどうなっているんでしょうね。」という、周囲の反応から来る心地よさには勝てない。そのような羨望を向けられるような話をすることを、期待されてしまうという認識もある程度あるだろう。と言うことで「口を開けば自慢話」というパターンが出来上がる。また記憶力が非常にいい彼らにとっては不思議なことなのだが、自分の話が同じ話の繰り返し、焼き直しであることの自覚はあまりない。
彼らの話の中で自慢話以外に多いのが、薀蓄、知識、ないしは雑学の披露である。何しろ記憶力に優れ、また知識の吸収には貪欲なところがある。興味を持ちしばらく没頭することで、少なくとも知識のレベルではその分野の玄人はだしになる。それを求められるがままに、あるいは求められない場合にでも彼らの知識を披露することも、彼らの対人関係を維持する上で用いる重要なレパートリーのひとつになる。
 しかし彼らが自らの知識を披露し、あるいは成功体験を得々と語っているのを我慢する、苦々しく思う、という人も少なくない。自慢話も、知識の披瀝も、彼らの自己愛を満足させはするであろうが、周囲に不快感や羨望を抱かせる可能性は十分にあるのである。
私は「高知能はその人を滅ぼしかねない」という説を持つ。それは彼らの知的なこだわりが、異常なまでの細部への執着、いわば「重箱の隅つつき」へ向かわせ、それにより彼らが物事の全体像を見落とす傾向があるからだ。もちろんそれが彼らの高い知能の「賢い」使い方ではない。もし自らの高い知能を、内省や自己に関する洞察に向ける事が出来たら、彼は自らの自己愛的な振る舞いを客観的に観察することが出来、必要に応じて抑制できるはずだ。そしてそのような高知能者は、おそらく外見上はほとんど一般人と区別が出来ないように振る舞うのかもしれない。特に自慢話もせず、目立ちもせず、淡々と、あるいは飄々と生きているに違いない。
しかし不幸なことに、高知能者は自らがそれに詳しく、またこだわりや一家言を持っているような話題になった時には、黙っていられないものである。自分の頭に整理されている知識を披瀝することが、そこにいる皆の興味を惹き、彼らの好奇心を満足させると信じてしまうのである。
高知能なナルとアスペルガー傾向
ところでここまで書くと、高知能のナルな人々と、アスペルガー障害には重複があるのではないかとお考えになるかもしれない。確かに高知能の方にはアスペルガー傾向が高い方も当然いらっしゃる。(何か急に丁寧語になっている。具体的な人々の顔が見え隠れしているからかもしれない。)ちなみにこれは、高知能の人はアスペルガーに「なりやすい」、というような話ではない。アスペルガーは一応発達障害(最近の言葉では「神経発達障害」)であり、生まれつき脳に備わった癖、その性能の偏りのようなものである。この高知能とアスペルガーの関係に関して、アバウトな言い方をしてみれば次のようになる。
 アスペルガー障害は他者との情動的なかかわりに十分な大脳皮質を割いてない可能性がある。そしてその分「余っている」皮質を与えられることで、その分だけある能力が、ほかの知的能力より優れている可能性がある。大脳皮質が一種の棲み分けのような現象を呈することは、サバン症候群の例を見ればわかる。また同様に生まれつき視覚障害を持つ人の中に超人的な音楽的ないし芸術的な才能を発揮する場合、視覚に通常使われるべき大脳皮質がほかの事に使われている事情が考えられ、それも一つの傍証になる
 アスペルガー障害には、興味関心の特異性、常同性、つまり「オタク傾向」が見られることが多い(というより定義の一部になっている)が、これは以上の事情に関連する。後はその興味関心が、どの程度学問的なレベルの高さに至るかどうかは、その人の知的能力に大きく左右される。比較的質の高い、より広い皮質野を与えられた場合、それは例えば数学や物理学の才能、芸術的な才能として花開くであろう。それほどでなければ、「~博士」「~マニア」と言われるような、特定のテーマに非常に詳しい人たちになる。そしてアスペルガー傾向があっても、十分な皮質という恩恵に浴さない場合人の場合には、生産性のない、ステレオタイプ的な行動とか著しい好みの偏向にとどまる可能性がある。
 私はアスペルガー傾向のある人に、その人のオタク傾向やこだわりを見出すと少しホッとする。常々思うのだが、オタクであるためには一定の知的能力はどうしても必要なのだ。別の言い方をすれば、オタクであり、○○博士であることは、その人の知的レベルをある程度補償してくれているということになるのだ。アスペルガー傾向があり、同時に知的な能力に限界があるということは、それだけハンディキャップとなる可能性がある。
少し話が回りくどくなったが、高知能であり、それにより自己愛的な傾向に陥っている場合、そこに多少なりともアスペルガー傾向が介在している可能性が高いという主張をしたかったのである。先にも述べたが、本当の意味で知能が高ければ、自らの知能を自らの、そして社会のために用いることにもその知的能力を向けられるべきであろう。