2015年9月2日水曜日

自己愛(ナル)な人(推敲 22/50)

国的なナルシシズムは国を利するのか?
中国という国についてのナルシシズムを考えていくと、一つの重要なテーマが浮かんでくる。国のナルシシズムは、最終的にその国のためになるのだろうか?
 この問いの根拠を示す前に、「(人の)ナルシシズムは、その人のためになっているか?」を考えてみよう。ナルシシストは自分の満足のために、他者を利用する。それは最終的にその人を利するのだろうか?答えはある程度分かっていると思うが、一応順番としてこちらをまず考える。
ナルシシズムは、その人が権力や能力を獲得すると、それに従って膨らんでいくものだと私は本書で主張している。ナルな人たちは、自分たちのナルシシズムを、ある種の目的意識を持って満足させてきたというわけではない。彼らはその地位や権力のために、ナルシシストとして振る舞うことを許されるだけなのだ。恐らく大多数のナルシシストたちは、そのナルシシズムのせいで人に疎まれ、信頼を失い、敵を増やす。誰だってナルな上司や友人から搾取的な扱いをされるのは好まないだろうし、彼らの自慢話を聞き続けたくはない。「あの高慢さや人を見下すところさえなかったら、あの人もいい人なのに…」と言われている人は大勢いるだろう。
ナルシシズムとは、権力や能力を持った人が得るご褒美のようなものかもしれない。自慢話を聞いてもらうことは、拍手喝さいを浴びることは、ナルシシストたちには快感だろう。その快感は、彼らの努力や運の見返りという事が出来る。しかし同じ見返りでも、たとえば金銭的な報酬と違い、自己愛の満足という報酬は、人にはしばしば直接的な不快感を与える。そしてそれはやがては対人関係を通じて自分に跳ね返ってくる。
 結論から言えば、自己愛的な人たちは、自分のナルシシズムにより、結果的に損をしている場合が多いと考えるべきだろう。だから「自己愛はその人を最終的に利するのか?」という問いには、一応否、としておくことができよう。自己愛の満足は、原則として自己を利さないのだ。 (もちろん大まかに言って、と断っておこう。例外もおそらく多いであろうからだ。) 
ただしこの結論には一つの但し書きがある。それはナルシシズムは長期的にはその人を利さないとしても、短期的に見ればその限りではない、と言うことである。自己愛的な振る舞いは一時的には相手を圧倒し、こちらの言い分を無理やり聞き入れさせることにつながるかもしれない。もしその自己愛的な人が、たとえ相手に迷惑をかけたり嫌われたりしようと、それに構わず何らかの実利を得ようとすれば、それはかなう場合もあるだろう。先に見たように、一般的に「勝ち組はナルである」、という原則が成り立つのもそのためなのだ。
さて最初の問い、つまり「国としてのナルシシズムは、その国を利するのだろうか?」について考えよう。外交は、自国を利するための駆け引きである。最終的に国を利するためには、あらゆる策が弄されてしかるべきである。
 中国はその長い歴史の中で、何度も異民族による統治を受けてきた。アヘン戦争の後は、実にあくどい手段で列強に支配されるという、長い屈辱の時代を過ごした。外交を有利に進めることは自国にとって死活問題であることを、歴史に学んでいるはずである。そしておそらく確かなのは、外交に関して、中国は日本よりはるかに長けているということだ。その中国が、どうして自己愛的に振る舞うのだろうか?中国という利に聡い国の代表が、個人として考えるならば自分を害するはずの自己愛的な振る舞いを、どうしてあそこまで露骨に見せるのだろうか?
この問いに関する議論も結局は同じ結論に至る。中国は自己愛的な振る舞いをすることが、たとえ一時的にではあれ、国益につながると判断しているのであろう。それは例えば中国という国が横紙破りであったり、ならず者であったりという印象を与えるとしても、守るべきものと判断しているからであろう。しかも諸外国に対する強硬な姿勢はナショナリズムに訴えることにもなる。それは結局は中国国内で著しい形で生じている格差や汚職の蔓延が反政府運動へ発展することを防ぐという目的を持つことは言うまでもない。
 しかしこの中国政府の路線は、実は重大な「勘違い」に基づいたものかもしれない。現在の中国は一党独裁であり、権力の中枢にあるごく一部の人間たちにより国を運営する方針が決定されている。少なくとも彼らが人民をどのようにコントロールし、掌握するかについては、方向が間違っていることは確かであろう。それは反対派を弾圧し、口封じをするという政策である。
 最近(これを執筆中の20157月現在)でも、中国の人権派弁護士らが相次ぎ拘束されているというニュースが報道された。しかしその種の弾圧による統治が安定的に永続的に成功することはおそらくないということは、ベルリンの壁の崩壊を通じて、世界の常識となりつつある。一党独裁の政権が安定して存続したためしなどないのだ。
 中国の政府の首脳が、単なる政権の延命策としてこのような方針を取っているのか、それとも真剣にそれが最善の方策と考えているのかはわからないが、もし後者だとしたら、上の「勘違い」の可能性も高くなるのではないか。つまり人民に行っている、強引で力ずくの政策が最善であり、そこに永続性があるという「勘違い」を外交場面でも行っているということだ。
とすると中国という国が示しているナルシシズムはあまり将来性がないのではないかと考えざるを得ないのだ。
最後に再び問う。「中国」はナルシシストなのか?
中国という国を人になぞらえて、それが示している自己愛的な特徴について論じてきた。しかし最後に再び問い直したい。「中国」はナルシシストなのか? これに対しては「是」という回答を提出してきたわけだが、ここでそれとは少し違った見方を最後に示しておきたい。それは、中国は戦術として実に冷静に、意図的に自己愛的な態度をとっているという可能性である。
実はこの議論を重ねていくと、中国人は、あるいは中国の国民は自己愛的なのか、という問いそのものに疑問が生じてくるのであるが、少し説明したい。中国は傲慢で強気で周囲を強引に服従させる・・・・。もしそれだけにとどまっているとしたら、中国の外交はどうしてこれまでは一応の「成功」を収めているのだろうか? 
 私は「国際情勢音痴」だが、中国の外交がしたたかで、おそらく日本が考えるよりはるか先を見越しているであろうことがわかる。アジアに、アフリカに対する露骨な投資と経済支援による取り込み、米国に対するロビー活動。中国がコワモテなのは、それで言うことを聞く、あるいは歯牙にもかける必要がない相手だけという気がする。かの国は自分たちの自己愛的な接し方が自国に有利に働かない場合には柔軟にその姿勢を変え、友好的な顔を見せる。彼らの自己愛的で強気な態度や姿勢は、それが通用する限りにおいて用いられ、それが不利と分かると態度を一変させる可能性がある。そして実は中国人の気質に、そのように実利に難く、相手によって態度を変える性質が備わっているのである。
考えてもみよう。中国の人々が互いに仕事の交渉を行う場合に何が起きるのか。互いが自分たちの立場を譲らず相手を強引に丸め込むことだけを考えるだろうか?そのうちどこかで折り合いをつけ、譲歩をし合うことになるだろう。何らかの形で交渉を成立させることは、両者にとっての目的でもあるからだ。互いが強気なもの同士の戦いには、それなりの空気の読み合いがあり、妥協の仕方や落としどころの見つけ方がある。最初はブラフや無理な条件の吹っかけあいから始まっても、それが互いに見破られ、有効でないことがわかれば、当然戦術を変えるだろう。そうなると彼らの交渉も結構静かで秩序だったものになるのかもしれない。
ここで脱線であるが、私は空手の高段者の自由組手を見て興味深いと思うことがある。極真会などの、体同士の壮絶な接触を売りにする選手たちの決勝戦などを見ても、一見非常に退屈なのである。華麗な回し蹴りや突きが決まり、相手は吹っ飛ぶということがあまり起きず、ちょっと見ただけではむしろ退屈な技の掛け合いで時間が過ぎていく。華麗な技が決まるのは、まだ一回戦、二回戦の、選手同士の力の差が歴然としている場合に限られ、そこでは見事な見事な一発KOのシーンが見られるのだ。
外交シーンで中国やアメリカを相手にして日本の代表が怯み、充分に国益を代弁できずに相手に押し切られるのは、日本がパワーポリティックスを苦手とし、というか、そもそも丸腰ということもあり(意味はお分かりであろう)相手に強気で迫ることが出来ないからであろう。そしてそのことを気取られたが最後、中国も米国も強気で押し切り、自分たちが有利のうちに交渉を終えようとする。こちらが弱腰である限りは、相手はとんでもなく自己愛的で強引に映るが、それはこちらが交渉に弱い、商売なら「言い値で買ってくれる」ということを知っているから、ということになるだろう。
ということでもう一つの可能性である。中国という国はそれ自体がナルシシストに見える。そして中国という国民性に同様の性質を見ることが出来る。ただし中国人のナルシシズムは本書で論じてきたナルシシズムとは異質である。それは彼らの文化における対人関係の持ち方が「自分の利益を優先する」「そのために事実を歪曲することもありうる(犯罪にならない限り)」を前提としているために、日本文化のように外側から見て、自己愛的に見えるだけである。おそらく中国人自身は自己愛的という意識はなく「当たり前のこと」と思っているはずである。自分や周囲に意識されないような自己愛というのはあまり考えられないだろう。
以前に中国人のナルシシズムはサイコパス型ではないか、という疑問を呈した。上記の自己愛の在り方は、確かにそう見えるのである。しかしある集団のルールが、「皆が多少の嘘をつき、誇張することはお互い様だ」「役人には賄賂を与えるのが常識である」だったらどうだろうか?そこに真っ正直な振る舞いが称賛されるような国からやってきた人が放り込まれる。彼は周囲から所持品をむしり取られ、嘘をつかれ、たまたま通りがかったお巡りさんに助けを求めたら、その代わりに「金を出せ」、と言われる。瀕死の思いで自国に逃げ帰り、「あそこの国はみながサイコパスだった」というかもしれない。しかしその国の人からは、「どこからか全く無防備な男が現れ、カモにされた」と思われるだけかもしれない。
私はアメリカ生活しか経験していないが、都会を歩くときは、いつも鞄をぎゅっと握りしめていた。いつだれがひったくろうとしても、簡単には奪われないように。ニューヨークの地下鉄などでは、ちょっと居眠りするということが怖かったのを覚えている。私は周囲を泥棒の集団と見なしていたのかもしれない。しかしそこでも人は助け合い、冗談を言い合い、信頼関係を結ぶ。相手に何をされるかもしれないような社会に暮らしている、という覚悟を共有しているところを除いては、特別なことは起きないのだ。
私たちの目に映る中国人、アメリカ人(いつの間にか加わった)の自己愛的な振る舞いとは、結局彼らの国民性やそこで前提とされる事柄があまりに異質であることからくる、一種の錯覚という可能性もあるのである。

<余談>ニホンザルはナルシストか?
ここでふと思いついた。霊長類研究の権威である山極寿一先生の本にあった話である。ニホンザルは互いに視線が合うと、それは相手からの挑戦と取り、まずは相手を威嚇してくるという。彼らにとっては、対人(対猿?)関係は、自分の方が偉い、という前提から出発するのだ。いわばブラフをお互いに仕掛けることになる。こちらが目を伏せたり弱気な態度を取ったりすると、相手は早速攻撃してくるという。したがってわれわれ人間がサルと出会っても、まず目を合わせないように注意しなくてはならないという。そして目が合ってしまったら、今度は急にそらしたりはしないこと。それは敗北を認めることで、それをきっかけに相手が攻撃してくるかもしれないというのだ。
 ちなみにこの視線の意味が、たとえばゴリラの視線などと全く異なるということを山極先生が書いていらした。ゴリラの場合は、その視線はむしろ人間のそれに近く、同情や求愛などのさまざまなメッセージを含みうる、というのだ。そこでゴリラの視線について調べていくうちに面白い記事に出会った。(http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon/e/d6a46f1d4c474ff9a37136fe52b9eec5

オーストラリアのある動物園で、ゴリラに人が襲われるということが起きて、それから特殊なメガネをつけることになったという。そのメガネには、レンズの部分に目が描かれてあり、ただしその黒目が横を向いているために、ゴリラは、そのメガネをかけた目で見られても、自分が見られていると感じないという。要するにやくざで言う「ガン付け」防止メガネというわけだ。(面白いだろうな。繁華街などでやくざに狙われないように、人々が皆横眼を描いたメガネをかけているとしたら。私は若い頃「ガンを付けただろう」と言われてすごく怖い目にあった体験があるだけに、すごく興味深い。)
 ともかくもニホンザルだけでなく、ゴリラでも結局ガン付けが意味を持つということらしい。そこでは相手を弱い立場であるという前提でかかわりを始める。
 このサルの話を思い出したのは、何か中国人的なかかわりと似ている気がするからだ。相手を威圧し、プレッシャーをかけるというところから出発するところが、である。ボクシングでも試合の前日の計量の際に対戦相手が睨み合い、威嚇しあうのが定番になっている。亀田兄弟の場合は極端だったな。俺ほど強い人間はいない、という表情、態度をぶつけ合うことが、お決まりになっているわけだ。ああいうところで、「どうぞよろしくお願いします。」とか行って愛想笑いを浮かべて握手を求めるボクサーがいたら面白いだろう。かえって殴られたりするかもしれないが、そのようなボクサーが実際の試合では相手を圧倒したとしたら、痛快だろう。
 そこで考える。ニホンザルは、ヤクザは、ボクサーたちは自己愛的なのだろうか? やはり中国という国について考えたのと似たような議論になる。彼らにとってはそのような態度がお決まりになっている。それは彼らの社会におけるルールのようなものだ。そしてそのルールに従っている際には、互いに相手を自己愛的とは感じないのかもしれない。お互いが互角同士だと感じるだけだろう。そこには互いに持っている実力を照合しあう、嗅ぎ分けると言ったニュアンスしかない可能性があるのだ。他方ナルシシズムを考える時は、その人の持つ特性、性格傾向ということを前提としている。その議論は社会のルールとして力を示し合うような人々、動物などにはどうもなじまないのである。