2013年10月7日月曜日

「再固定化」概念の見直し(3)

神経回路一本の連結のみで生じる「再固定化」の例

再固定化の例として、こんな思考実験を考えた。仕事の上での同僚Aさん。どうもいい印象がない。面と向かって話したことは一度もないが、いつも人を上から見下すような、自信ありげな強い口調がイケスカないのだ。ところがある時、そのAさんが、B県のC高校の出身であることを知った。ナンだ、同郷ではないか。それに学年もあまり違わない、ということはどこかですれ違っていた可能性もある。すると途端に印象が違って来た。自分はB県人だし、B県出身の人間はとっつきにくいが悪い人間はいないと思っている。Aさんもぶっきらぼうで言葉は荒っぽいが人は悪くないのかもしれない。今度飲みに誘ってみよう、と思うようになった。
 この場合AさんとB県人とのネットワークは一本でつながる。するとAさんのイメージは、B
人というイメージに強く影響を受けることになり、Aさんの心証はガラッと変わってしまうことになるだろう。(図をかくのに時間がかかったから、これで一回分。)

 






2013年10月6日日曜日

「再固定化」概念の見直し(2)

昨日は一日中いやな雨。津田ホールで精神分析協会による「公開講座」に出席。北山修先生司会、藤山直樹先生との討論という形を取った。久しぶりに人前で話すのが非常に気が進まないという体験を持った。基本的に自分の考えを伝えることは好きだ。でも人前で話していて楽しくない。注目を浴びてもうれしくない。高揚感もなく、でもやるべきことをこなしている感じ。でも北山先生にいっしょにラジオ番組をさせていただいた時は楽しかった。つまり人目にさらされることがうっとうしいのである。書く、ということはその種の問題が除外されるから割と無理なく自己主張が出来る。
ちなみに昨日の公開講座、結果的にはとてもいい刺激を受けることが出来て楽しかった。

再固定化と新たなネットワークの形成
ここで私の考えはいよいよ訳がわからなくなっていく。再固定化って、そんなに特別な現象ではなく、たとえば気付きとか、「あ、そうか!」体験で起きていることとあまり変わらないのではないだろうか? これについて少し考えて見よう。
 そもそも私たちがある事柄について決して忘れないような体験をする時、脳の中で何が起きているのか?例えば長い間考えあぐねていた問題にあるヒントが与えられ、そこから一気にその問題が解決したとしよう。いわゆる「あ、そうか!」体験。これは一度それが生じた場合には、二度とそれを忘れることはないだろう。その意味ではその問題に関する思考そのものが変質し、再固定されたということになるのではないだろうか。しかしここで再固定化された際の脳の中の機序はある意味では容易に想像できることだ。「心から見える脳」である。(ナンの事だ?) つまりはちょうど円環の最後がつながった状態。神経回路が形成されて、ネットワークAとネットワークBがつながった状態。これによりABが同時に興奮が可能になった状態である。ああ、Aって、結局Bなんだという体験。ちょうど水をたたえた二つのダムの間に掘られたトンネルのようなものだ。シャベルによる最後のひと堀りで両者がつながる。それと同じようにABだったんだという体験が一回でも起きたら、それ以降ABが別個に興奮することはない。必ず同時に興奮するのだ。しかしそれにしても水路の場合は、実際にトンネルがつながるのだが、神経ネットワークに関しては、なぜ一瞬生じた疎通が一生続くのだろうか? そのために、一回の記憶が半永久的に続く状況を思考実験を通して考えて見る。
 例えばあなたがパソコンの入力画面で4ケタのパスワードを求められ、適当にそれをでっち上げたとする。あいにく書きとめるメモ用紙もペンもなく、しばらく頭の中で転がしておかなくてはならない。何しろ一度忘れたら大変なことになる、貴重なパスワードだとしよう。頭の中で何回も唱えることで当座はそれを保つが、何か別の事に気を取られるとわすれてしまう。これはいわゆるワーキングメモリーの状態だ。最初の数分間だけ持つ。そのうち海馬の働きで長期記憶に引き継がれる。こうなるとしばらくは忘れない。それをしっかり保っていれば、数週間で大脳皮質に移される。これで半永久的な記憶になる。
 このプロセスで起きるのは、たとえば3.5.4.1という数字のつながりであり、それを形成するエングラム、つまりは「サンゴーヨンイチ」という音ないしは視覚像だが、もちろんサン、ゴ、ヨン、イチは別個に知っているので、それぞれをつなぐ繋ぎ目の部分の接続がより確固たるものになって行くことになる。4つのリングの結び目だけ新しく作ればいいというわけだ。このプロセスは再固定化とは関係ないが、再固定化が生じる際に脳に何が起きているかを知る手掛かりになる。

さて「あ、そうか!」体験はそれまでの思考が一歩進んで変質した、という意味では再固定化に近いプロセスではどうか。やはり同じようなことが起きると考えるべきだ。まず、「そうかABなんだ!!」という感動があるだろう。そしてそこで扁桃体の興奮と共にワーキングメモリーはほぼ自動的に回転し、長期記憶の形成にまでスムーズに流れて行く。これは先ほどの「パスワードを忘れたら大変なことになる!」という人為的なモティベーションの代わりに自然な形で生じる、つまり感動によるワーキングメモリーの維持ないしは長期記憶の形成である。でもパスワードの場合と本質的には変わらない。というよりはパスワードでは3本のかけ橋、神経回路の形成が必要だったが、この場合はもっと単純な、エングラムABとの間の一本のかけ橋になぞらえることが出来るのだ。
  ここで扁桃体による興奮の部分を考えて見ると、それはミスマッチによる意外性が関係しているとは考えられないか? ミスマッチによる「えっ、そんな見方があるんだ!」「なに?そんな反応ってあり?」みたいな体験が扁桃体を刺激し、そこで新たに形成された神経回路を強化するということではないだろうか
?

2013年10月5日土曜日

「再固定化」概念の見直し(1)



「再固定化」は強力な概念であり、また現象であるが、私自身は納得していない(もちろんよく分かっていない、ということもあるが)。それは記憶の再編だけの問題なのか?たとえば誰かのある一言をきっかけにものの考え方が変わるのはなぜか?自己価値観の変化は?自分を受け入れられるようになるのは?
 例えばこんな例を挙げてみる。私がある本を出す。読者はたいていは私からは見えない。ところがある読者から、「とても面白かった」というコメントをもらうとする。私は当然うれしいし励みになる。やる気が出る。あたりまえでよくある話かもしれない。同じようなことは治療場面でも生じるかもしれない。勇気づけ、ポジティブなフィードバック、自己価値観の向上、等様々な呼び方がなされるだろう。しかしこれも私はTRPのプロセスではないかと考えるのだ。自分の中で何かが変わるただし変わったのは「記憶」という呼び方が適切ではないだろう。
 あるいはこんな例。ある幼少時に非常につらい思いをして、人を信用できなくなっている人との面接。何度か(何年か?)のかかわりを通して、少しずつこちらを信頼し、その人の他人とのかかわりの持ち方全体が変わっていく。これもTRPではないか? 純粋な記憶が問題ではないけれど。
 もう一つの例を加えておこう。昔のあまり思い出したくない出来事を治療者により尋ねられた女性。それまでほぼ忘れていたことがその晩から思い出されて、感情が非常に不安定になる。フラッシュバックが頻発し、不眠気味になる。これもTRPではないか?ただし逆方向に働いた場合である。臨床をやるものとしては、脳科学的にこれらとTRPと類似した機序で起きるのか、それとの異なるのかについて知りたいところだ。
 自分の本に対するイメージ、という最初の例を考えてみる。これは記憶ではなく、一種の印象のようなものだ。私にはほんの表紙のイメージが浮かび、細かい内容についてはその章の一つ一つが思い出せるが、一挙に押し寄せてくるわけではない。そしてそれに対して「まあまあの出来」とか「恥ずかしい出来」とかの評価を下している。「面白かった」という読者の反応を受けた前とあとで、私が持つ本の具体的なイメージ(黒の表紙、本文の章立て、など)は代わらない。その評価が少し変わるというわけだ。これは記憶か?必ずしも。思考内容か?おそらく。なぜならそれを点数化することが出来なくもないからだ。読者の反応を受ける前は自ら60点に採点していた自分の本を、読者の葉書を読んだあとは75点に修正する。これも思考内容の変更であり、認知の変化であり、再固定化ではないか? 待てよ?認知療法で生じることも再固定化か???

2013年10月4日金曜日

解離とトラウマ記憶、そしてTRP(6)

 別人格と再固定化というテーマで最終的に提言できることを書いているわけだが、「別人格には主張がある」という仮説は、これが遁走になると、事情がよくわからない。遁走中の人格はしばしば人格的には白紙のような存在で、必要最小限の意識レベルで行動しているかのようであり、そうすることで何を主張したいのかは不明なのである。茂原の高3女子の件が報道されているが、御本人に会わずして何とも言えないが、やはり朦朧として最小限の判断力で徘徊していた可能性がある。ちょうど意識状態としては非常にプリミティブな古代人に戻ったかのような???
 解離性遁走にはわからないことが多いが、おそらく人間の心にはある種の「古代人的」な人格状態モード(コンピューターで言えば、DOSモードのような)が存在し、そこへの回帰が時々原因不明ながらも起きるのではないか?古代人への回帰願望?古代人からのメッセージか?遁走状態にみられる自我の在り方は、いわゆる文化結合症候群に見られるそれにむしろかなり近い。アイヌのイム、東南アジアに見られるラター、アモックなどにかなり類似している。突然あるプリミティブな人格状態になり、急速に回復して健忘を残す。DIDによる人格交代と、遁走における人格状態の変化との違いは何か?
 おそらく人格状態の交代には、二つの要素がからんでいることになる。一つは主人格のストレスの大きさないしはストレス耐性の弱さであり、もう一つは交代人格の持つ「出たい」という衝動であろう。おそらく人格Aがストレスに耐えられず、また人格Bが出番待ちをしているというタイミングが重なれば、AからBへの移行が生じる。しかしAがストレスに耐えられない時に、Bに相当する人格がまだ存在しない、あるいは未形成な場合はどうか? おそらくそれが遁走を生むのであろう。遁走がしばしば全生活史健忘を生むのは、人格Bに相当する状態が、それ自身の生活史を持たず、いわば白紙の状態でAの人生を引き継いだ状態と仮定することが出来る。
 ということで何ともわけのわからない終わり方だが、私自身はこれがまとめの作業になっている。TRPの考え方は、DIDタイプの人格交代に対してはある程度の応用が可能だが、遁走タイプに対しては未知数である。 (おしまい)

2013年10月3日木曜日

解離とトラウマ記憶、そしてTRP(5) 

ともかくも解離を防衛として解釈し、それが再び出現することを抑える必要があると考えることは、必然的にそれを生むにいたったと考えられる日常生活上のストレスやトラウマに対して腫れ物に触るような態度を示すことになる。しかし解離症状に必要なのは、それが日常生活に支障をきたす形で起きる際にはそれを扱わざるを得ないという、ある意味では自明な姿勢である。

 ということで解離とTRPに関して、何かまとめのような考察をして終わりにしよう。
 ひとことで言えば、別人格とのかかわりは、それがTRPとしての意味を持つ形で行なうべし、ということだろうか。私が出会った人格たちの多くは、さまざまなトラウマ記憶や不満を抱えている。自分が人格として認めてもらえない、異なった性の体に閉じ込められている、自分の人生を歩めない等の不満や不幸を抱えている。それらの体験を訴えるような形での出現の仕方をする。
 それではなぜ人格の交代が生じるのか? 本当のところはわからないが、それは今まで果たせていない自己表現の機会を求めてのものと考えるのが一番近いように思う。各人格ごとに、自分を表現したい、わかってもらいたいという願望を持つのだろう。というよりは、そのような願望を持つ人格が出現する傾向にある、と考えるべきかもしれない。時には別人格への移行が、あたかもカタルシス効果を求めているかのような生じ方をすることもある。職場での勤務を続けていると、そこでのフラストレーションの度合いに応じて、子ども人格の出現を抑えがたくなるという体験をよく聞くが、これは内側からの衝動として感じるのであろう。ただし子ども人格の出現とともに主人格は意識を失うということであれば、彼(女)は正確にはカタルシス体験を持たないことになる。
 ともあれそのような形で出現した人格を治療者が敬意をもって接することは、それそのものが「ミスマッチ」としての体験を生む可能性がある。なぜならそれまでは交代人格は出現してもそうと認められず、自己表現をする場を常に排除され続けてきた可能性があるからだ。自分は自己主張を許されない、あるいはたとえしても認められない存在、という体験を持ち続けることの多かった交代人格は、「存在を認められる」という新しい体験を持つことになる。それがどのような形で、最終的にはその出現頻度の減少や、よりメリハリのある出現の仕方に変わっていくかは不明であるが。そしてさらには、そのような推移を「再固定化」と呼んでいいかも疑問ではあるが。

2013年10月2日水曜日

解離とトラウマ記憶、そしてTRP(4)

解離を必ずしも防衛と捉えないこと

米国で臨床をしている時に、時々出会ったのは、解離性健忘に対するかなり偏った考え方を持つ臨床家であった。彼らは患者がある事柄についての健忘を起こしていると知ると、基本的には患者にその記憶内容に触れさせないようにした。たとえば突然職場を出奔して見つかった時に、過去3か月間の記憶がなかったとすれば、そしてその間に上司との口論があったことがわかったなら、患者になるべくその出来事については耳に入れないようにするという「配慮」をするのである。とはいえもちろん全く耳に入れないわけにいかないので、徐々に患者を記憶に慣らしていくわけであるが、その根拠となるのは、「解離性健忘はストレスやトラウマから逃れるための機制だから、その時のことを思い出させることで、再び遁走が起きてしまうかもしれない。」というロジックだった。
以下略

2013年10月1日火曜日

解離とトラウマ記憶、そしてTRP(3)

さてそれとは別に一見ANP的な子供人格はどうなのか?ここで急に子供人格をANP的、EP的という風に分けてしまっているが、実際に子供の人格を見ると、それがトラウマを背負っている場合と、一見そうでない場合に分かれる。このうち後者をここでANP的、と呼んだわけである。ただし本来ANPとは、Apparently Normal Part とつまり「一見正常な(人格)部分」という意味である。そして子供の人格がその人(一応成人とする)にとって「正常」に見えないとしたら、このANPという呼称は当てはまらないことになる。
 以下略