2013年10月3日木曜日

解離とトラウマ記憶、そしてTRP(5) 

ともかくも解離を防衛として解釈し、それが再び出現することを抑える必要があると考えることは、必然的にそれを生むにいたったと考えられる日常生活上のストレスやトラウマに対して腫れ物に触るような態度を示すことになる。しかし解離症状に必要なのは、それが日常生活に支障をきたす形で起きる際にはそれを扱わざるを得ないという、ある意味では自明な姿勢である。

 ということで解離とTRPに関して、何かまとめのような考察をして終わりにしよう。
 ひとことで言えば、別人格とのかかわりは、それがTRPとしての意味を持つ形で行なうべし、ということだろうか。私が出会った人格たちの多くは、さまざまなトラウマ記憶や不満を抱えている。自分が人格として認めてもらえない、異なった性の体に閉じ込められている、自分の人生を歩めない等の不満や不幸を抱えている。それらの体験を訴えるような形での出現の仕方をする。
 それではなぜ人格の交代が生じるのか? 本当のところはわからないが、それは今まで果たせていない自己表現の機会を求めてのものと考えるのが一番近いように思う。各人格ごとに、自分を表現したい、わかってもらいたいという願望を持つのだろう。というよりは、そのような願望を持つ人格が出現する傾向にある、と考えるべきかもしれない。時には別人格への移行が、あたかもカタルシス効果を求めているかのような生じ方をすることもある。職場での勤務を続けていると、そこでのフラストレーションの度合いに応じて、子ども人格の出現を抑えがたくなるという体験をよく聞くが、これは内側からの衝動として感じるのであろう。ただし子ども人格の出現とともに主人格は意識を失うということであれば、彼(女)は正確にはカタルシス体験を持たないことになる。
 ともあれそのような形で出現した人格を治療者が敬意をもって接することは、それそのものが「ミスマッチ」としての体験を生む可能性がある。なぜならそれまでは交代人格は出現してもそうと認められず、自己表現をする場を常に排除され続けてきた可能性があるからだ。自分は自己主張を許されない、あるいはたとえしても認められない存在、という体験を持ち続けることの多かった交代人格は、「存在を認められる」という新しい体験を持つことになる。それがどのような形で、最終的にはその出現頻度の減少や、よりメリハリのある出現の仕方に変わっていくかは不明であるが。そしてさらには、そのような推移を「再固定化」と呼んでいいかも疑問ではあるが。