2025年6月30日月曜日

ギルの「ヒアアンドナウの転移解釈」 2

 ギルのまずおおもとの議論から始める。

転移の解釈=転移を自覚することへの抵抗の解釈+転移を解消することへの抵抗の解釈 という公式。

頭では知っていたが、改めて、「何じゃこりゃ―」。何なの、これ。

ハッキリ言って私はこれ以上読み進める気がうせたが、もう少し頑張ってみる。そうか、これまで40年間、ここで嫌になってこのギルの理論の理解を拒否していたのだ。ちなみにこの前半部分(転移を自覚することへの抵抗の解釈)はこれまで無視されてきたというのだから、ギルのオリジナルというところがある。ギルは、転移が正しく理解されないのは、フロイトの考え、すなわち転移とは患者の他者との関係の持ち方のパターンを意味するという考えをちゃんと理解していないからだと言う。こうしてギルはあくまでもフロイトに忠実であるという姿勢を示す。そしてフロイトは意識的で抵抗とならない陽性感情もしっかり転移の中に入れており、このことは忘れるべきではないとギルは言う。ここら辺のギルの理論は常識的だ。

 ちなみにこの点を後世の分析家はかなり批判的に受け止めているのも確かだ。フロイトはこの「意識的で‥‥」は分析する必要がない、と言っているわけだが、それが後世の分析家たちにとっては気に食わないのだろう。すべてを病理にしてしまいたいという彼らの姿勢がそこにはあるように思えるが、それは私の個人的な見解だということにしよう。

 その後のギルの記述は今読んでもとても刺激的ではある。フロイトの常識的な考えはあまり後世の分析家には省みられなかったということを、ギルは伝えているのである。そして「転移は歪曲 distortion である」という誤った理解を、アンナ・フロイトも、グリーンソンも、フェニヘルも犯しているというのだ。彼らも敵に回しているのか。

さてこの「何これ?」の二つの区別の話に入る。(転移の解釈=転移を自覚することへの抵抗の解釈+転移を解消することへの抵抗の解釈。)彼はまず転移の解釈とは転移抵抗の解釈の略だという。なぜなら転移は、「意識的で・・・・」という例の陽性転移以外は無意識的であり、なぜならそれは意識化に抵抗しているから、というのだ。そしてその中に二つがあるという。① 表向きは転移ではないものが転移のほのめかしを含んでいるという解釈。② 表向きは関係性に関するものについて、現在の分析関係の内外の決定事項を有するという意味で転移である、という解釈である。そしてこれは分かりやすく言えば、関係に関する間接的な言及か,、直接的な言及か、という違いだという。そして前者の例としては、ドラのケースで、彼女がK氏について言っていたことは、暗にフロイト自身についてのことだったということが挙げられるという。

何かまだるっこしいが、19ページ目に例が上がっているのでわかりやすい。

自覚への抵抗の解釈の例としては、「あなたが奥さんとの関係について話したことは、私たちの間でも起きていることのほのめかしですね。」


ギルの挙げている例を見て、なあーんだ、という感じ。ギルの十八番の「転移を自覚することへの抵抗の解釈」という概念については、私は大いに問題あり、とみる。一体奥さんとの関係の話が、治療関係の仄めかしであるというエビデンスはどこから来るのか? 一歩間違うと患者から「先生はすぐ私たちの関係に引き付けますね!」と言われてしまう。つまりとんだ誤解である可能性もあるのだ。

この論点は、「分析家は患者より知っている」という考えに基づくが、それは現代の精神分析ではこのままでは通用しないのだ。

2025年6月29日日曜日

遊びスライド 4

4.遊びは脳のシンクロのためのトレーニングである

再び予測誤差について

人間は常に予測誤差を最小化するように自分の活動を制御している。それにより思い通りに歩け、字を書き、人の話を理解する。

対人関係においてもお互いが同期化するためには、相手との違いを常に知り、それを減らしていく必要がある。

「生物は常に予測誤差の最小化を求めている」 ← これは本当か??


ところが予測通りの体験は面白くない!

人間の体験は適度のPEで成り立っている。

相手の行動により生まれる予測誤差は適度でなくてはならない。

というよりじゃれ合いは予測誤差が生じる楽しさではないか。

じゃれ合いは、相手からの見せかけの攻撃がこちらの予想を適度に外れることによりその楽しさが増す。

予測誤差が大きすぎる場合----見せかけの攻撃が痛みを伴ったり恐怖感を与えてしまう。

予測誤差が小さすぎる場合----同じことの繰り返しによるマンネリ化を生み、興奮を伴わずに退屈になる。



実際のジャレ合いで起きていること

お互いが「なんちゃって攻撃」を行う。しかしそこで一番面白く、興奮するのは、ギリギリの「なんちゃって攻撃」である。

ギリギリの「なんちゃって攻撃」が可能なためには極めて高度の予測誤差の調節が必要となる

→ じゃれ合いは結局は予測誤差の最小化に貢献する。



結論:遊びは脳のシンクロのためのトレーニングである


2025年6月28日土曜日

ギルの「ヒアアンドナウの転移解釈」1

ギルの「ヒアアンドナウの転移解釈」再考

マートン・ギルの言う「ヒアアンドナウの転移解釈」がよくわからなくなってきたので、原典に戻ってみた。Analysis of Transference Volume 1.(1982) だ。 この本の、それこそ最初にヒアアドナウという言葉が登場するまでの Introduction の数ページを読んでみる。わかりやすい日本語に直してみる。

「分析では転移の解釈が大事だと言われているのに、最近ちゃんと行われていないよね。彼らが注目していないのは、実際のセッションで起きている非明示的 implicit な転移の表れなんだ。フロイトは患者ともっと自由に交流したのだ。今の分析家たちは交流しないことで、転移が実際の状況と混じらないように出来ると思い込んでいる。しかし分析は対人関係的 interpersonal なものなのだから、交流しないということもすでにある意味では一つの交流の仕方なのだ。そのような態度も結局は混じりこんでるじゃんと言うのがギルの姿勢。  ここら辺はとても関係論的で現実的だ。分析家が交流してもしなくても、いずれにせよそこから転移が編み出される weave のだ。転移をうまく操作するために一切かかわろうとしない問題についてはリプトン (1977) も指摘しているところだ。要はフロイトが行ったように、より自由な関係を持っても、それが転移に与える影響をわかっていれば、十分にそれを分析して活用できるのだ。私が強調しているヒアアンドナウの転移解釈は・・・・」

と、ここでようやく「ヒアアンドナウ」というタームが出てくる。

 この文で分かる通り、ギルは特に定義をすることなく、ヒアアンドナウの転移解釈について語っているところが面白い。彼の言い分は、フロイトのように、もっと治療者は患者と interact することで色々な転移が起きるよ、それを分析しようよ、ということだ。わかりやすく言えば、ヒアアンドナウとは、実際の状況を考慮せよ take the actual situation into account (p3)、ということだ。そしてそれは自由な関わりを持て、と言い換えることが出来る。それは「今ここで起きていることにもう少し注目すべきだ」という意味ではない。やっぱりね。そうだと思っていた。と言うのも治療者がなるべくかかわりを制限すること restrict the interactions を行いつつ、今ここで起きていることに注目しても、ギルはそれをヒアアンドナウと呼ばないだろうからだ。自由に関わり、そこでの実際の状況をより豊かなものにして、それを利用せよ、ということを言っているらしい。結局ヒアアンドナウとは、「自由なかかわりによる現実的状況」ということになろう。これは別に何であってもいい。分析家がくしゃみをして、患者が「先生も風邪をひくんですね」と言ったとする。これは「ヒアアンドナウ」だ。(最近のタームで言うと、これってエナクトメントじゃないか???)

ただ分かりにくいのは、ギルの主張は転移を意識化することへの抵抗をもっと扱え、ということになるが、これって患者が分析の外のことを話す内容に注意を払いましょう、ということになる。なぜならすべての話が今ここの現実の状況に関係しているからだ、という理屈になる。これってどうだろう? かなり疑問が残る主張だ。

2025年6月27日金曜日

週一回 その18

 海外における治癒機序に関する理論

  ここまでで論じた我が国における「コンセンサス」(「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」)は海外での精神分析の議論にも見られるのであろうか?結論から言えば、少なくとも英語圏での文献や情報からは、そのような「コンセンサス」が存在するとは言い難いということである。

 まずは我が国の「コンセンサス」のきっかけとなった「ヒアアンドナウの転移解釈」に関する議論の歴史について触れる必要がある。米国においても Strachey により提唱された転移解釈(変容惹起性解釈)の重要性についての議論は、Merton Gill の「ヒアアンドナウ」の転移解釈の議論に引き継がれることで「新たな活力を得た」(Wallerstein p.700)と言われる。そしてよく知られる1960年代からのメニンガークリニックにおける精神療法リサーチプログラム(以下「PRP」)においても「ヒアアンドナウの転移解釈が絶対的な技法である interpretation of the transference in the “here and now” as the absolutely primary technical mode」という Strachey および Gill の提言は、一種の「信条credo」として謡われていたという。(Wallerstein p55)。
  しかしこのPRPの研究の結果として得られたのは、ヒアアンドナウの転移解釈の絶対性ということは証明されず、治療はケースによりそれぞれ独自であり、解釈による洞察以外にも様々な支持的な要素が入り混じった複雑なプロセスであるということが示された(注3)。

注3)メニンガーのPRPにおいては、42人の患者を精神分析(週4回)と分析的精神療法に分け、後者を表出的精神療法(週2~3回)、支持的精神療法(週1~2回)と分類したうえで詳細な研究が行われた。そして精神分析においてはヒアアンドナウの転移解釈が最も重要なテクニックとして用いられた。しかし精神分析として開始した患者のうち比較的分析手法が守られたのは10名ということだった。そして精神分析の対象となった患者の一部は、極めて支持的な手段である入院を必要に応じて併用していたという。この研究をまとめて、Wallerstein は、「ヒアアンドナウの転移解釈が治療効果を発揮したとは言わず、表出的な側面と支持的な側面が複合的に働いた」と結論付ける。そしてむしろ精神分析が受けられない(経済的な意味で、あるいは患者にとって適切でないという意味で)ケースの治療に重点を置かざるを得なくなったという。このPRPで用いられた表出的精神療法と支持的精神療法という分類はその後多く用いられるようになった。


2025年6月26日木曜日

週一回 その17

我が国の「週一回」の議論の特徴とその限界

 これまでに見た我が国の「週一回」の議論および「コンセンサス」は、山崎氏その他の検証に示されるように、ある一定の学問的なレベルに至っていると考えられる。そこでの「コンセンサス」、すなわち「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」ことの根拠としては、週4回という治療構造では供給が十分であり、容易に転移の収集が出来るが、「週一回」ではそれが難しいということである。そしてそこでは基本的には Strachey や Merton Gill による here and now の転移解釈を治癒機序として重んじるという立場に立つ。

 さて以下の章で海外の文献について論じる前に、上記の議論に関して差し当たって二つの疑問点を呈することが出来よう。

 

     <以下略>


2025年6月25日水曜日

週一回 その16

 週一回に関する「コンセンサス」とPOST

 以上に見た藤山氏の提言と高野、岡田氏の論文は、いずれも「週一回」においては、Strachey により提唱された精神分析的な治癒機序としての転移解釈を行うことの難しさや困難さについて論じていたが、我が国における最近の「週一回」についての議論もおおむねその考えに賛同し、受け入れる方向に向かっているという印象を受ける。山崎氏の論文(2024、p73)にはこの藤山の提言をより詳細に検証しつつ、支持する形をとっている。
 山崎氏は Meltzer や飛谷氏らの論文を参考に、「転移の集結」(転移がおのずと集まること)と「転移の収集」(転移を能動的に集めること)という概念を使い分ける。そして分離を体験するための密着な体験が、週4回以上に比べて週一回では得られないために、この転移の集結が生じにくいというD.Meltzer の見解を支持する。さらに山崎氏はそれを例証するような臨床素材を示している。氏は週一回のケースにおいて転移が当面性を有していなかったにもかかわらず、その解釈をすることによる能動的な「転移の収集」を試みて、その結果として失敗したという自らの治療経過を示す。そして氏が「転移の収集は転移解釈によりなされる」という考えを「週一回」に「平行移動」させてしまったことがその原因であったとする。

 山崎氏はこれまでの「週一回」に関する議論を総括したうえで、「『週一回』は『分析的』にするのは難しいという結論が出ているといっていいだろう」(2024,p20)。とし、これが最近の複数の分析家や精神療法家の間のコンセンサスであるという考えを示す。そしてそれにもかかわらずこれまで彼らの多くが「『週一回』は『分析的』でも精神分析的に行えるというごくわずかな可能性に賭けることで、『精神分析的』というアイデンティティを維持しようとしてきた」のだという(2024,p19)。  ここで理論的な整理のために、この山崎氏の示す「『週一回』は『分析的』にするのは難しい」と言う現在の療法家が下した結論を「コンセンサス」と言い表して論を進めよう。この「コンセンサス」とはより正確には、「週一回では、治癒機序としての転移解釈を用いる治療は難しい」と言う立場と言える。 

そのうえで山崎氏が提案するのは、精神分析との違いを明確にしたうえで、「週一回」それ自身が持つ治療効果について考えることである。これは上で見た高野氏や岡田氏の論文にもみられる方向性と言える。山崎氏は便宜的に「週一回」を【精神分析的】心理療法と精神分析的【心理療法】とに分ける(2024,p22)。このうち前者は「週一回」でも分析的にできる、という平行移動仮説水準のレベルにとどまっている。そして後者をPOST(精神分析的サポーティブセラピー)として新たに定義する。つまりは「週一回」を「コンセンサス」をもとに概念化したものが、POSTというわけである。  このPOSTの流れはそれに関する成書も出され、一定の認知を得ているために詳述は避けるが、このPOSTの概念的な位置づけについては、山口氏のまとめが参考になる。それによれば分析においては【分析的】では転移を扱うが、【心理療法】(すなわちPOST)では「無意識については扱わず(言及せず)に意識を大切にし、なるべく転移を扱わないというのがその方針としてあげられる。そして「転移―逆転移についての理解は治療者のこころの中に留め置く」(岩倉ら、2023)とし、それはまた転移を「拡散する」とも表現されている(山崎、p81、山口p246,247)。


2025年6月24日火曜日

週一回 その15

 読み直したら、かなりいい加減なことを書いていた部分。

 藤山氏により先鞭がつけられた「週一回」の議論に、さらなる弾みをつけたのが、2017年に発刊された「週一回サイコセラピー序説」(北山修、高野晶編、2017)という著書である。この本では藤山氏に加えて、北山修氏、高野晶氏、岡田暁宜氏といったこの議論を先導するベテランの論者たちの考察が提出され、それらを含めて「週一回」をめぐる議論の基盤が出来上がった印象がある。この中で高野氏、岡田氏の論文に言及しておく必要があるだろう。

北山修、高野晶編(2017)週一回サイコセラピー序説. 創元社.
岡田暁宜(2017)週一回の精神分析的精神療法におけるリズム性について. 北山、高野編(2017)第1章(45-60).
岡田暁宜(2024)週一回におけるヒアアンドナウの解釈について 高野、山崎編(2024)第2章(31-44)
 高野氏は精神分析協会で精神分析的精神療法家の資格を有しているという独自の立場からこの「週一回」について論じている。その中で「週一回」は精神分析と似たところがある、という立場を高野は「近似仮説」と呼んだ(高野、2017)。そして日本の精神分析会はこの前提に立って「壮大な実験が行われた」(高野、2017,p.16)と見るべきであるとする。またこの仮説が現在まで支持されたという結論は出せないとする。
 この1017年の高野の論述は抑制が効きかつ常識的であり、「週一回」は「プロパーな分析に近付くことを第一義とするのではなく」、患者の側のニーズなどの「現実も視野に入れつつ」「身に合うあり方についての検証」を必要としているというものである。すなわち高野自身もおおむねこの「近似仮説」を棄却する立場を取っているのだ。
 山崎はこの「近似仮説」という概念について、精神分析と「週一回」との違いを、平行移動できるか否か、の二者択一ではなく、「どこが似ていて、どこが似ていないか」と言う相対的な議論として提示したのであるとし、その意味では藤山の「平行移動仮説」に基づく理論を「もう一歩推し進めて抽出したものだ」とする(山崎,2024)。つまり「週一回」を否定的な文脈のみでとらえず、その独自性を模索するべきだという立場を表明しているのだ。 

もう一人、精神分析家の立場から岡田暁宜氏の論文(2017)についても取り上げたい。岡田は精神分析とは異なる「週一回」の独自性を論じる点で、高野の考え方に類似する。岡田は「[週一回とは]『日常生活や現実に基づく』という点にその真の価値があり」それは「日常生活や現実という大地の中の砂金を探すような作業」(p.58)という。ここにはFreud のよく知られる比喩が背景にあることは言うまでもない。Freud は精神分析を純金としてたとえ、そこに示唆 suggestion 等の余計な混ぜ物をすることを戒めたが、岡田氏は「フロイトの比喩は純金に銅を混ぜることを示しているが、銅に純金を混ぜることを示してはいない」(p57)とし、少なくとも週1回を、精神分析未満として終わらせることへの抵抗を示しているといえる。
岡田氏はさらに2024年の論文「週一回の精神分析的精神療法における here and now の解釈について」で持論を展開する。彼は「解釈は現在でも精神分析の中心的な技法である」(p35)という立場を表明したうえで、やはり「週一回」という治療設定は、「治療関係における絶対的な時間的な接触の不足」(p.41)のために転移が結実しにくいとする。そのうえで「週一回」におけるヒアアンドナウの解釈を意味あるものにするための3つの留意点について述べる。このように岡田の議論は「週一回」の現実に基づいた独自性について強調する一方では、砂金に象徴されるヒアアンドナウの転移解釈を「中心的な技法」(p.35)とみなすという点では、藤山説と重なる面を持つと言うことが出来るだろう。


2025年6月23日月曜日

遊び スライド 3

 2.遊びのプロトタイプとしての「じゃれ合い(RTP)」について

遊びのプロトタイプとしての「じゃれ合い(RTP)」について

遊びの一つの典型としてのじゃれ合いは盛んに研究されている!

ラットが特に好むのが、いわゆる「じゃれ合い rough and tumble play」 である。

じゃれ合いがなぜこれほどに動物に遍在するのか?
1.それが精神の安定、不安の軽減につながるから。
2.将来の闘争や性行動の雛形として意味を持つから。
3.ジャレ合いは快感につながるから。
ラットには「遊びの脳内回路」があり、それが系統発達的に受け継がれてきているのだろう。
ジャレ合いによりラットの中脳水道周囲灰白質(PAG)(快感に関係する部位)が興奮する。

→ 遊びは快感なのだ。

ただし人間における父と子の間のジャレ合いは攻撃性を助長する可能性がある

ジャレあいが、動物においては実際の戦いや交尾の準備を意味するためか。
じゃれ合いでネガティブな感情が伴う場合、父親が主導権を取れていない場合は、子供の攻撃性につながる。

Smith, P. K., & StGeorge, J. M. (2022). Play fighting (rough-and-tumble play) in children: developmental and evolutionary perspectives. International Journal of Play, 12(1), 113–126.
Flanders JL, Leo V, Paquette D, Pihl RO, Séguin JR. Rough-and-tumble play and the regulation of aggression: an observational study of father-child play dyads. Aggress Behav. 2009 Jul-Aug;35(4):285-95. 


2025年6月22日日曜日

遊び スライド 2

 1. 遊びと同期化


●「遊び」がどうして治療につながるのか?


古典的な分析的治療モデルとしての転移解釈と洞察

患者はある種の知的な理解(洞察)を得ることで変わる。

治療者「あなたは私を怖い父親のように感じていますね」
患者「そうか、これまでそういう風に人を見ていたんだ。」


● 現代的な治療モデルとしての、関係性の中での「出会い」

精神分析における「出会い」の議論

スターンらの「出会いのモーメント」

解釈を超えた「何か」としての「出会いのモーメント」

「今のモーメント」は伝統的な治療的枠組みが壊される危険にさらされる時に起きる」(p.25)。例えば・・・・(p.25)

・被分析者がやり取りをやめ「私のこと、愛していますか?」と聞く時。

・患者が何かおかしいことを言い、二人が大笑いをする時。

・患者と治療者が外出先で出会い、何か新しい相互交流的、

間主観的な動きが展開する時。


● J. ホームズ(愛着に基づく精神療法の提唱者)の理論

・ボウルビーの愛着理論は子供時代の関係性が成人の生活に与える影響や、情動的な自由の安全性の重要性を説く。

ホームズはここに最新の脳科学の知見を取り入れる

治療においては心の同期化(シンクロニゼーション)が生じている。そしてそれはメンタライゼーションと同義である。

・アラン・ショアの右脳間の一致のモデル

・ホームズはこれを自由エネルギー理論(フリストン)の予測誤差最小化の理論と同義であるという。

予測誤差最小化こそ心の持つ至上命令である ← 一体何のことだろうか?

2025年6月21日土曜日

遊び スライド 1

 話の内容がまとまってきたので、スライドつくりに入る。

🔵「遊戯療法と精神療法- 両者の懸け橋としての愛着理論」

私の立場:精神科の臨床医、精神分析家
「精神療法は常にプレイセラピーである」が持論となっている

🔵 精神療法における遊びの瞬間とは?
何かを一緒に行った体験 冗談を言って一緒に笑った体験 世間話をした体験 治療者が自己開示をした体験 患者の専門分野について尋ねた体験

🔵 遊びとは‥‥

その重要な要素は、ある体験を共有すること、同じ感情体験を持つことではないか。

2025年6月20日金曜日

週一回 その14

 この論考、あとはぐるぐる推敲しているだけだ。でも推敲するたびに、少しずつ形が整ってくるのは少し快感である。

1.はじめに

 この論考は我が国の精神分析学の世界において過去10年あまり継続的に議論が行われている「週一回精神分析的サイコセラピー」というテーマに関して、 現代的な精神分析理論の立場から再考を行うことを目的としている。

 このテーマについての議論は当精神分析学会で一つの盛り上がりと学問的な進展をもたらしている。その流れを俯瞰した場合、そこに様々な議論が存在するものの、全体として一つの方向性や考え方が一定の支持を得ているようである。それは精神分析がもたらす治癒機序について、その意義や有効性を考えるためには、週4回以上の精神分析を前提としたものであるということだ。すなわち週一回の低頻度の精神療法を精神分析的に行うことは非常に難しいと言う考え方である。その議論そのものは一貫し、整合性のある議論と言える。しかし他方には、精神分析理論を学び、その影響を大きく受けた治療者が行う精神療法はその大多数が、週一回ないしはそれ以下の頻度で行われているという現実がある。その低頻度の精神療法において精神分析的な理解やそれに基づく技法の有効性が制限されるとしたら、それは非常に残念なことと言えるであろう。
 現代の精神分析は多元的であり、治癒機序に関しても様々なモデルが提案されている。その視点から、海外の文献を参照しつつ、週一回の精神療法における転移の扱いについての妥当性について検討を加える価値があろうと言う考えが、筆者が本稿をまとめる主たる動機である。

(以下略)

2025年6月19日木曜日

加藤隆弘先生への討論

 先日精神分析協会の集まりで、高名な加藤隆弘先生(北海道大学精神科教授)の講演の討論者として話す機会があった。

以下はその抜粋である。


加藤先生の行なった画期的研究では、いわゆる信頼ゲームを、ミノサイクリンを内服する被検者とコントロールで比べたというものです。するとミノサイクリン内服群(すなわちマイクログリアの活性を抑えられた人たち)はこの信頼ゲームにおいて強面の男性プレイヤーや、魅力的な女性プレイヤーに対する過剰な協調的行動が抑制されたということです。そしてそれがマイクログリアによる生の本能や死の本能との関りを意味しているのだということですが、その働きはかなり込み入っているようです。自分の理解のために整理していると、それは以下の項目にまとめられました。

  • MG(マイクログリア)の高活性と鬱や自殺、トラウマ、拘束との関連性。

  • MG活性低下で強面や魅力的な女性に協力しなくなった。逆に言えば、MGは怖さや魅力により判断力にバイアスをかけるという可能性。

  • 無意識のノイズ、ある時はイド,ある時は超自我、すなわち意識化されていないレベルでの影響。

  • ただしMGは生の本能:炎症を抑える、脳保護的なサイトカイン(BDNF)をも放出する。しかしMGは諸刃の剣であり、死の本能もつかさどる(炎症を惹起するサイトカイン(TNF-α, nitric oxide)の放出。)


さて加藤先生のご発表の一番キモの部分です。加藤先生の神経―グリアネットワークという概念について。これは次のようにいうことが出来るでしょう。

AIはニューラルネットワーク(NN)のみから構成されるが、脳はそこにグリアが入っていて「ニューラルグリアネットワーク、NGN」と表現することが出来る。そしてこのグリア、特にマイクログリアが様々なノイズ、あるいは分析的な概念ではエスや超自我、ないしは転移、逆転移を生み出すことで私たちは中立になれない。すると私たちが行う分析のトレーニングは、グリアをコントロールし、支配下に置くためのものである、という考えです。これは素晴らしい発想だと思いました。まさに脳科学を心の科学に結びつける理論だと思いました。


         (以下略)

2025年6月18日水曜日

遊び 推敲の推敲 9

 ちなみに多少前後するが、最適なPEが快感を呼ぶ、ということを示す理論として二つ挙げられる(とチャット君が教えてくれた)。

① Optimal Arousal Theory(最適覚醒水準仮説)ヤーキーズ・ドットソンの法則と呼ばれる、パフォーマンスと緊張の関係を表した理論。


② Flow Theory(Csikszentmihalyi)

これも有名だ。スキルが高くなるとそれなりに難しい課題により興奮を覚える。PEMをかなりのレベルで達成している職人や音楽家にとっては、それに高いレベルでチャレンジしてくるような課題が一番やりがいがあるのだろう。


  • チクセントミハイのフローモデル(Wikipedia より)





2025年6月17日火曜日

小寺セミナーの締め切り迫る

 皆様

小寺関係論セミナー(臨床と性愛性)の締め切りが迫っていますので再び告知いたします。

https://forms.gle/BThcw5kxzYCjcCoz8 





遊び 推敲の推敲 8

 このように考えると、私たちの体験する楽しみには、ほとんど常にこのPEMが凝らされていることがわかるのだ。例えば芸人がネタを考える。絶妙なタイミングで言葉を発して、それが観客の笑いを生む。これはとても微妙な予測誤差を含むからだろう。そしてそのために芸人が考え、準備をし、練習を重ねてそれを披露するのだ。この際の予測誤差最小化のための努力はいかなるものだろう。  では芸術はどうだろう。バイオリニストが奏でる名曲。しかしそれが感動を与えるのは、正確無比な技巧だけではなく、そこに微妙な形で込められた「溜め」や「揺れ」のせいだろう。そこにそのバイオリニストの独自のセンスや感情が伝わるのだ。これももともと楽譜通りに正確に弾くという技術がなければ不可能な芸当なのだ。PEMによる精緻な技巧があってこそのズレ、適度のPEが感動を与える。  あるいはスポーツは? リオネル・メッシが試合でディフェンスに対峙して見事なフェイントや股抜きでかわす。ディフェンスもメッシも予測誤差を最小化する努力を常にしていて、それをより高度に行った選手が勝つことになる。観客はおそらくどちらかに同一化して、相手の動きの予想外の動きに驚嘆し、熱狂する。これは両者の技術の高さがあって初めて成り立つのだ。そして観客もそれ相当に目が肥えていなくてはならない。さもなければ「なんであんな単純なフェイントによる動きを予測できないんだ!へたくそ!」ということになり、キレの悪いフェイントで相手を抜いたメッシも、それによりまんまとぬかれたディフェンスも感動を与えることはないだろう。

2025年6月16日月曜日

週一回 その13

 結論:現代的な視座から見た「週一回」について

  最後に現代的な視座から見た「週一回」についての総合的な論述を行う。

 第一章では、我が国の「週一回」に関する「コンセンサス」すなわち「週4回では転移解釈が可能だが週1回では難しいため、精神分析とは言えない」に関して、二つの問題点を指摘した。
 第一点目は、この線引きが恣意的である可能性である。「週一回では転移解釈が難しい」ということは一般的な傾向としては言えるかもしれないが、転移の集積は週4回という設定でも自然と生じない場合もあれば、週一回でも転移関係やその取扱いを含むより充実した関係性が築かれることもあるからである。
 第二点目は、「コンセンサス」は 数十年前に提唱された Strachey の提言を治癒機序として最上のものとして持ち越している点である。治癒機序の議論も多元的になりつつある現代においてそれを「平行移動」して論じることには問題があろうと言う点であろう。

 第二章では英語圏に見られる傾向について検討したのは上述のとおりである。そしてそこに見られる傾向は、我が国における「コンセンサス」と一部を共有するものの、それとの違いも明らかであるという点だ。その特徴をまとめるならば、精神分析と精神療法の差はむしろ相対化されており、面接頻度に関して言えば、週一回も精神分析的精神療法として数えられるということである。ただしそれはスペクトラム上はより支持的な要素が強まるものとして扱われているのだ。


(以下略)
 

2025年6月15日日曜日

遊び 推敲の推敲 7

  そこで遊びはさらに次の段階に入る。  Aは今度は、「本気で当ててくるふりをして寸止めをする」という、新たな戦法を編み出すとしよう。これはいわば「フェイント」を含み、それまでのどの戦法とも違うので、Bの予想を大きく裏切ったとしよう。つまりこの時結構大きな予測誤差が生じる。そしてBはスリルを覚え、これを楽しいと感じるとしよう。彼は「おっと、危ない危ない」などと言って嬌声をあげる。そして今度はAがBからのパンチがどのようなものになるかを予測する番だが、もはやそれまでの「わざとパンチをそらす」(95%)「軽く当てる」(5%)ではないだろう。なぜなら両者には新たなレパートリーである「寸止め」が加わったからだ。つまりお互いの予測はかなり様変わりしたことになる。しかしお互いにまだ新戦法には慣れていないので、「パンチをそらす」80%、「寸止めをする」15%という感じでまだ寸止めは最上位ではない。  さてこのように考えるとパンチの応酬によるじゃれ合いは、常に程よい予測誤差を生み出そうとするやり取りだと考えることができるだろう。ここでの程よい、とはこれがとてつもなく大きい誤差を生じる場合には、単なる恐怖体験になってしまうからだ。例えばBはAを驚かそうとして本気でAにパンチをくらわすとしよう。Aにとっては(そしておそらくBにとっても)もはや遊びではなくなり、Aは鼻血を流して遊びどころではなくなり、助けを求めることになりかねない。だから予測誤差は小さすぎても大きすぎても効果は低くなる。  ところがここで重要な点を指摘しなくてはならない。それはこの「ほど良い予測誤差」を生むためには、高度の技術が必要であり、それこそそれに熟達する過程でさらなる予測誤差最小化を伴う必要があるのだ。なぜならそれは単に相手に全力でまっすぐなパンチを与えるのではなく、強すぎもせず、弱すぎもせずの適度な予測誤差を生むように巧妙に仕組まれている必要があるからだ。  このことは playfulness を考える上で極めて重要な示唆を与えてくれる。遊び心は予測誤差最小化のためのかなりの訓練を積むことによってしか実現しない。これが遊びの重要なテーマなのである。 

2025年6月14日土曜日

遊び 推敲の推敲 6

 ではじゃれ合いが予測誤差の最小化につながるのか。

では実際のジャレ合いの場を想定しよう。

じゃれ合いではまず一方(Aとする)は相手を殴ると見せかける。ガオーっと襲い掛かるのだ。相手(Bとする)はこいつは本気で殴っては来ないと高をくくってくる。なぜならそのようなことは一度も起きていなかったからだ。そしてこれまでのパンチのやり取りの経験から、結局は「わざとパンチを逸らす」が100%起きるということが分かれば、そう予測することで予測誤差ゼロになり、殴り合いは遊びの要素を失ってしまう。ところがここで20回に一度ほど、「わざと軽く当ててくる」ということが起きるようになったとする。AかBがそれを最初に初めて、お互い時々それをやるようになる。最初はこれはお互いにヒヤッとし合うのは、拳が真正面に向かってくるからだ。「危ない」と一瞬思う。さてもしこの20回に一度という確率が変わらないなら、予測誤差はどうなるか。実は常に存在する可能性が有る。それは20回に一回の「そっと当ててくる」がいつ起きるかが分からない場合だ。
皆さんはランダムに報酬を与えられた際に一番それが嗜癖につながる、という原則をご存じだろう。レバーを押すと5%の頻度でシロップが出てくるとしよう。それが規則的に起きる際、例えば19回押すと水だけ出てくるが、次の一回はシロップが出てくる、というパターンが出来ると、それは嗜癖にはつながらない。意外性がないからだ。いつ、その二十分の一の出来事が起きるかが分からないから、スリルや期待があり、ラットはレバーを押し続けるのだ。

さてこの「わざとパンチを逸らす」という95%、「わざと軽く当ててくる」が5%というじゃれ合いは、しかしはあまり面白みがなくなってしまう。なぜならわざと軽く当てるパンチは痛くなく、安全であることを学習すると、結局は強いパンチはAからは繰り出されないことは分かっているからだ。どちらも侵襲性がない、という意味では「痛くないパンチが来る」確率は100%になってしまい、予測誤差ゼロで面白みも全くなくなる。


2025年6月13日金曜日

遊び 推敲の推敲 5

遊びは脳のシンクロのためのトレーニングである

この最後の部分はいわば結論に相当するわけであるが、遊びは心のシンクロを生むためのトレーニングであるということだ。(実は言葉のやり取りも、それを通して文法や自然な発音ないしは表現を共有していくプロセスであるが、これはまた別な話なので別の機会に触れよう。)

こう述べる理論的背景についてであるが、いわゆる脳の自由エネルギー原理(Friston)と言うものと一致している。そして予測誤差の最小化と言うことを言っている。でもそれはむしろ相手との心のシンクロを目指すものであり、相手と交互にやり合うじゃれ合いはそれとは無関係に思えるだろう。しかしここで私が主張したいのは、じゃれ合いは、シンクロを生むための心の装置だということである。いわばジャレ合いは楽しみながら急速に脳のシンクロを達成する機会なのである。じゃれ合いで起きていることを見てみよう。まず両者は1攻撃と遊びのギリギリの限界の上をさまよう。つまり攻撃の振りをし、相手はそれにヒヤッとする。しかし決して過剰な痛みを与えない。そのすれすれのところを行くので、そこにスリルが生じる。こちらも相手がこちらの予想を軽く裏切ってくることに怖さを伴ったスリルを感じる。ここで重大な原則があり、予測誤差は適度であることで人に快感を及ぼす。適切な度合いで相手を裏切り続けることが遊びの快感を生むのであり、相手の動きに驚くと同時に、こちらも多少予想外の動きをして相手の裏を描き、ヒヤッとさせようとする。動物がいかにこれを緻密に行っているかはその動きで分かる。例えばじゃれ合いではトラは爪を巧みに引っ込める。あるいは相手の目を直接攻撃しない。そしてそれは両者が傷つけあったり命を奪い合ったりするものではなく、お互いが怖くない存在になることなのだ。アメリカでは職場でリトリートというのを時々やり、職場で言葉や役割分担だけのやり取りが、ゲームをしたり、時には一緒にお酒を飲んで身の上話をしたりすることで、怖くなくなり、相手の手の内が分かるようになる。つまりはシンクロに急速に向かうわけである。交渉事が酒の席で行われたりするのは、そのような意味があるのである。


2025年6月12日木曜日

遊び 推敲の推敲 4

 このじゃれ合いが持つ生物学的な意義については様々に取りざたされているが、Siviy などの論文によると特に早期の母子関係がこの遊びに深く関係することがわかる。そこで重視すべきなのは、親との身体的な接触である。いわゆる LG (licking and grooming,ぺろぺろ舐められ、毛づくろいをしてもらうこと)が高値のラットは、その後は怖れが少なく、新しい環境での探索をし、驚愕反応も弱いという。そして15分ほど母親から分離されたラットは不安が少ないという。ただしラットは LG が低ければ遊びが増すという研究もあり、このLGと遊びの関係についての研究は相当ややこしい。(ちなみにラットの母親からの分離がなぜ不安を軽減するかについては、結局私自身がその意味をつかめていない。) また中枢神経興奮薬(amphetamin, methylphenidate ) などは遊びを抑制するという。そしてそれは遊びの際にはストレスに関係するノルエピネフリンが低下していなくてはならないからだ。要するに交感神経が興奮するような非常時には遊ぶどころではないというわけである。 結論としては、じゃれ合いは前頭葉、線条体、扁桃体のそれぞれが協調して働くことでじゃれ合いが生まれるということ。そして幼少時から遊ぶことが出来るということは刻々と移り変わる社会的、情動的、認知的なランドスケープを生き抜くために重要である、とのべて Vanderschuren & Trezza 2014)の論文を挙げている。RTPは社会性を身に着ける上で非常に功利的な手段らしいのである。

2025年6月11日水曜日

遊び 推敲の推敲 3

 遊びのプロトタイプとしての「じゃれ合い(RTP)」について

さて遊びについては、現在心理学の分野でもとても注目を集めている。それがいわゆる「じゃれ合い」という現象である。これは私の純粋な興味からくるのだが、私は動物の子供たちがお互いにじゃれ合う姿にいつも感銘に近いものを覚える。(youtube によく出てくるのだ。)なぜ彼らはあれほど憑かれたようにじゃれ合いをするのか。そしてそれはいつも私が子供とやったじゃれ合いを思い起こさせる。子供との体験で一番楽しかったのが、このじゃれ合いだ。そしてそれがある種の学問的な対象になっているのを知って、とても興味を持った。

例えばラットに見られるじゃれ合いについて、人間とラットとの間でそれを演じることで様々な実験が行われているのだ。それはじゃれ合いは、その動物の個体にとって極めて重要なプロセスであること、そしてそれは将来の他者とのかかわりあいを有する上で、とくに攻撃性の発揮や性的な関わりのにつながる極めて重要なプロセスであるということを伝えている。

ここで遊びに関して一番エビデンスを与えてくれる動物実験を紹介しよう。ベルリンのフンボルト大学の研究チームは、ラットの脳内に「笑いと遊び心を制御する神経回路」を発見したと報告した。(「ナゾロジー」のサイトからhttps://nazology.kusuguru.co.jp/archives/130792#google_vignette )


ラットはとにかく遊び好きらしい。youtube でも人がラットと遊ぶ動画がたくさん出てくる。私たちはペットの犬や猫が遊び好きであることはよく知っているが、ラットも相当の遊び好きであり、実験者とキャーキャーと声をあげて騒ぐという。人間の子供が遊ぶときキャーキャーというが、ラットのそれには馴染みがないのも無理はなく、ラットの嬌声は高周波の超音波レベル(50~55KHz )で、人には聞き取れないからだ。
 さてラットが特に好むのが、いわゆる rough and tumble play であり「喧嘩ごっこ」と言う訳が一応当てはまるらしいが、私はこの文章では一貫してこれを「じゃれ合い」と表現することにする。それは偽りの攻撃と偽りの防御を交互に演じることになる。そしてもしラットの脳のPAGという部位を破壊すると、くすぐられても声をあげず、遊びに興味を失ってしまうというのである。そして研究者はラットの実験を通して、遊びが生物に共通した起源をもっているのではないかと論じる。
以下の論文をもう少し読んでみよう。
Siviy SM. A Brain Motivated to Play: Insights into the Neurobiology of Playfulness. Behaviour. 2016;153 (6-7): 819-844.
この研究によれば、ラットには「遊びの脳内回路」がしっかりあり、それが系統発達的に受け継がれてきているのだろう。中脳水道周囲灰白質(PAG)という快感に関係する部位が興奮する。つまり遊びが快感を呼び起こすのだ。要するに遊びは強烈な快感を引き起こすために、ラットは成長の過程でそれを回避することはまずありえない。そしてラットは彼らにとっての「思春期」に至るまで、ジャレまくるという (Panksepp,1981)。それは生後35日がピークに当たるそうだ。(はやいな!)そして興味深いことに、じゃれあうカップルは抑えたりたたいたりを大体均等に行うという。つまり追っかけたり、追っかけられたりが交互に行われ、決して一方から他方への追跡行動が続くわけではない。もしそうであればパワハラになってしまうのだ。ここがとても大事である。 またジャレ合いはラットが隔離されている時間に比例して起こるという。つまりしばらく隔離されていると、より激しく長時間遊ぶという。