2025年6月28日土曜日

ギルの「ヒアアンドナウの転移解釈」1

ギルの「ヒアアンドナウの転移解釈」再考

マートン・ギルの言う「ヒアアンドナウの転移解釈」がよくわからなくなってきたので、原典に戻ってみた。Analysis of Transference Volume 1.(1982) だ。 この本の、それこそ最初にヒアアドナウという言葉が登場するまでの Introduction の数ページを読んでみる。わかりやすい日本語に直してみる。

「分析では転移の解釈が大事だと言われているのに、最近ちゃんと行われていないよね。彼らが注目していないのは、実際のセッションで起きている非明示的 implicit な転移の表れなんだ。フロイトは患者ともっと自由に交流したのだ。今の分析家たちは交流しないことで、転移が実際の状況と混じらないように出来ると思い込んでいる。しかし分析は対人関係的 interpersonal なものなのだから、交流しないということもすでにある意味では一つの交流の仕方なのだ。そのような態度も結局は混じりこんでるじゃんと言うのがギルの姿勢。  ここら辺はとても関係論的で現実的だ。分析家が交流してもしなくても、いずれにせよそこから転移が編み出される weave のだ。転移をうまく操作するために一切かかわろうとしない問題についてはリプトン (1977) も指摘しているところだ。要はフロイトが行ったように、より自由な関係を持っても、それが転移に与える影響をわかっていれば、十分にそれを分析して活用できるのだ。私が強調しているヒアアンドナウの転移解釈は・・・・」

と、ここでようやく「ヒアアンドナウ」というタームが出てくる。

 この文で分かる通り、ギルは特に定義をすることなく、ヒアアンドナウの転移解釈について語っているところが面白い。彼の言い分は、フロイトのように、もっと治療者は患者と interact することで色々な転移が起きるよ、それを分析しようよ、ということだ。わかりやすく言えば、ヒアアンドナウとは、実際の状況を考慮せよ take the actual situation into account (p3)、ということだ。そしてそれは自由な関わりを持て、と言い換えることが出来る。それは「今ここで起きていることにもう少し注目すべきだ」という意味ではない。やっぱりね。そうだと思っていた。と言うのも治療者がなるべくかかわりを制限すること restrict the interactions を行いつつ、今ここで起きていることに注目しても、ギルはそれをヒアアンドナウと呼ばないだろうからだ。自由に関わり、そこでの実際の状況をより豊かなものにして、それを利用せよ、ということを言っているらしい。結局ヒアアンドナウとは、「自由なかかわりによる現実的状況」ということになろう。これは別に何であってもいい。分析家がくしゃみをして、患者が「先生も風邪をひくんですね」と言ったとする。これは「ヒアアンドナウ」だ。(最近のタームで言うと、これってエナクトメントじゃないか???)

ただ分かりにくいのは、ギルの主張は転移を意識化することへの抵抗をもっと扱え、ということになるが、これって患者が分析の外のことを話す内容に注意を払いましょう、ということになる。なぜならすべての話が今ここの現実の状況に関係しているからだ、という理屈になる。これってどうだろう? かなり疑問が残る主張だ。