2016年10月20日木曜日

ある講演 ⑥

 父親から虐待されるというケースを考えた場合は、それを母親に言えない、あるいは母親がそれを取り合ってくれないということが起きます。また母親に虐待されたら、父親は仕事に忙しくて、それどころじゃないということで、話を聞いてくれず、結局気持ちを誰にも表現できない、ということが生じます。こうして非常に孤独な子供時代を過ごすという状況は、多重人格を形成する一つの重要な要因になります。そうすると親の前で表現できない、例えば子どもらしい自分は、将来、自分を分かってくれるような、自分を優しく包んでくれるような対象が見つかったときに、初めて解放されるわけです。
 Tさんの場合、自分を分かってくれる優しい旦那さんに出会ったのは、40代になってからです。そうしてさまざまな人格部分が、いわば箍が外れる形で解放されて、一時的に解離症状が、ワーッと花が咲く状態になる。いろんな人格は、入れ替わり出てくるということが起きてくる。
 そしてその中で恐らく一番ケアしてほしい人格、子どもの人格等が、これまで遊んでもらえなかったということを、父親代わりとなったその旦那さんとの間で体験するということが起きるわけです。
 
  <中略>

 次の方を紹介しましょう。

  <中略>


 これは私が患者さんの話を聞いて、こんな感じのことが起きてるのかなというふうに、イメージを、あるイラストレーターに描いてもらったものです。この絵ではマイクロバスの一番前の女性がハンドルを握ってるんですよね。そして後ろの席に幾つかの人格が存在してるという模式図です。要するに解離性同一性障害の場合には、運転台に座るのは、いつも1人で、だから各人格は一度に1人しか出ないわけです。言葉を話すのは1人ですからね。そして他の人格は横から眺めていたりとか、後ろのほうに行くと、もう寝ている状態だったりするわけです。だから多重人格の中には100とか、200とかいう人格を持ってるというふうに記録されてる人たちがいるんだけど、あまり驚くにはあたらず、それらのほとんどが寝ている状態です。映画で言うエキストラのようなものだ、と私は言うんですけど、エキストラ人材みたいに、あんまり本人にとって重要じゃない人格は、細分化されているんだけども寝ている状態。そして重要な幾つかのキャラクターというのは、運転台の周りで、自分が今度は運転してやろう、みたいな感じで、取って代わろうとしてる子どもの人格がいたりする。そういうような存在として描くことができるんです。
 これも私の下手な絵なんだけども、この運転台に座っている主人格にとっては、しばしば後ろが見えない状態なわけです。そして後ろの人格は前が見えているということでもって、主人格、あるいはより正確には基本人格のことですが、生まれながらの名前を備えているのです。つまり戸籍名がAさんとすると、彼はちっちゃい頃からAさんだった。虐待を受けて気を失ったのもAさん。そのAさんは、運転台にずっと座っていて、後ろのことを一番よく分かっていなくて、他の人格のことを知らない。ところが後ろにいる人格、例えば人格Bは、しばしば子どもだったりするんですけども、よく前を見渡せていて、実はどんな人格が、どんなことをやっているかを、すごくよく見えていたりします。そうするとAさんにとっては、後ろで起きてることは健忘を残すわけです。健忘、要するに、後ろの人格がやったことに関しては、全然覚えてないというじょうたいになる。
 この人格に関しては、このBさんとかCさんが、何かをしてるときにも後ろで見てるので、大体、記憶を持っているということが起きる。だから、それぞれの人格は、それぞれ、どの人格とコミュニケーションを取ることができて、どの人格と敵対的で、どの人格と共闘を組んでてみたいな、派閥みたいなものをつくってるということは、臨床上うかがわれます。それで、こういう絵を描いてみました。
 これは私たちの多重的な心の在り方と、多面的な心の在り方です。多面的な心の在り方っていうのは、自分たちは保護者だったり、講師だったり、臨床心理士だったり、母親だったりという、いろんな多面体の、いろんな面を持っていて、それぞれがクルクル回転することでもって、いろんな面をパッパッと切り替えて表現することができるんだけども、多重人格の場合、輪切りになっていて、それぞれの間にスイッチングが起きなくちゃいけない。スイッチングが起きると、Aの人格はB、Bの人格はCみたいな感じで、移っていくしかないという、そういうような形を取る。それは社会的には不便になるわけです。


質問者 人物を呼び出すときは、催眠療法で呼び出すわけですね。それで一番最初、そういうふうな診察のときに、誰を呼び出すというか、そういうのは分かるんですか。

岡野 患者さんがまず見えて、今はお幾つですか、どなたとお暮しになっていますか、今日はご気分はどうですか、どんな生活をなさっていますか、みたいなことを聞くじゃないですか。通り一遍のことを聞くわけですよね。最初のアセスメントの部分に当たるのは、どの患者さんと最初に会っても、そうですね。そして一段落ついた時点、15分ぐらい聞いたときに「ところで」と言って、解離性の疑いがあるという場合には、より早く、こういう質問をします。「お名前はAさんですね。今、私がAさんというふうにお呼びして、実感がありますか?」って聞くわけです。そうして「実は」ってことになると、「そうではないんですね。なんとお呼びしたら、一番実感が湧くんですか」というふうに聞いた場合に、「Bなんです・・・」みたいな形で、そこから話が始まるとしたら、それからは、もう話が早くて、「あなたの中に幾つかの状態があるということを、おっしゃってるんですね」と。「じゃ、こうやってBさんと話してるとき、Aさんは、どのくらい後ろで聞いてるのか。どうなんでしょう?」みたいなことを、すごい具体的に、淡々と聞いていくという形で入っていくわけです。

<以下省略>

2016年10月19日水曜日

ある講演 ⑤

 最近ツンデレなんて言葉を聞きますが、ふつうはツンツンしてて澄ましている印象の人が、実は本当はこんなに感情豊かだった、とか、あるいはその逆とか。普段はとても優しいはずの人が、お酒を飲むとすごくねちねち意地悪になったり、暴力的になったりとかいう場合に、その人の心の別々の部分は一体どういうふうにつながってるんだろう、と皆さんも疑問に思うでしょう。別の部分を普段から抑えていたんだろうと考えると、その人はすごい大変な生活をしてるんじゃないかなって考えたりする。でも解離ということを考えた場合には、別々の心の部分というのは、箱に一応入って格納されてて、今はこの自分でやっているのであり、状況が変わると別の部分に置き換わる、という仕組みを考えると、あまり心を複雑なものとして考える必要はなくなってくる。この人の行動は、何らかの無意識の作用が働いて、心のある部分を抑圧することで成り立ってるんだろう、みたいなことを、あんまり複雑に考える必要はなくなってきます。この人は普段はAの路線でやってる。私が知ってるAさんはそうだ。でも、この人の仕事は、学校の先生で、生徒の前では、すごい怖い先生らしい。つまりBの路線でやっているらしい。ABはそれほど違っていても、うまく使い分けられているのだ、と考えると分かりやすい。そういうふうに考えるとこの解離というとらえ方は、解離性障害の人たちについて考えるときにのみ役に立つかっていうと、案外そうでなかったりするということがあります。
 昔、フランスのパリにシャルコーという人がいました。1880年ぐらいに活躍した人です。今から百数十年前ですね。実は、この解離と抑圧という今の議論を、最初に生むきっかけになったのは、このシャルコー先生でした。シャルコー先生の火曜講義というのがあって、そこには解離性の症状を次々と出す、そしてシャルコー先生の暗示によって、いくらでも解離性の症状をデモンストレートすることができる患者さんがいました。シャルコー先生は彼女に催眠をかけ、「不思議なことが起きるでしょう、ヒステリーの患者さんってのは、こんな症状も、あんな症状も出せますよ」。「まひが起きますよ。はい、まひを起こしてください。ほら足がまひした。これがヒステリーの症状なんですよ。はい、失語症になってください。ほら声が出なくなったでしょう。こういう症状は出るんですよ」、みたいな形で、いろんな症状を患者さんに出させて供覧させるということがありました。火曜講義に出てそれを見た人たちがいて、そのなかにフロイトとジャネがいたんです。もちろん同じ講義に出たというわけじゃないんだけども、フロイトはシャルコーの火曜講義を見て、「何てすごいことなんだ」。ジャネはその前から解離の研究をやってたんだけども、パリに出てシャルコー先生の講義を聴いて、ヒステリー、あるいは今でいう解離性障害を目の当たりにして、「シャルコー先生はすごい!」などと感心して、それから、それぞれの理論を立てたわけです。
 フロイトは、それに対して抑圧理論を立てたんです。ジャネは解離理論を立てた。この辺は先ほど言った通りです。そして両者は対立することになります。有名な火曜講義の絵があり、その真ん中にいてシャルコーに支えられているのが、ブロンシュ・ウィットマンさんという女性です。この人は後で、かなり演技をしていたということを言いました。シャルコー先生が「この症状を出して」って言うと、ウィットマンさんは先生の言うことを聞かなくちゃいけないっていうんで、かなり演技をしていたということです。ちなみにこの絵の中に、フロイトとかジャネは描かれていません。
 一方のフロイトは「ヒステリー研究」において、最初はブロイアーとともに解離現象に着目したのですが、やがてこの概念には満足できずに、欲動論とセットになった抑圧理論に移っていったのです。もうちょっと理論的な説明に我慢していただくと、ヒステリー研究をフロイトと書いたブロイアーという人はフロイトより十数歳年上ですけども、金銭的にいろいろフロイトを援助をした人でもあります。その人とフロイトがヒステリー、今で言う解離性障害についての本を書いて、ブロイアーさんは解離ということに注目したわけです。ただし彼は解離という言葉を使わずに、類催眠状態という言葉を使いました。
 類催眠状態というのは、今で言う解離と同じことです。ブロイアーさんが言ったのは、ある心の衝撃を受けた場合に、人間の心は一種のもうろう状態になって、そこで解離が生じるということです。ところがフロイトは、その類催眠状態、解離状態という理論について、最初は賛成していたんだけども、そのうちに反対するようになりました。フロイトがブロイアーに対して、反対して唱えたのは、次のことです。「解離みたいなことは起きなくて、そこで人格が二つに分かれるみたいなことは、あり得ないことだ。」それは必ず、意識が思い出したくないことを、心に押しやることによって生じることなのだ、と考えた。そういう意味では、フロイトは、あくまでも心は一つというふうに考えたというところがあります。
 フロイトは、なぜ類催眠状態・解離状態を棄却したかというと、思考が病的になるのは、それが自我の外にとどまるからだが、そこで類催眠状態という概念を用いるとしたら、いかなる心理的な力も、抵抗も起きる必要はないことになる。意識のスプリッティングは、あくまでも患者の意図的な行動に起き得るべきだ。それが精神力動学である、という考えでした。これは、さっき言った説明と同じです。すなわち心の中で、ある見たくないもの、思い出したくない記憶があると、心はぎゅっと力を込めて、それを下に押しやる。そうすると忘れたくない記憶は「忘れないでくれ」と言って騒ぐ。それは抑圧されているもの。そもそも人間の心っていうのは、そういうふうにして成り立つというふうに考えた。
 ところがブロイアーさんは、あるトラウマが起きると心が解離状態になって、スプリッティングが起きて、そうすると心の底に箱が出来上がって、その箱に、ある別の人格状態が閉じ込められるっていうふうに考えた。そうすると、フロイトの場合の意識っていうのは、というか心っていうのは一つなんです。で、意識があって、無意識があって、この奥に抑圧されたものがある。解離っていうのは、意識Aと意識Bが分かれるといった、私が一番最初から説明している見方です。あたかも情報処理中枢というのがABという別々のもの、あるいは解離の患者さんの場合、もう5とか、10とか、20とかいうオーダーで起き、それぞれが自律性を持つということが起きます。
 そうするとBさんという子どもの人格が出てきた場合に、大人の人格AさんはBさんのことを、ある程度、知っていることになります。ある程度コントロールしているから、それに対する扱い方っていうのは、「Aさん、きょうはBちゃんという子どもの人格を出すことでもって、何を表現したいんでしょう」というふうになる。それが恐らく分析的な扱い方です。でも解離的な理解をする治療者の扱い方は、「Bちゃん、初めまして。こんにちは。急に出てきて怖くない?」。あるいは「どうして出てきたの? 何か言いたいことがあったの? 先生のこと、初めて見たの?」。それが解離を扱う際の本来あるべき姿です。正しい扱い方というふうに、私が言わなくちゃいけないのは、患者さんの体験から考えた場合に、Bちゃんという子どもが出てきて、本当に訳が分からなくなっていて、そして、ここ、どこなんだろう。目の前にいるお兄さん、誰なんだろう。お兄さんでも、おばさんでも、おじさんでもいいけど。そうすると、そのおじさん、おばさんである治療者から「初めてで怖くない?」というふうに言ってほしい。もし、それを言わないと子どものBちゃんは怖くて、また中に入っちゃったりするかもしれないのです。

           <以下省略>



2016年10月18日火曜日

ある講演 ④

 余談ですが、私はずっとアメリカにいたんで、Windows 95日本版というのを使ってたんです。あちらでコンピューターを買うと、インストールされているのは全部英語のWindows 95なので、日本語など打てない。それで日本語版、Windows 95Jというのを入れるんですよ、コンピューターにインストールするわけです。後の方のWindowsなら、たとえばXpだと多言語的じゃないですか。言語を選んでクリックすればいいわけです。それ以前は、95のときには英語版のWindowsと日本語版のWindowsが別々だったんですよ。そうすると両方をインストールして、その頃ロスにスイッチャーというソフトを開発した日本人がいて、そのスイッチャーを入れて、Windows 95の英語版、日本語版というふうにスイッチングしてたんですね。そのたびに再起動するような感じで。つまり二人の人格をスイッチさせていたようなものです。
 普通コンピューターは一つのOSしかないんだけども、その中に例えばWindows 95の日本版と、英語版が分かれて入っていたりして、かと思うとDOSで立ち上がったりするみたいなことが起きるとすれば、それが多重人格の一つのアナロジーとして考えることができるでしょう。
 常識的なことを、もうちょっとお話しすると、解離性障害の具体的な現れとしては、解離性障害と転換性障害があります。今でも、DSM-5になっても、こういう分かれ方がしています。で、解離性障害といったら、意識の在り方の突然な変化が起きます。転換性障害といったら、今度は知覚とか運動の機能が突然失われてしまう状態。これを分けています。ところがICDでは、この二つは両方とも解離性障害と呼んでいる。体の動きの一部が断裂・断線してしまって、勝手な動きをしてしまう。ヒステリーと昔言われていた状態の、ヒステリー性のてんかんが起きたりする場合には、まさに、そういうことが起きる。それから体の動き。体の動きが中心から離れて、勝手に自律的な運動をし始める状態。それが転換性障害です。解離性障害というのは、心が中心から離れて自律的に、例えば、さっきの女性のように昔の自分が叫びだす、みたいなことが起きる。両方とも起きてることは同じなわけです。だから両方とも解離性障害って呼びましょうというのは、すごく理屈にかなっている。そしてその方針をICDでは継続してるわけですが、でもDSMでは解離性障害と転換性障害を、いまだに分けているってことはあります。不思議ですね。
 きょうは理屈的なことは、あんまり話さないことを考えています。今までお話ししたことが割と理論的なことですが、この程度です。というのも解離の理論的な説明というのは、あまり考えられていません。というのは、複雑過ぎて分からないのです。だから今言ったような話ぐらいしか、私はできないです。

        <中略>

 幸か不幸かというか、不幸か、ですけども、精神科で解離性の診断がつくことは、今でも非常に少ないです。10年前は、もっと少なかった。今では解離性障害でしょうというふうな、当たりを付ける精神科医は増えています。その後、でも「うちでは治療できません」。「解離性障害だから治療ができません」という形で、「専門家の所に行ってください。ちなみに私は知りません」というふうになってしまうんですね。
 この方の場合も、数年前より精神科を受診するんだけども、正確な診断が告げられなかった。みんな首をかしげるだけ。「そんなばかなことはないでしょう、おかしいですね」。「幻聴ですか。統合失調症でしょう」みたいな。ちなみに解離性障害の場合、幻聴が、かなり頻繁に聞こえますので、そうすると古い教育を受けた治療者、精神科医なら、統合失調症というふうになってしまう。
 で、1回目は、この女性とお話をしたわけです。2回目に、旦那さんに連れられてやってきたときに、「実は、うちの家内3日前から声が出なくなりました。」さっきの失声ですね。

           <中略>


 むかしある患者さんが来て、「右手が、まひして動かないんです」とおっしゃいました。そこで「じゃ、やってみようか」って言って、催眠的な処置をすると「先生、手が動きます。不思議ですね。先生、すごいですね。」となりました。すると私はすこしいい気になってしまいます。良くないですよね。ただし時には患者さんの都合でスイッチングしたり、別の人格に代わったり、元に戻ったりみたいなことを、治療者が変わって行う、というニュアンスがあります。でも実は、一つの治療に向けてのステップであり、最終的には患者さんが自分で、「子供の自分が出てくる。大変だ、抑えなくちゃ」とそれを抑えることができるようになるのは、一つの治療の目標ともいえます。
 しばしば精神科医や心理士の先生方の声として聞こえてくるのは、解離を促してはいけない、別人格と接触しようとしてはいけない、呼び出してはいけない。なぜならそうすることで解離の病理を悪化させるからだ、という見解です。でも必ずしもそうではない、というのが私の考えです。一つの例ですが、Aさんという人に、Cさんという別人格がいるとします。Aさんは運転は出来ませんが、Cさんだと出来るとしましょう。おそらく教習所に通っている間は、呑み込みも早く、車に興味のあるCさんが登場していた可能性があります。
 そしてAさんが運転しなくてはならない状況になってしまう。しかし自分ではできないけれど、Cさんならできることを知っている。そこでCさんに代わってもらいましょう、ということを自分でできるようになるとしたら、それは一つの進歩でしょう。患者さんが心の中で念じることによって、いろいろな人格がどんどん好き勝手に出てくるという状態になっては困る、という臨床家も多いのですが、この様に考えれば、主人格が幹事役というかリーダー役が取れるようになると、それは状態の改善につながるであろう、という考え方があります。
 さて、もう少し理論的なことをお話しします。というのは、解離の話というのは、おそらくみなさんは聞いていてすごく混乱すると思うことだからです。過去の外傷的なストレスに関する記憶の欠如がある時、つまり昔のことを思い出せないってときに、皆さんは解離ということを聞く前は、「何だろう。フロイトは抑圧って言ったぞ。それは抑圧じゃないの。あなたは子どもの頃や若い頃のことを抑圧してるんですね。それについて一緒に考えていきましょう」でいいんじゃないの、と思うでしょう。それが心理学の王道と言うのかな、臨床心理の王道と考えるかもしれません。心理学は源流をたどると、フロイトになるわけですからね。
 そうするとフロイトの理論の中で、昔のことを思い出せないものの、それが今の自分に何らかの影響を与えている状態というと、抑圧しかなかったわけです。しかし今、解離という言葉が使えるようになって、われわれが、少なくとも私が提案してるのは、解離という見方も用いましょう。恐らく解離という見方をするほうが、抑圧よりも便利なことがありますよ、ということです。だから患者さんが、いつもと違うことを言ったり、いつもと人が変わった状態になったりとかいうことが起きた場合に、それは、この人の心の中に解離していたもの、言い方を変えると、その人の心の底の箱の中に入っていたものが、出てきてる状態なんだというふうに考えてください。それが解離と抑圧の違いだというふうに、大ざっぱに考えてください。
 解離というのは、心の中に箱があって、しまわれている状態のものです。抑圧というのは、いわば心の中で暴れてるものです。抑圧っていうのは心の中で力を振るっている、暴れている、「箱から出せ」と言っている。あるいは箱が半開きになって、「助けてくれ。出してくれ」っていうふうに声を上げてるから、意識は、それを心のどこかで気が付いて、「出てきちゃ駄目」って、ぎゅっと抑える。それが常に起きてるのが抑圧です。

 だから抑圧というのは、心が余分な力を常に発揮しなくちゃいけないし、心は抑圧してるものの影響を常に受けて、それが不安になったり、不眠になったりとか、あるいは強迫症状になったりとか、いろんな症状を招く、それがフロイトの抑圧理論です。解離は箱の中に入って、ふたが閉まってる。でも、さっき言ったように、ふたが開くときは、突然開きます。そうすると、ふたが開いて突然、中から出てくると、中の解離されてる部分は勝手な動きをします。でも普段は出てきません。そうするといつもと違う人が出現した。いつもはあんなに穏やかで優しいのに、なんでこんなに興奮したり暴力的になったりするんだろう、ということになります。

2016年10月17日月曜日

ある講演 ③

 ある講演 ③

(承前)

 なぜそれが大事かというと、無意識が声を抑えてると考えると、「あなたが自分を表現したくない原因というのは一体、何なんでしょう。あなたが声を失ったのは、いつですか。そのとき何かがありましたか。あなたの過去にさかのぼって、いろいろ考えてみましょう。」というふうに、どんどん探索していくことになるわけです。声が出せない無意識的な理由を探索していく。ところが掘っても掘っても、あるいは掘ろうとするその試みだけで、もう患者さん、来なくなっちゃったりする。だから失声が出てきたときの、一番の対処の仕方というのは、「今あなたは声が出ないという状態になっていますね。この状態が、いつまで続くかは分からないけども、日常生活をできるだけこれまでのように送っていけるような対処を一緒に考えましょう」。もちろん、これまで何回か失声がありました、こういうときに良くなりました、ということもあるでしょう。例えば、かつて旦那さんに暴力を振るわれた後に失声がしばらくありました、みたいな話が聞けるとしたら、その場合にはこの失声にはおそらく原因があるんですね、きっかけがあるんですねっていうことで、それに従って対処を考えることもできるでしょうが、多くの場合、失声の場合にはきっかけが明確ではなく、起こるのも突然、治るのも突然なんです。
 実は精神科的な症状のほとんどに関して、同じことが言えるのです。例えば過食をしてるとか、リストカットをしてるとか、自傷行為があるとか、そういうことがあった場合に、保護者も治療者も「どうしてそんなことをしたんですか?」と問い詰め、それを「取り締まった」り禁止したりする傾向にあります。しかし治療方針としては別の方法を取らざるを得ないということがある。そして解離性の症状の場合も全く同じです。
 さて解離とは何か、ということですが、図で説明しますと、真ん中の意識に、知覚とか記憶とかがつながっている。いわばコンピューターにケーブルでつながっている周辺機器だと思ってください。すると例えば、プリンターにつながるコードが断線すると、プリントアウトできなくなる。それが失声症に例えられるでしょう。それ以外にも知覚だけが切れて抜け落ちた状態、記憶だけが抜けた場合、情動が断裂すると何にも感じられない状態というふうに、心が持っているいろいろな機能のうちのどれか一部が切れた状態が解離というわけです。そしてこれはたいてい突然起き、突然回復します。あたかもスイッチングが起きるように。解離現象とはこのようにスイッチのオン・オフ状態のようなものです。人によっては診察室に入ると別の人格になり、ドアを開けて外へ出たら、もう元の人格に戻ったりするのです。
 ただしここでさきほどの話を思い出していただきたいのですが、例えば運動機能が切れてしまったとしたら、この中心の意識と離れてしまったネットワークというのは、自律性を増すということにもつながります。するといきなり感情だけが暴走するようになったりとか、いきなり体が動きだしちゃう。コックリさんみたいな感じで、手が勝手に動きだしちゃうみたいなことが起きる。解離っていうのは、定義上は、さっき言ったように、意識がまとめている機能が一時的に失われて、心の一部が停止するというわけですが、その上に切り取られた機能が独自に活動を始める状態でもあり、これがすごく重要なわけです。
 今のモデルっていうのを、もうちょっと解離性障害、特にDIDの状態に合った形で説明しましょう。人間には恐らくいろいろな意識状態があって、それぞれがつながっています。例えば私は今ここで話をしてるのですから、講師というアイデンティティーを発揮している。昨日だったら、私は外来の治療をしてきたので、治療者としての役割を果たしていました。皆さんの側では、今は受講生という役割、しかし家に帰ったら子どもに対しては父親の役割を発揮するかたもいらっしゃるでしょう。そしてそれらは恐らくあまり分かれることなく機能しているはずです。それを人間の多面的な状態とします。すると多重的な状態というのは、それぞれが1個ずつ分かれてしまい、突然、大人の自分として振る舞っていなくちゃいけないはずの状況で、子どもの人格が出てきてしまう、ということが起きます。
 先ほどの、切り離された部分が自律性を発揮する、という話ですが、人間の体にはそのような性質があって、私はよく例に出すのですが、心臓というのは一つの塊として拍動をしていますが、心臓を切り刻むと、それぞれが個別に拍動して、そしてもっと小さく切って、心筋という、ほんのちっちゃな、0.何ミリの細胞一個一個にばらして、顕微鏡で見ると、やはりそれそれ拍動するわけです。ただしその拍動っていうのは、みんなばらばらで、好き勝手に動いている。ところが心臓としてまとまった臓器になると、一つのリズムを持って拍動することになるわけです。心というのも似ています。ところがその心臓の細胞がバラバラに動き出す、という恐ろしい状態があり、それが心房細動という状態です。そうすると心臓がまとまって拍動して、血液を体中に送り出すことができなくなって、そしてそれが心不全につながってしまうわけです。解離っていうのは、そういうところがあります。先ほどの話にも出ましたが、私はよくこういうコンピューターの絵を描きます。解離とコンピューターのアナロジーです。CPUというのがあって、これが最近ややこしいのは、これがデュアルコアとかになってるんで、最初から二重人格みたいなんですが、まあ1個としましょう。そうするとスピーカーとか、プリンターとか、モニターとかマウスが、いろいろつながってるわけですね。そうすると、よくプリンターなんか、昔からコンピューターをいじってる人だったら、経験あると思うんですが、プリンターのドライバーをちゃんとインストールしないと、プリンターが暴走して、訳の分からない文字化けした何かを、延々とプリントアウトするってことが昔よく起きたんですが、皆さん体験ないかな。プリンターがうまくつながってないときって、狂ったように訳の分からない文字を打ち続ける、紙を何枚も無駄にするみたいなことが。プリンターが中心につながれていないと、しばしば、そういう暴走といったことが起きます。ですから、そういう意味では、このコンピューターのアナロジーとすごく近いところがあって、実はコンピューターのアナロジーというところでも改めて話すんだけども、例えばオペレーションシステム、OSってあるじゃないですか。Windows、私は95から使ってましたけども、大変な昔ですけども、Windows、最近の7とか8とかあるでしょう。そうすると7とか、8とかで動いてるといいんだけども、その中でDOSモードを立ち上げることができたりするわけです。そうすると解離の中にはDOSモードで急に動きだしちゃったコンピューターに似てるところがあります。それがいわゆるトランス状態によく似ています。その場合は人格もはっきりせず、もうろうとした状態になります。ちょうどレベルとしてはDOSに似ていますね。

2016年10月16日日曜日

解離の概念および治療 ⑥、 退行 ⑧

4)解離性同一性障害
DIDの記述がこの論文の重要な部分となるが、以前に書いた論文から引用できる部分を探すことにする。(とても最初から書くのは大変だし、その意味もないだろう。)そのDSM-5だが、DIDの診断基準のAは次のような文で始まる。「2つ以上の明確に異なる人格状態の存在により特徴づけられるアイデンティティの破綻であり、それは文化によっては憑依の体験として表現される。Disruption of identity characterized by two or more distinct personality states, which may be described in some cultures as an experience of possession.」(DSM-IV-TR で同所に相当する部分にはこの憑依という表現は見られなかった。またAの最後には「それらの兆候や症状は他者により観察されたり、その人本人により報告されたりすること。」とある。つまり人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の報告でいいということになる。(DSM-IV-TRでは人格の交代がだれにより報告されるべきかについての記載は特になかった。)さらに診断基準のBとしては、「想起不能となることは、日常の出来事、重要な個人情報、そして、または外傷的な出来事であり、通常の物忘れでは説明できないこと。」となっている。(DSM-IV-TRでは「重要な個人情報」とのみ書かれていた。)
以上をまとめると、DSM-5におけるDIDの診断基準の変更点は、人格の交代とともに、憑依体験もその基準に含むこと、人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の申告でいいということを明確にしたこと、健忘のクライテリアを、日常的なことも外傷的なことも含むこと、の三点となる。
フンフン、ここら辺はそのまま使えるじゃないか。
憑依体験がDIDの基準に加わったことについては説明が必要であろう。Spiegel はこれについて「病的憑依においては、異なるアイデンティティは、内的な人格状態によるものではなく、外的な、つまり霊、威力、神的存在 deity、他者などによるものとされる。」と説明している。そして「病的な憑依は、DIDと同様に、相容れないアイデンティティが現れ、それは健忘障壁により主たる人格から分離されている。」とも述べている。ここで「病的憑依」と断ってあることには、健忘障壁のない憑依は必ずしも病的ではないという含意がある可能性がある。
 
ちなみに従来のDSM-IV-TRでも憑依についての記載がなかったわけではないが、それはDDNOS (他に分類されない解離性障害、以下DDNOSと記載する) の下位の「解離性トランス障害(憑依トランス)Dissociative Trance Disorder (possession trance)」というカテゴリーの例として挙げられていた(7)。それによると憑依トランスは「おそらくアジアでは最もよくある解離性障害である」とされている。そしてそれらの例としてAmok (インドネシア), latah (マレーシア), pibloktoq (北極圏) などが挙げられた。これらがいわゆる文化結合症候群としても従来記載されてきたことは言うまでもない。
 じつは臨床上も「霊にとりつかれる」という形の体験はしばしば患者から聞かれる。それが解離と区別されるべきかの説明を求められた際に、筆者は時々答えに窮することがあったが、今回DSM-5であっさりと、DIDを「別人格や憑依体験によるもの」と認められたことで、この件に対する回答の仕方は一応明快になったわけである。ただしこの変更にはある種の政治的な意味合いも含まれているようである。というのも世界には解離現象が、他人格への交代としてよりはむしろ、外的な存在や威力が憑依された体験として理解され説明される地域が少なくないからである。Spiegel らによれば、病的憑依の報告は世界の多くの国で報告されているという。それらは中国、インド、トルコ、イラン、シンガポール、プエルトリコ、ウガンダなどにわたる。このようにあげると何か発展途上国が多いという印象だが、米国やカナダでも、一部のDIDの患者はその症状を憑依として訴えるという。そこでDIDを憑依現象を含みうるものとして定義することで、より多くの文化に表れるDIDをカバーすることになるのだ。
 この憑依としてのDIDに関して、いくつかの少し具体的なデータも示されている。トルコの資料では、35人のDIDの患者は、45.7%が jinn (一種の悪魔)の憑依、28.6%が死者の、22.9%が生きている誰かの、22.9%が何らかのパワーの憑依を訴えたという。
 
ちなみにDIDの基準に憑依を含み込み、人格の交代を必ずしも第三者が見ていなくてもいい、などの変更を加えるに至ったのは、もう一つの次のような事情があるという。それは解離性障害の診断の特徴は、非常にDDNOSが多いということである。全体の40%がDDNOSに分類されているという。これはDSMの扱う数多くの精神疾患の中でも特に高く、それがDSM-5の編集者にとっては受け入れがたいという事情があった。解離の世界では一部の間に、DIDの診断には治療者が人格の交代を見届けることが必要であるとの了解事項があるのも確かである。その為に本来はDIDとして分類されるべき患者がNOS扱いをされているという可能性があったのだ。ただしこれについては解離に対して懐疑的な臨床家からは、「人格の交代があるという報告だけで簡単にDIDと診断していいのか?」という疑問が呈されることが容易に予想される。
 これらの議論から、世界レベルでのDIDの分類に関して、ひとつの示唆が与えられることになる。それはDIDを「憑依タイプ」と、「非・憑依タイプ」とに分けるという方針である。ただし両者は決して排他的ではない。私たちが「通常」のDIDと理解しているのは「非・憑依タイプ」に属するであろうが、それらのケースでも憑依体験を持つ事は少なくない。これに関連して Colin Rossはある欧米のデータで、60%近くのDIDの患者が、「憑依された」という感覚を訴えたという。
 さてこの両タイプがいずれもDIDである以上、このタイプが分かれる一番重要なファクターは社会文化的な背景ということになる。憑依タイプのDIDが見られるのは南アジアのいくつかの文化圏、ないしはアメリカではある種の原理主義的な宗教の信者たちなどである。特に正常な状態での憑依体験を重視している宗派の場合はその傾向は顕著になる。そうなると憑依タイプのDIDの割合も当然高くなることが予想される。それに比べて非・憑依タイプの場合は、異なるアイデンティティとしてしばしば選択されるのは、自分の人生のあるひとつの段階(子供時代)ないしは役割(加害者、保護者など)である。
 ただしこの点に関して Spiegel は重要なことを述べている。それは憑依タイプを提唱するからといって、憑依現象は現実の出来事ではないということだ 。それは非・憑依タイプにおいて彼らの中に異なる人が存在するというわけではないのと同様であるという。あくまでも個人の体験としてそうなのである。
 ここで筆者自身のコメントを加えておきたい。憑依という現象が社会に広く見られている場合には、当然のごとく憑依性のDIDが生じやすいであろう。しかしそのような文化的な影響を必ずしも受けていなくても憑依が起きる場合がある。筆者のある患者は、悩みを抱えて相談を持ちかけた人に「神が憑いている」と言われてから初めてそれを実感するようになったという。別の患者はDIDの発症が、「あたかも背中から誰かに強引に侵入された」という感覚を伴っていたという。これらの例まで患者のおかれた文化的な体験として説明することはできないだろう。
 ところでDIDの「憑依タイプ」が提唱されることで、これまで憑依として扱われていた患者はDDNOSからDIDに「格上げ」され、より適切な治療が受けられるであろうか?おそらくその可能性は高いであろう。そして従来は憑依を訴える患者に対する治療には二の足を踏んでいた治療者たちも、より治療に積極的になるであろう。これはわかる。また逆に、憑依状態を示すDIDの患者を「浄霊師さんにお願いしようか?」と一瞬考えてしまうことがある。
 これもSpegel らによれば、民間の「ヒーラー」によるセッションも、多くの点でDIDの治療に似ていて、実際に多くの患者の助けとなっているという。そこでは異なる人格状態に発言の場を与え、その窮状を話してもらうことで少しずつその人格状態のあり方が改善していくことを期待するという方針が取られるのである。しかしその一方では、一部のヒーラーたちは、いわゆるエクソシズム(悪魔払い)的な扱いにより憑依のケースを扱うことで、症状の悪化を招きかねないという。悪魔払いを受けた人の三分の二がより状態が悪化し、自殺企図や症状の悪化による入院が見られるというデータが挙げられている。そしてそのような状態になった人たちに正しい治療をおこなうことにより、症状が改善すると述べている。


退行 ⑧
こちらの方も進めなきゃ。いろいろ忙しい。


退行からの回復は、抑うつポジションとエディプスコンプレックスをマネージするための通常の分析へと導く、という(“Metapsychological and Clinical Aspects”, p. 294).
ウィニコット的なことも書いてある。「分析家の失敗は、新しい環境にとって必須の構成要素であるThe analyst's failure is a crucial component of this new environment.」。
退行は自我のためとなるのは、それが分析家により新たなる依存関係へと代わることによる。そこで患者は悪い外的なファクタを自分の全能的なコントロール下に置き、投影と取り入れのメカニズムによりマネージされるようなエリアに導くのである。In this way, regression can be in the service of the ego if it is met by the analyst, and turned into a new dependence in which the patient brings the bad external factor into the area of his or her omnipotent control, and the area managed by projection and introjection mechanisms.
[“Dependence in infant-care, in child care and in the psycho-analytic setting”, 1962, p. 258]
ウィニコットは退行を生み出す環境は安心感reassurance を与える環境であるという。そして分析そのものが実はその要素を含んでいるという。[“Metapsychological and clinical aspects”, 1954, p. 292]
1.ウィニコットは治療における退行を次の様に表す。
2.安心を与えるような設定の提供
3.依存への退行。そこにはリスクも同時に感じ取られている。
4.患者はそれまで隠されていた新しい自己を感じる。
5.失敗した環境の解凍が起きる。
6.新しく力を得た自我により、早期の環境の失敗にまつわる怒りが表現される。
7.依存への退行からの帰還が生じ、独立への進行progress が生じる。
8.本能的なニーズや願望が、真の生命感と力強さにより実現可能となる。
上記の動きが何度も何度も起きる。
つまりこうだ。ウィニコットにとっての退行は、治療における必須の条件であり、言わば毎回治療において生じることだ。そこで失敗された環境まで引き戻されたあと、患者は進行progression に向かう。[“Metapsychological and clinical aspects”, 1954, p. 287]
その通り!



2016年10月15日土曜日

ある講演 ②

 ただ、この方の中には昔の自分というのが、心の中に言わば冷凍保存されていて、それがいきなり動きだして、本人はそれに当惑しているっていう部分がある。この部分は、この方は解離ではないとしても、解離的な心の現れる前兆というか、解離の世界に一歩、足を踏み入れてる状態というふうに感じることができるのです。
 似たような例を挙げましょう。小さい頃、ある子供がぬいぐるみを買ってもらいました。テディベアということにしましょう。テディベアといつも一緒にいて、そして「きょうはこんなことがあったんだよ。ママに怒られちゃった」とか言って話し掛けるのです。するとテディベアが「大変だったね」っていうふうに答えてきたりします。これもまた解離の現れなんです。なぜかっていうとテディベアが自律的に、ちょっと自分の動きを見せてるからです。ただこれは、実はすごく幼少時に起きがちなことなんです。イマジナリー・コンパニオンシップ、ICと言われてる状態であり、よく小さい頃、恐らく皆さんの中で何割かは、恐らく近くに、たとえば自分の横にいつも誰かがいて、見えていなかったり実際に姿が見えてたりして、時には名前も知ってて、いつも話してたっていう体験をお持ちかもしれない。実は、それも解離的な心の始まりなわけです。いかにそれが、われわれの心にとって、自然なことかということかということを物語っています。その傾向というのは、恐らく幼少時にはだれでも多かれ少なかれあって、それが自然と消えていくというふうな経過をたどるのでしょう。
 ただし小さい頃に、そういう存在、あるいは先ほどのテディベアのような形を取らなくても、心の中にAちゃん、Bちゃんがいて、それがいつも会話をしてました、あるいは脳内会議をしていました、とおっしゃる方は結構いらっしゃいます。
 普通にやれる人と、やれない人の違いというのは、結局はその別の人格に乗っ取られてしまうことがあるかどうかということになるのでしょう。乗っ取られるってことは、例えば、先ほどのうつ病の方の例では<中略>と言うばかりではなく、それがもっと抑え難くなってしまい、本人が泣き叫んじゃう状態になる。半ば乗っ取られた状態になる。そうすると解離性障害というのは、本格的な問題になるわけです。
 でも、その前の段階、つまり自分の中のある部分、あるイメージがひとりでに動きだすという現象は、実はわれわれの心にとってすごく自然であって、よくあることなのです。作家の村上春樹さんが、小説を書くときには、主人公を頭に思い浮かべて、あとは見てるだけだという話をどこかに書いてありました。主人公たちが勝手に動きだして、物語を作ってくれて、自分はそれを見て書いてるだけなんだという言い方でした。これも実はとても解離的な話なんです。どういうことかというと、少し難しい話になってしまうのですが、われわれの心というのは、脳の中にある情報処理のセンターがあって、通常はそれが1個なわけです。だから、われわれは心っていうのは1個、自分を1人って考えているわけですが、実は脳の容量はとても大きいので、いくつかのセンターが共存することがあり得て、それぞれが勝手に動きだすという、そういうようなことができるような力というのを、われわれ中枢神経系は持ってるというわけです。そしてさらに言えば、解離を理解する上ですごく大事なのは、心の中にできた、いくつかのセンター、パーソナリティー、人格状態が、それぞれ個々の自律的な意識を持っていて、それを個々の人として認めるっていうのが、決定的に重要になってくるっていうことなんです。
 この話をするのはすこし早いかもしれませんが、別の人格、つまりAさんという人の別人格であるBさんが現れてきたときに、「Bさん、あなたはAさんの一部でしょう」とか、「Aさんが心の中につくり上げたイメージ、それがBさんなんだよね」という言い方をすると、Bさんは「どうして私という存在を認めてくれないの? 私はAさんとは違う存在ですよ」という反応を示すことが普通なのです。それぞれ出てきた人格に対して、個別の人格を持ち、主体性を持った人格として扱うということは、解離的な問題を持った患者さんを理解する上で、決定的な点な意味を持つのです。
しょっぱなから結論めいた言い方をしていますけども、そんなことが今日の講演の最後までに、もうちょっと説得力のある形で言えたらなって思います。私がこの2時間で達成したいのは、皆さんの臨床の場面で、もしいつもと違う雰囲気で、全然違う顔つき、目つき、表情のつくり方で話をし始めた人がいて、いつものAさんじゃないなというふうに思えた場合、そしてその人が明らかに子どものような振る舞いをして遊びだしてしまう、甘えてくる、あるいは怒りだす、ということが起きた際に、それを見なかったことにしてしまわないようにしてほしいということです。

 だからといって「治療的に扱ってください」とまで言わないけども、それをすごく重要な出来事としてとらえ、これがいわゆる解離性の現象なんだなというふうに、どっかでそういう話聞いたことあるなということを理解した上で、次の治療につなげるようなことをしていただけたらなと思うんです。

 別の人格が登場した時に、もし治療者が戸惑ったり怪訝そうな顔をしたりすると、その別人格は空気を読み、奥に引っ込んでしまうことがあります。「この先生にもやっぱり分かってもらえなかった。この人の前でも出せないんだ」みたいな形でそのようなことがあると、解離の問題がずっと扱われずにいるということがあります。一般に解離は、その人が過去においてある状況を生き、扱うことが出来なかった場合に生じます。先ほどの患者さんの場合は、恐らく10代の頃に、ある感情を抑えていて表現ができずに、それがずっと心の底のほうに隔離されて、冷凍保存されてたようなことがあったということです。基本的に解離というのは何かが起きたときの、そのときの自分が、その自分を表現できずに、冷凍保存され、箱に入った状態で、今まできてしまったということです。
 解離性障害とは何か。教科書的なことを言いますけども、心の機能はその多くが、それぞれ自律的に営まれ、それを意識がまとめている。解離とは、そのまとまりが一時的に失われて、心の一部が停止したりとか、独自に活動を始めた状態です。解離症状としての突然の意識消失とか記憶の消失、運動機能の消失、知覚機能の消失等があります。解離というのは、その一番複雑な状態としてDIDというのがあります。DIDというのは、別の所に別の心が出来上がって、勝手に動いてる状態です。
 でも、そこにいくまでに部分的な、軽症と言ってもいいような解離は、しばしば臨床的に見られて、そしてそれは身体の問題として扱われたりとか、解離以外の、原因不明の何かとして扱われるということがあります。臨床的に、恐らく皆さんが、時々体験なさっているのは失声症じゃないでしょうか。失声とはつまり失語症と違って言葉は頭の中に出てくるのですが、声帯が震えないので、こうやって話すこともできないのです。

 失声症の人の場合には、内緒話さえできないのは特徴です。だから明らかに声帯を震わすっていうことに関して、ストップがかかってくる。ストップをかけてるのは、どこかというと、精神分析だったら患者さんの無意識って言うでしょう。でも解離を扱ってる立場からは、むしろ脳の別のどっかから指令が出ていて、声帯を止めているっていうふうに考えます。それを本人も当惑しているわけです。


2016年10月14日金曜日

ある講演 ①、Toward the theory of “Dissociation with capital D” ⑭ 

ある講演 1

  
よろしくお願いします。本当に皆さんが、解離の患者さんに会うことは少ないのかっていうと、案外そうでもないだろうなと思うんですね。昔、言われていた多重人格というのは、人格がいくつか存在するというような意味で、人によっては一般人口の1パーセント程度に見られるのではないかと言います。そうすると統合失調症と同じなわけです。だから解離の患者さんは案外いろいろな所にいらっしゃるし、かなりの部分が、それを表現することを、かたくなに拒んでるというか、なるべく秘密にしておきたいってのもあるだろうし、一時期そういう状態があって、数年間、あるいは数カ月間、そういう状態が続いて、また消えてしまうみたいな感じなんですね。ですから、そういう意味では、いろいろな所で恐らく、皆さん出会っていらして、気が付かずに過ごしてしまったこともあるかもしれないです。
 ただすごく誤った出会い方と私が考える扱い方をしてしまうこともあるでしょうし、そういう意味では、ある程度、こういう状態に対して意識をお持ちになるってことは、大事ではないかというふうに思います。
 大体1時間45分ぐらい、このままでいくと、途中で一回休むことになってると思うんですけど、私は時々、むせ発作と私が呼ぶ状態になりまして、最近45日に一遍ぐらい、5分ぐらいむせ発作になって、そうすると声が出なくなりますから、もしそれが起きたとしたら、自然と治りますので冷静に見守ってください。実は講演をしたときに一度も、それ起きたことないんですけどね。
ある患者さんがこんな話をしていらっしゃいました。
<中略>

 この表現を読んで、どんな印象をお持ちでしょうか。会場の先生に聞いていいでしょうか?
A先生 まず取りあえず、それをそうせざるを得ないぐらい、コントロールが利かない状態なんだなというふうに感じます。
岡野 そうすると例えば、診断ということを考えた場合、どういうことが頭をかすめますか。
A先生 10代の頃に何かあったのかな。
岡野 ああ。この方は解離でしょうか。
A先生 少し、その時期にトラウマとなるような未解決のものがあって、そのまま取り残されている、それ解離というふうなジャンルに入るのかなっていうふうに思います。
岡野 はい、分かりました。そういうことで非常に結構だと思うんですけども、このケースについてある解離の研究会で話したら、ある有能心理士さんは「これはDID、多重人格だろう」というふうに言うんですね。またある精神科の先生に訊ねると、「これだけじゃ何とも言えない」ということでした。
 実はこの方は、うつ病の患者さんなんですね。特に多重人格ではないです。ただしこの様な表現を聞くと、私は感慨深くなっちゃうんです。どういうことかというと、通常、多重人格という症状を現してない彼女でさえ、心の中に小さい頃の自分みたいなものがいて、そして、そこからが大事なんですけども、それが勝手に動きだすっていうところなんですよ。小さい頃の自分をイメージすることができるだけじゃなくて、それが、あたかも命を持ったかのように動きだして、自分はそれに驚いてしまう。そして心は二重映しみたいになってる。一つは過去の私というのが中にいて、暴れてどうしようという部分。そしてもう一つの自分は、大人で、しかし子供の頃のメンタリティーになっちゃってる、というところがある。でもなり切ってはいないのです。解離性の患者さんと違うのは、昔の私が出てきて、「あんた何なのよ」というふうに、直接けんかを始めるということはないんです。


Toward the theory of Dissociation with capital D ⑭ 
Although Fairbairn did not follow suit in neglecting the notion of dissociation, his definition of schizoid phenomenon that he associated with dissociation is unfortunately too ambiguous. He states that there are three features of schizoid state, including omnipotence, isolation and detachment, and concern for inner reality, which did not include any nuance of mental functions being separated or “split” apart, as the original idea of dissociation and hypnoid state connoted. Fairbairn might have observed this schizoid phenomenon in various kinds of psychopathology, especially against the background of Bleuler’s proposal of “schizophrenia”, which also appeared to have not only psychotic features but also dissociative aspects. Although schizoid problem became one of the main focuses of the British object relations theory, it grew apart of the notion of dissociation. It was Guntrip who summarized the “schizoid problem” in his chapter 6 of his book. (Harry Guntrip (1971)  Psychoanalytic theory, therapy, and the self, Basic Books.)    
 “As Winicott stated, if the care of “good enough mother” was unavailable, a child splits off true, vulnerable self underneath false self. “ “ If an external defense of cold and emotionless intellectual person hides a vulnerable, greedy and fearful infantile self, it would eventually appear in the world of dreams and fantasy".