2016年10月15日土曜日

ある講演 ②

 ただ、この方の中には昔の自分というのが、心の中に言わば冷凍保存されていて、それがいきなり動きだして、本人はそれに当惑しているっていう部分がある。この部分は、この方は解離ではないとしても、解離的な心の現れる前兆というか、解離の世界に一歩、足を踏み入れてる状態というふうに感じることができるのです。
 似たような例を挙げましょう。小さい頃、ある子供がぬいぐるみを買ってもらいました。テディベアということにしましょう。テディベアといつも一緒にいて、そして「きょうはこんなことがあったんだよ。ママに怒られちゃった」とか言って話し掛けるのです。するとテディベアが「大変だったね」っていうふうに答えてきたりします。これもまた解離の現れなんです。なぜかっていうとテディベアが自律的に、ちょっと自分の動きを見せてるからです。ただこれは、実はすごく幼少時に起きがちなことなんです。イマジナリー・コンパニオンシップ、ICと言われてる状態であり、よく小さい頃、恐らく皆さんの中で何割かは、恐らく近くに、たとえば自分の横にいつも誰かがいて、見えていなかったり実際に姿が見えてたりして、時には名前も知ってて、いつも話してたっていう体験をお持ちかもしれない。実は、それも解離的な心の始まりなわけです。いかにそれが、われわれの心にとって、自然なことかということかということを物語っています。その傾向というのは、恐らく幼少時にはだれでも多かれ少なかれあって、それが自然と消えていくというふうな経過をたどるのでしょう。
 ただし小さい頃に、そういう存在、あるいは先ほどのテディベアのような形を取らなくても、心の中にAちゃん、Bちゃんがいて、それがいつも会話をしてました、あるいは脳内会議をしていました、とおっしゃる方は結構いらっしゃいます。
 普通にやれる人と、やれない人の違いというのは、結局はその別の人格に乗っ取られてしまうことがあるかどうかということになるのでしょう。乗っ取られるってことは、例えば、先ほどのうつ病の方の例では<中略>と言うばかりではなく、それがもっと抑え難くなってしまい、本人が泣き叫んじゃう状態になる。半ば乗っ取られた状態になる。そうすると解離性障害というのは、本格的な問題になるわけです。
 でも、その前の段階、つまり自分の中のある部分、あるイメージがひとりでに動きだすという現象は、実はわれわれの心にとってすごく自然であって、よくあることなのです。作家の村上春樹さんが、小説を書くときには、主人公を頭に思い浮かべて、あとは見てるだけだという話をどこかに書いてありました。主人公たちが勝手に動きだして、物語を作ってくれて、自分はそれを見て書いてるだけなんだという言い方でした。これも実はとても解離的な話なんです。どういうことかというと、少し難しい話になってしまうのですが、われわれの心というのは、脳の中にある情報処理のセンターがあって、通常はそれが1個なわけです。だから、われわれは心っていうのは1個、自分を1人って考えているわけですが、実は脳の容量はとても大きいので、いくつかのセンターが共存することがあり得て、それぞれが勝手に動きだすという、そういうようなことができるような力というのを、われわれ中枢神経系は持ってるというわけです。そしてさらに言えば、解離を理解する上ですごく大事なのは、心の中にできた、いくつかのセンター、パーソナリティー、人格状態が、それぞれ個々の自律的な意識を持っていて、それを個々の人として認めるっていうのが、決定的に重要になってくるっていうことなんです。
 この話をするのはすこし早いかもしれませんが、別の人格、つまりAさんという人の別人格であるBさんが現れてきたときに、「Bさん、あなたはAさんの一部でしょう」とか、「Aさんが心の中につくり上げたイメージ、それがBさんなんだよね」という言い方をすると、Bさんは「どうして私という存在を認めてくれないの? 私はAさんとは違う存在ですよ」という反応を示すことが普通なのです。それぞれ出てきた人格に対して、個別の人格を持ち、主体性を持った人格として扱うということは、解離的な問題を持った患者さんを理解する上で、決定的な点な意味を持つのです。
しょっぱなから結論めいた言い方をしていますけども、そんなことが今日の講演の最後までに、もうちょっと説得力のある形で言えたらなって思います。私がこの2時間で達成したいのは、皆さんの臨床の場面で、もしいつもと違う雰囲気で、全然違う顔つき、目つき、表情のつくり方で話をし始めた人がいて、いつものAさんじゃないなというふうに思えた場合、そしてその人が明らかに子どものような振る舞いをして遊びだしてしまう、甘えてくる、あるいは怒りだす、ということが起きた際に、それを見なかったことにしてしまわないようにしてほしいということです。

 だからといって「治療的に扱ってください」とまで言わないけども、それをすごく重要な出来事としてとらえ、これがいわゆる解離性の現象なんだなというふうに、どっかでそういう話聞いたことあるなということを理解した上で、次の治療につなげるようなことをしていただけたらなと思うんです。

 別の人格が登場した時に、もし治療者が戸惑ったり怪訝そうな顔をしたりすると、その別人格は空気を読み、奥に引っ込んでしまうことがあります。「この先生にもやっぱり分かってもらえなかった。この人の前でも出せないんだ」みたいな形でそのようなことがあると、解離の問題がずっと扱われずにいるということがあります。一般に解離は、その人が過去においてある状況を生き、扱うことが出来なかった場合に生じます。先ほどの患者さんの場合は、恐らく10代の頃に、ある感情を抑えていて表現ができずに、それがずっと心の底のほうに隔離されて、冷凍保存されてたようなことがあったということです。基本的に解離というのは何かが起きたときの、そのときの自分が、その自分を表現できずに、冷凍保存され、箱に入った状態で、今まできてしまったということです。
 解離性障害とは何か。教科書的なことを言いますけども、心の機能はその多くが、それぞれ自律的に営まれ、それを意識がまとめている。解離とは、そのまとまりが一時的に失われて、心の一部が停止したりとか、独自に活動を始めた状態です。解離症状としての突然の意識消失とか記憶の消失、運動機能の消失、知覚機能の消失等があります。解離というのは、その一番複雑な状態としてDIDというのがあります。DIDというのは、別の所に別の心が出来上がって、勝手に動いてる状態です。
 でも、そこにいくまでに部分的な、軽症と言ってもいいような解離は、しばしば臨床的に見られて、そしてそれは身体の問題として扱われたりとか、解離以外の、原因不明の何かとして扱われるということがあります。臨床的に、恐らく皆さんが、時々体験なさっているのは失声症じゃないでしょうか。失声とはつまり失語症と違って言葉は頭の中に出てくるのですが、声帯が震えないので、こうやって話すこともできないのです。

 失声症の人の場合には、内緒話さえできないのは特徴です。だから明らかに声帯を震わすっていうことに関して、ストップがかかってくる。ストップをかけてるのは、どこかというと、精神分析だったら患者さんの無意識って言うでしょう。でも解離を扱ってる立場からは、むしろ脳の別のどっかから指令が出ていて、声帯を止めているっていうふうに考えます。それを本人も当惑しているわけです。