2016年10月16日日曜日

解離の概念および治療 ⑥、 退行 ⑧

4)解離性同一性障害
DIDの記述がこの論文の重要な部分となるが、以前に書いた論文から引用できる部分を探すことにする。(とても最初から書くのは大変だし、その意味もないだろう。)そのDSM-5だが、DIDの診断基準のAは次のような文で始まる。「2つ以上の明確に異なる人格状態の存在により特徴づけられるアイデンティティの破綻であり、それは文化によっては憑依の体験として表現される。Disruption of identity characterized by two or more distinct personality states, which may be described in some cultures as an experience of possession.」(DSM-IV-TR で同所に相当する部分にはこの憑依という表現は見られなかった。またAの最後には「それらの兆候や症状は他者により観察されたり、その人本人により報告されたりすること。」とある。つまり人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の報告でいいということになる。(DSM-IV-TRでは人格の交代がだれにより報告されるべきかについての記載は特になかった。)さらに診断基準のBとしては、「想起不能となることは、日常の出来事、重要な個人情報、そして、または外傷的な出来事であり、通常の物忘れでは説明できないこと。」となっている。(DSM-IV-TRでは「重要な個人情報」とのみ書かれていた。)
以上をまとめると、DSM-5におけるDIDの診断基準の変更点は、人格の交代とともに、憑依体験もその基準に含むこと、人格の交代は、直接第三者に目撃されなくても、当人の申告でいいということを明確にしたこと、健忘のクライテリアを、日常的なことも外傷的なことも含むこと、の三点となる。
フンフン、ここら辺はそのまま使えるじゃないか。
憑依体験がDIDの基準に加わったことについては説明が必要であろう。Spiegel はこれについて「病的憑依においては、異なるアイデンティティは、内的な人格状態によるものではなく、外的な、つまり霊、威力、神的存在 deity、他者などによるものとされる。」と説明している。そして「病的な憑依は、DIDと同様に、相容れないアイデンティティが現れ、それは健忘障壁により主たる人格から分離されている。」とも述べている。ここで「病的憑依」と断ってあることには、健忘障壁のない憑依は必ずしも病的ではないという含意がある可能性がある。
 
ちなみに従来のDSM-IV-TRでも憑依についての記載がなかったわけではないが、それはDDNOS (他に分類されない解離性障害、以下DDNOSと記載する) の下位の「解離性トランス障害(憑依トランス)Dissociative Trance Disorder (possession trance)」というカテゴリーの例として挙げられていた(7)。それによると憑依トランスは「おそらくアジアでは最もよくある解離性障害である」とされている。そしてそれらの例としてAmok (インドネシア), latah (マレーシア), pibloktoq (北極圏) などが挙げられた。これらがいわゆる文化結合症候群としても従来記載されてきたことは言うまでもない。
 じつは臨床上も「霊にとりつかれる」という形の体験はしばしば患者から聞かれる。それが解離と区別されるべきかの説明を求められた際に、筆者は時々答えに窮することがあったが、今回DSM-5であっさりと、DIDを「別人格や憑依体験によるもの」と認められたことで、この件に対する回答の仕方は一応明快になったわけである。ただしこの変更にはある種の政治的な意味合いも含まれているようである。というのも世界には解離現象が、他人格への交代としてよりはむしろ、外的な存在や威力が憑依された体験として理解され説明される地域が少なくないからである。Spiegel らによれば、病的憑依の報告は世界の多くの国で報告されているという。それらは中国、インド、トルコ、イラン、シンガポール、プエルトリコ、ウガンダなどにわたる。このようにあげると何か発展途上国が多いという印象だが、米国やカナダでも、一部のDIDの患者はその症状を憑依として訴えるという。そこでDIDを憑依現象を含みうるものとして定義することで、より多くの文化に表れるDIDをカバーすることになるのだ。
 この憑依としてのDIDに関して、いくつかの少し具体的なデータも示されている。トルコの資料では、35人のDIDの患者は、45.7%が jinn (一種の悪魔)の憑依、28.6%が死者の、22.9%が生きている誰かの、22.9%が何らかのパワーの憑依を訴えたという。
 
ちなみにDIDの基準に憑依を含み込み、人格の交代を必ずしも第三者が見ていなくてもいい、などの変更を加えるに至ったのは、もう一つの次のような事情があるという。それは解離性障害の診断の特徴は、非常にDDNOSが多いということである。全体の40%がDDNOSに分類されているという。これはDSMの扱う数多くの精神疾患の中でも特に高く、それがDSM-5の編集者にとっては受け入れがたいという事情があった。解離の世界では一部の間に、DIDの診断には治療者が人格の交代を見届けることが必要であるとの了解事項があるのも確かである。その為に本来はDIDとして分類されるべき患者がNOS扱いをされているという可能性があったのだ。ただしこれについては解離に対して懐疑的な臨床家からは、「人格の交代があるという報告だけで簡単にDIDと診断していいのか?」という疑問が呈されることが容易に予想される。
 これらの議論から、世界レベルでのDIDの分類に関して、ひとつの示唆が与えられることになる。それはDIDを「憑依タイプ」と、「非・憑依タイプ」とに分けるという方針である。ただし両者は決して排他的ではない。私たちが「通常」のDIDと理解しているのは「非・憑依タイプ」に属するであろうが、それらのケースでも憑依体験を持つ事は少なくない。これに関連して Colin Rossはある欧米のデータで、60%近くのDIDの患者が、「憑依された」という感覚を訴えたという。
 さてこの両タイプがいずれもDIDである以上、このタイプが分かれる一番重要なファクターは社会文化的な背景ということになる。憑依タイプのDIDが見られるのは南アジアのいくつかの文化圏、ないしはアメリカではある種の原理主義的な宗教の信者たちなどである。特に正常な状態での憑依体験を重視している宗派の場合はその傾向は顕著になる。そうなると憑依タイプのDIDの割合も当然高くなることが予想される。それに比べて非・憑依タイプの場合は、異なるアイデンティティとしてしばしば選択されるのは、自分の人生のあるひとつの段階(子供時代)ないしは役割(加害者、保護者など)である。
 ただしこの点に関して Spiegel は重要なことを述べている。それは憑依タイプを提唱するからといって、憑依現象は現実の出来事ではないということだ 。それは非・憑依タイプにおいて彼らの中に異なる人が存在するというわけではないのと同様であるという。あくまでも個人の体験としてそうなのである。
 ここで筆者自身のコメントを加えておきたい。憑依という現象が社会に広く見られている場合には、当然のごとく憑依性のDIDが生じやすいであろう。しかしそのような文化的な影響を必ずしも受けていなくても憑依が起きる場合がある。筆者のある患者は、悩みを抱えて相談を持ちかけた人に「神が憑いている」と言われてから初めてそれを実感するようになったという。別の患者はDIDの発症が、「あたかも背中から誰かに強引に侵入された」という感覚を伴っていたという。これらの例まで患者のおかれた文化的な体験として説明することはできないだろう。
 ところでDIDの「憑依タイプ」が提唱されることで、これまで憑依として扱われていた患者はDDNOSからDIDに「格上げ」され、より適切な治療が受けられるであろうか?おそらくその可能性は高いであろう。そして従来は憑依を訴える患者に対する治療には二の足を踏んでいた治療者たちも、より治療に積極的になるであろう。これはわかる。また逆に、憑依状態を示すDIDの患者を「浄霊師さんにお願いしようか?」と一瞬考えてしまうことがある。
 これもSpegel らによれば、民間の「ヒーラー」によるセッションも、多くの点でDIDの治療に似ていて、実際に多くの患者の助けとなっているという。そこでは異なる人格状態に発言の場を与え、その窮状を話してもらうことで少しずつその人格状態のあり方が改善していくことを期待するという方針が取られるのである。しかしその一方では、一部のヒーラーたちは、いわゆるエクソシズム(悪魔払い)的な扱いにより憑依のケースを扱うことで、症状の悪化を招きかねないという。悪魔払いを受けた人の三分の二がより状態が悪化し、自殺企図や症状の悪化による入院が見られるというデータが挙げられている。そしてそのような状態になった人たちに正しい治療をおこなうことにより、症状が改善すると述べている。


退行 ⑧
こちらの方も進めなきゃ。いろいろ忙しい。


退行からの回復は、抑うつポジションとエディプスコンプレックスをマネージするための通常の分析へと導く、という(“Metapsychological and Clinical Aspects”, p. 294).
ウィニコット的なことも書いてある。「分析家の失敗は、新しい環境にとって必須の構成要素であるThe analyst's failure is a crucial component of this new environment.」。
退行は自我のためとなるのは、それが分析家により新たなる依存関係へと代わることによる。そこで患者は悪い外的なファクタを自分の全能的なコントロール下に置き、投影と取り入れのメカニズムによりマネージされるようなエリアに導くのである。In this way, regression can be in the service of the ego if it is met by the analyst, and turned into a new dependence in which the patient brings the bad external factor into the area of his or her omnipotent control, and the area managed by projection and introjection mechanisms.
[“Dependence in infant-care, in child care and in the psycho-analytic setting”, 1962, p. 258]
ウィニコットは退行を生み出す環境は安心感reassurance を与える環境であるという。そして分析そのものが実はその要素を含んでいるという。[“Metapsychological and clinical aspects”, 1954, p. 292]
1.ウィニコットは治療における退行を次の様に表す。
2.安心を与えるような設定の提供
3.依存への退行。そこにはリスクも同時に感じ取られている。
4.患者はそれまで隠されていた新しい自己を感じる。
5.失敗した環境の解凍が起きる。
6.新しく力を得た自我により、早期の環境の失敗にまつわる怒りが表現される。
7.依存への退行からの帰還が生じ、独立への進行progress が生じる。
8.本能的なニーズや願望が、真の生命感と力強さにより実現可能となる。
上記の動きが何度も何度も起きる。
つまりこうだ。ウィニコットにとっての退行は、治療における必須の条件であり、言わば毎回治療において生じることだ。そこで失敗された環境まで引き戻されたあと、患者は進行progression に向かう。[“Metapsychological and clinical aspects”, 1954, p. 287]
その通り!