2016年10月18日火曜日

ある講演 ④

 余談ですが、私はずっとアメリカにいたんで、Windows 95日本版というのを使ってたんです。あちらでコンピューターを買うと、インストールされているのは全部英語のWindows 95なので、日本語など打てない。それで日本語版、Windows 95Jというのを入れるんですよ、コンピューターにインストールするわけです。後の方のWindowsなら、たとえばXpだと多言語的じゃないですか。言語を選んでクリックすればいいわけです。それ以前は、95のときには英語版のWindowsと日本語版のWindowsが別々だったんですよ。そうすると両方をインストールして、その頃ロスにスイッチャーというソフトを開発した日本人がいて、そのスイッチャーを入れて、Windows 95の英語版、日本語版というふうにスイッチングしてたんですね。そのたびに再起動するような感じで。つまり二人の人格をスイッチさせていたようなものです。
 普通コンピューターは一つのOSしかないんだけども、その中に例えばWindows 95の日本版と、英語版が分かれて入っていたりして、かと思うとDOSで立ち上がったりするみたいなことが起きるとすれば、それが多重人格の一つのアナロジーとして考えることができるでしょう。
 常識的なことを、もうちょっとお話しすると、解離性障害の具体的な現れとしては、解離性障害と転換性障害があります。今でも、DSM-5になっても、こういう分かれ方がしています。で、解離性障害といったら、意識の在り方の突然な変化が起きます。転換性障害といったら、今度は知覚とか運動の機能が突然失われてしまう状態。これを分けています。ところがICDでは、この二つは両方とも解離性障害と呼んでいる。体の動きの一部が断裂・断線してしまって、勝手な動きをしてしまう。ヒステリーと昔言われていた状態の、ヒステリー性のてんかんが起きたりする場合には、まさに、そういうことが起きる。それから体の動き。体の動きが中心から離れて、勝手に自律的な運動をし始める状態。それが転換性障害です。解離性障害というのは、心が中心から離れて自律的に、例えば、さっきの女性のように昔の自分が叫びだす、みたいなことが起きる。両方とも起きてることは同じなわけです。だから両方とも解離性障害って呼びましょうというのは、すごく理屈にかなっている。そしてその方針をICDでは継続してるわけですが、でもDSMでは解離性障害と転換性障害を、いまだに分けているってことはあります。不思議ですね。
 きょうは理屈的なことは、あんまり話さないことを考えています。今までお話ししたことが割と理論的なことですが、この程度です。というのも解離の理論的な説明というのは、あまり考えられていません。というのは、複雑過ぎて分からないのです。だから今言ったような話ぐらいしか、私はできないです。

        <中略>

 幸か不幸かというか、不幸か、ですけども、精神科で解離性の診断がつくことは、今でも非常に少ないです。10年前は、もっと少なかった。今では解離性障害でしょうというふうな、当たりを付ける精神科医は増えています。その後、でも「うちでは治療できません」。「解離性障害だから治療ができません」という形で、「専門家の所に行ってください。ちなみに私は知りません」というふうになってしまうんですね。
 この方の場合も、数年前より精神科を受診するんだけども、正確な診断が告げられなかった。みんな首をかしげるだけ。「そんなばかなことはないでしょう、おかしいですね」。「幻聴ですか。統合失調症でしょう」みたいな。ちなみに解離性障害の場合、幻聴が、かなり頻繁に聞こえますので、そうすると古い教育を受けた治療者、精神科医なら、統合失調症というふうになってしまう。
 で、1回目は、この女性とお話をしたわけです。2回目に、旦那さんに連れられてやってきたときに、「実は、うちの家内3日前から声が出なくなりました。」さっきの失声ですね。

           <中略>


 むかしある患者さんが来て、「右手が、まひして動かないんです」とおっしゃいました。そこで「じゃ、やってみようか」って言って、催眠的な処置をすると「先生、手が動きます。不思議ですね。先生、すごいですね。」となりました。すると私はすこしいい気になってしまいます。良くないですよね。ただし時には患者さんの都合でスイッチングしたり、別の人格に代わったり、元に戻ったりみたいなことを、治療者が変わって行う、というニュアンスがあります。でも実は、一つの治療に向けてのステップであり、最終的には患者さんが自分で、「子供の自分が出てくる。大変だ、抑えなくちゃ」とそれを抑えることができるようになるのは、一つの治療の目標ともいえます。
 しばしば精神科医や心理士の先生方の声として聞こえてくるのは、解離を促してはいけない、別人格と接触しようとしてはいけない、呼び出してはいけない。なぜならそうすることで解離の病理を悪化させるからだ、という見解です。でも必ずしもそうではない、というのが私の考えです。一つの例ですが、Aさんという人に、Cさんという別人格がいるとします。Aさんは運転は出来ませんが、Cさんだと出来るとしましょう。おそらく教習所に通っている間は、呑み込みも早く、車に興味のあるCさんが登場していた可能性があります。
 そしてAさんが運転しなくてはならない状況になってしまう。しかし自分ではできないけれど、Cさんならできることを知っている。そこでCさんに代わってもらいましょう、ということを自分でできるようになるとしたら、それは一つの進歩でしょう。患者さんが心の中で念じることによって、いろいろな人格がどんどん好き勝手に出てくるという状態になっては困る、という臨床家も多いのですが、この様に考えれば、主人格が幹事役というかリーダー役が取れるようになると、それは状態の改善につながるであろう、という考え方があります。
 さて、もう少し理論的なことをお話しします。というのは、解離の話というのは、おそらくみなさんは聞いていてすごく混乱すると思うことだからです。過去の外傷的なストレスに関する記憶の欠如がある時、つまり昔のことを思い出せないってときに、皆さんは解離ということを聞く前は、「何だろう。フロイトは抑圧って言ったぞ。それは抑圧じゃないの。あなたは子どもの頃や若い頃のことを抑圧してるんですね。それについて一緒に考えていきましょう」でいいんじゃないの、と思うでしょう。それが心理学の王道と言うのかな、臨床心理の王道と考えるかもしれません。心理学は源流をたどると、フロイトになるわけですからね。
 そうするとフロイトの理論の中で、昔のことを思い出せないものの、それが今の自分に何らかの影響を与えている状態というと、抑圧しかなかったわけです。しかし今、解離という言葉が使えるようになって、われわれが、少なくとも私が提案してるのは、解離という見方も用いましょう。恐らく解離という見方をするほうが、抑圧よりも便利なことがありますよ、ということです。だから患者さんが、いつもと違うことを言ったり、いつもと人が変わった状態になったりとかいうことが起きた場合に、それは、この人の心の中に解離していたもの、言い方を変えると、その人の心の底の箱の中に入っていたものが、出てきてる状態なんだというふうに考えてください。それが解離と抑圧の違いだというふうに、大ざっぱに考えてください。
 解離というのは、心の中に箱があって、しまわれている状態のものです。抑圧というのは、いわば心の中で暴れてるものです。抑圧っていうのは心の中で力を振るっている、暴れている、「箱から出せ」と言っている。あるいは箱が半開きになって、「助けてくれ。出してくれ」っていうふうに声を上げてるから、意識は、それを心のどこかで気が付いて、「出てきちゃ駄目」って、ぎゅっと抑える。それが常に起きてるのが抑圧です。

 だから抑圧というのは、心が余分な力を常に発揮しなくちゃいけないし、心は抑圧してるものの影響を常に受けて、それが不安になったり、不眠になったりとか、あるいは強迫症状になったりとか、いろんな症状を招く、それがフロイトの抑圧理論です。解離は箱の中に入って、ふたが閉まってる。でも、さっき言ったように、ふたが開くときは、突然開きます。そうすると、ふたが開いて突然、中から出てくると、中の解離されてる部分は勝手な動きをします。でも普段は出てきません。そうするといつもと違う人が出現した。いつもはあんなに穏やかで優しいのに、なんでこんなに興奮したり暴力的になったりするんだろう、ということになります。