エナクトメントというテーマなのにどうして将棋の感想戦についての話になっているのかと思われるだろう。一言でいえば、エナクトメントについて扱うことは、この感想戦にどこか通じているような気がするからだ。通常の対戦では駒の動きだけがすべてである。対局者はそこに感情を直接的に表現することなく、ポーカーフェイスで進める。ところがその底流に存在し続ける思考や感情は後に感想戦で語られることにより、対局中の思考の流れはある程度の修正を迫られ、それが自分の棋士としての実力の向上につながる。「あの時は~というつもりであそこに角を打ったが、実は別の観点が自分の中にあったら、それよりも優先すべき別の手を思いついただろう」という感じである。つまりはその対局は感想戦をもって新たな意味が与えられ、厚みを持つことになるのである。
エナクトメントと自己開示の要素
この感想戦の例で明らかなのは、そこで意味を持つのは交流、つまり両者の言葉のやり取りであり、それは必ずある行為の背景にあった考えをその行為者が言語にするというプロセスを含むということだ。それにより相手の行動の背景がわかり、人は安心し、その人の心が今一歩つかめるようになる。得体のしれない手を打つ対局者はもう少し等身大の人間に下りてくるのだ。
例えば先ほどの例で、治療者が「ムッ」とするというシーンについて書いた。それは患者の側の「先生は私のことを真剣に聞いてくれていませんね」に反応したものであった。そしてそれに患者が何となく気が付く。これらの動きはそれ自体が謎めいていて、治療者と患者の距離を遠ざける。お互いが相手を得体のしれない存在と考える。もう少し言えば自分自身も得体が知れないと感じているかもしれない。治療者なら「訓練を受けているのに、なぜこんなに腹が立つのだろう?自分は本当に治療者としてこれでいいのだろうか?」と自らに疑いを向ける。「こんな治療者を患者は受け入れることができるのだろうか?」そしてそのインパクトの重大さは、患者側の反応から推し量ることができる。
ここで治療者は患者からの「あれ、先生は気分を害しましたか?」に対するある程度率直な返答は決定的であることがわかるだろう。それにより治療者は得体のしれない存在から一人の人間になり、患者にとっての自分自身もそうなるのである。
ではここで治療者の自己開示がどの程度決定的かということについて今一歩考えると、それは必ずしも必要ではない場合もあろう。例えばムッとした治療者の気配を感じて、患者は思うかもしれない。「明らかに先生はムッとしているな。ということは先生も人並みに感情を持っているんだ。」そしてそれが分かっただけでも患者にとっては収穫であったという場合である。つまり相手の気持ちがわかる、という場合には必ずしも治療者の「白状」が必要ではないことになる。もちろんその場合は、「ああ、先生は率直で正直な人なんだ。ありがたい」という気持ちは得られないことになる。でもその場合は実際に治療者は「率直な人間」ではないということになり、それはそれで仕方がないことである。「先生は人間的な感情を持つのだ」という理解だけでもいい。そしてそこで患者は得体のしれない他者からリアルな他者という遷移は体験することが出来たわけである。つまりまとめれば、エナクトメントは自己開示を含むことで、より効果的になる場合があるということだ。