2019年2月7日木曜日

解離の心理療法 推敲 5, 複雑系 5


2章 トラウマが解離を生むのだろうか?

1. はじめに
解離性障害を理解する上で、トラウマというテーマを切り離すことはできません。アメリカの最新の診断基準であるDSM-5(2013)には、「心的外傷およびストレス因関連症群」というカテゴリーがありますが、解離性障害はその中には含まれていません。つまりトラウマが原因となった病気のグループには正式には属していないのです。しかし解離性障害の発症に幼少期を中心とした何らかのトラウマが関連している場合が多いと考える点では、多くの臨床家の意見が一致しています。代表的な症状である健忘や人格のスイッチングは、トラウマ記憶の再現やフラッシュバックが切っ掛けで生じやすいことが知られています。発症あるいは症状の悪化した時期の前後の状況を丁寧に聞き取っていくと、切っ掛けとなった出来事が見つかり、そこにはトラウマ体験があると推測されることが多くあります。
ただし解離症状の中には、心を許せる友人や恋人が出来たことを切っ掛けに、言わばそれまで人格たちをまとめていた箍(たが)が外される形で現れる場合もあります。また幼少時の生活史を尋ねても、明白なトラウマが見当たらない場合もありますので、「解離の陰には必ずトラウマあり」と決めつけるわけにもいかないことはここでお断りをしておきます。さもないと解離性障害を持った方のご両親は非常に肩身の狭い思いをしなくてはなりません。トラウマには学校で起きたことも、登下校中に起きたこともすべて含まれます。ただしおそらく明らかであろうということは、解離は幼少時に心にとってある種の緊急事態が生じ、心が普段とは別の対処の仕方をしなくてはならなかったという事情を示しているということです。そして以下に述べるトラウマは、その緊急事態に該当する主要なものだということです。

ここでは解離性障害に特徴的なトラウマについて取り上げ、治療での扱い方について解説します。
天災、事故、事件に遭遇した影響などを含め、トラウマ的事態は多岐にわたりますが、解離性障害との関連が深いのは対人関係がもたらすトラウマです。代表的なものとしては虐待を受けた体験がよく知られていますが、日本に特徴的な解離性障害の要因として関係性のストレスrelational stress」という概念をが唱されています(岡野20072011)。親子関係におけるミスコミュニケーションが引き起こす子どもの側の「自己表現の抑制」が、解離性障害の発症に関与しているというものです。それを以下に説明しましょう。

2-1.関係性のトラウマ
親から子どもへの愛情が基盤にありながらも、親自身の抱えるストレスや心理的課題と子ども側の要因が重なり、トラウマ的事態を作り出していることがあります。家族の生活状況による親の側のストレスの増加により、子育てにゆとりが持てず、必要以上に厳しい態度を取り、無意識に子どもを攻撃してしまう場合などがそれにあたります。
解離障害の患者さんの多くは、そうした親の苦しみを早い時期から察知し、親をケアするような行動を身に着けています。親の一番の理解者として話を聞き、その期待に応えるべく努力してきた人もいます。患者さんは周囲の状況をよく観察し、自分が何をすべきかを察する能力を備えているものの、自己主張や自己表現がうまくできないため、いわゆる過剰適応に陥りやすい傾向があります。多くの場合、親の側は子どもが「自分を殺して」いることに、気づいていません。過剰適応の結果として、親の期待に適応する人格が誕生すれば、一層それは見えにくくなります。患者さん自らも自分を抑えていると自覚していないことの方がむしろ普通です。解離性障害の人は、自己と他者の心理的境界boundary が脆弱であるために、相手の考えや感情を自分自身のものとして体験しやすいという傾向をもっているからです。
治療ではこのような親子の関係性がトラウマとして作用してきた現状を、患者さん自身が実感をもって認める必要があります。この問題を家族にどう伝え、対処すべきかの問題については、後の第5章で詳しく述べます。

2-2.親の気持ちの不安定さ

子どもの解離を引き起こす要因のひとつに、親のほうの気持ちの弱さや不安定さがあります。我が子の言動に過剰に反応し、些細なことで不安定になりやすい親のもとで育つと、子どもは親の態度に敏感となります。例えば子どもが小さな失敗をした時に、親が励まし支えるのが望ましいのですが、親自身が余裕を持てずにそれに打撃を受けて落ち込んでしまうとしましょう。すると子どもは自分の辛さ以上に親を落胆させたことに苦しみ、二重に傷つくことがあります。子供は普通ならかなり小さい頃から、自分の気持ちや意見を主張する様になりますが、それを親が「自分に逆らった」ととらえて逆上し、混乱した態度を取ることしかできないとしましょう。次第に子どもは自らの自発的な言動が親を苦しめると思い込むようになります。その結果健康な欲求や感情さえ表に出すのをやめてしまい、親の些細な感情の変化に過敏に反応し、顔色をうかがうようになるのです。親の気持ちを逆なでしないよう期待に沿う行動を取るうちに、本来あったはずの欲求や感情は切り離され、場合によっては感じ取れないほどになってしまいます。こうして彼らの真の情緒は解離され、実感を伴う生き生きとした感情は失われていきます。
ここで解離傾向の強い子供の中には、かなり特徴的な現象が起きることが知られています。それは親の心の中にある「いい子」である自分の姿がコピーされたように心に住み着くのです。もしこの親の心の中のいい子である「Bちゃん」が人格として動き出すと、今度はBちゃんが親の前ではいつも顔を出すようになり、本来のAちゃんは隠れてしまうということになります。
あるいは「悪い子」が住みつくこともあります。こちらの方はむしろ叱られることから直接引き起こされる可能性があります。親に怒られた時、子供はその理由がたとえわからなくても「ごめんなさい」と許しを請い、自分を責めることがあります。その際には親の持っている「この子は悪い子だ、だから自分は叱っても当然なのだ」という心理を反映しています。この場合も「悪い子Cちゃん」は最初は親の心にあった「悪い子」の自分の姿がコピーされて心に棲みつくということになります。そしてBちゃん、Cちゃんはそれぞれ別個に子供に住み着き、人格のもとになって行くのです。

複雑系 5
ちなみに長年議論を重ねてきた結果DSMが行き着いた診断基準を見てみよう。こんな書き方だ。

A.はつきりと確認できるストレス因に反応して,そのストレス因の始まりから3カ月以内に情動面または行動面の症状が出現
B.これらの症状や行動は臨床的に意味のあるもので,それは以下のうち1つまたは両方の証拠がある。
(1)症状の重症度や表現型に影響を与えうる外的文脈や文化的要因を考慮に入れても,そのストレス因に不釣り合いな程度や強度をもつ著しい苦痛。
(2)社会的,職業的,または他の重要な領域における機能の重大な障害
C.そのストレス関連障害は他の精神疾患の基準を満たしていないし,すでに存在している精神疾患の単なる悪化ではない。
D.その症状は正常の死別反応を示すものではない
E そのストレス因,またはその結果がひとたび終結すると,症状がその後さらに6カ月以上持続することはない。

 うまくできていると思う。要するにストレスに反応する形で、つまり時間的にそのすぐ後に起き、普通の反応にしてはその程度が強すぎ、そのストレスが消えたら症状も消えるというわけだが、ここではすでに普通の反応ではないと認めることで、「了解可能」とは言えないという事情をもう含みこんでいるということになる。ここでシュナイダーの体験反応の基準「2」を思い出そう。「2.その状態の内容、主題は、原因との関連で了解可能である。」ホラね。ここが違うところだ。シュナイダーが「皆誰でも同じようなことが起きればそうなるよね」と言っていたのは甘かった。適応障害が「(現れた症状が)不釣り合いな程度や強度」だということで何らかの「異常事態」が起きていることを示唆している。でもそれって結局何らかの意味で「内因」ってことじゃないの? そう、結局適応障害は矛盾を含みこんだ居心地の悪い診断だということをみなが認めているのだ。そこで当然起きる疑問。心因性って、意味があるの? 適応障害に診断の価値はあるの? 本質的な問題だ。



2019年2月6日水曜日

複雑系 4


 さて、ここまでで少し違和感を持つ人もいるかもしれない。例えば心因性の鬱を考える。今の例だと仕事をクビになって鬱になったわけだが、もしそれが「了解可能」であるとしたら、その鬱は自然の、ある意味では健全な反応であり、誰でも同じ状況ではそうなってもおかしくはないということになる。でも実際にクビになって皆が鬱になるわけではない。
仕事がクビになるのはつらい体験だろう。それで落ち込むのもわかる。でもうつ病と判断されるほどに深刻なうつになるとしたら、それも「了解可能」なのか。軽い(あるいは普通の)鬱にならずに深刻なうつに見舞われた人も「了解可能」なのか。むしろ深刻なうつになってしまう部分は「了解不可能」ということにならないのか? そう、ここら辺が一番難しいところ、悩ましいところなのだ。実は心因性の疾患は、その概念それ自体に矛盾をはらんでいる。心因性の疾患は、それ自身が純粋に心因では説明がつかないという点で自己撞着的なのだ。たとえて言うならば、「健康な病気」みたいな表現になっているわけである。ちなみにアメリカのDSMという診断基準には「適応障害」というものがあるが、これが心因性の疾患に一番近い。「適応障害」にはふつう但し書きが付く。不安症状を伴った適応障害、抑うつ症状を伴った適応障害、などなど。ところが一つ重要な条件を満たしていなくてはならない。それは症状があまり深刻ではないということだ。それは先ほど書いた矛盾を考慮してのことである。環境からのストレスにより、「了解可能」な範囲で症状が出ているんだね。だったら少なくともその症状は軽度にとどまっていなくてはならない。重度になってしまうと、もう『了解可能』な範囲を超えているからね」というわけである。いつか大リーグの大谷君がピッチャー返しのボールを手でちょっと触わってしまい、ベンチが心配したことがあった。大谷君は「平気、平気」という仕草をして、ベンチも胸をなでおろした。つまり彼は「何でもないよ」という意思表示をしたわけで、実際に「何でもない」、つまり「試合を中断したり、医療スタッフが駆け寄ったりする必要はない」ものとして扱われたわけだ。「なんでもない」以上はしばらく痛くても、そのうちその痛みは消え、指の爪がわれていたり、試合後も痛みが残ったりすることがあってはならない。その程度のことは誰でも「了解可能」な経験として持っていることになる。心因性の反応も適応障害も、「何でもない」「ヘーキヘーキ」の状態からあまり遠ざかって深刻な病気になってしまうと、もはやそうとは呼べなくなってしまうというわけである。(この大谷君の例、あまり意味なかったかな。書いていて何となく思い出したのである。)
 ともかくもこの心因性の病気という概念の持つ矛盾は、この心因性という概念があまり信頼がおけない概念であるということを示しているのかもしれない。そしてそれがこの概念がどちらかと言えば使わらなくなっている原因ともいえるだろう。

2019年2月5日火曜日

解離の心理療法 推敲 4 、 複雑系 3


症状は演技?と自分を疑うヒサヨさん(20代女性、介護職)

(省略)

解離性障害の人は誰かに言われた言葉や考えがそのまま取り込まれてしまい、それらが自分の感覚とはかけ離れた意見や指摘であっても、そのまま心に残ってしまい、突然よみがえってくることがあります。一般の人々の生活でも、これに近いことはある程度は起きることがありますが、解離性障害の場合にはそれが極端に生じます。その結果としてこの例のように、一方では症状を実際に生きながら、他方ではそれは演技だという考えも浮かぶという矛盾した体験を持つことになります。そしてこのことは医療者側にさらに混乱や疑念を招くという悪循環を起こすことになります。「人格の存在は演技である」という一種の「神話」はこうやって継承されてしまう可能性があります。

最初は脳の障害を疑われたダイキさん(30代独身男性、技術職

(省略)

ダイキさんの例は、追い詰められた状況でピンチヒッターとして登場した交代人格が主人格に代わり一層無理を重ね、人格全体を破綻に追い込む過程をよく示しています。その場の苦難を乗り越えるために人格システムが引き起こす行動が、その人を一層追い込む結果になるのです。このようなケースでは患者さんが陥っている悪循環にどう介入するか見極めることが、治療の出発点となります。ちなみにダイキさんの記憶喪失は一過性のものでしたが、仕事のストレスから過去のすべての生活史を失い、それが長い間戻らないケースもあります。いわゆる解離性遁走と呼ばれる状態がそれに相当します。



複雑系 3


もう少しこのテーマについてきちんと調べて書かなくてはならない。そこで登場するのがシュナイダーの精神病理学テキスト。スキャンしたPDFがあるので難なく取り出してみる。やっぱり自炊しておいてよかったなあ。

Schneider, K (1962) Klinische Psychopathologie. Sechste, verbesserte Auflage Georg Thieme Verlag. Stuttgart クルト・シュナイダー (), 平井 静也 鹿子木敏範(訳)(1977) 臨床精神病理学. 増補第6版. 文光堂.

心因反応はシュナイダーが「体験反応」として以下のように書いている。「そもそも数十年前にヤスパースが言っていたことだが、1.原因となる体験がなかったら、その反応体験は起きなかっただろう。2.その状態の内容、主題は、原因との関連で了解可能である。3.原因が去ればその状態も改善する。
つまり昨日書いた内容と同じである。さてシュナイダーのテキストにてっきり書いてあると思った「内因」の定義がほとんど書かれていない! 昔高いお金を出したテキストなのに!ということでMerriam-Webster (ネット版)で調べてみると(やはり日本語の辞書じゃねえ)こんなことが書いてある。
Endogenous (内因の)
 1: growing or produced by growth from deep tissue.
2: a. caused by factors inside the organism or system suffered. b. produced or synthesized within the organism or system.
つまり問題となった組織の深い部分から生み出された、とかなんとか書いてある。ここで組織というのは脳だとすると、脳そのものの病気によるものが「内因性」ということになる。なんだか別に調べなくても最初から分かっていたことだが、まあ論文を書くとはこんなことをするのだ。
つまりこうだ。心因性の病気とはある体験から、了解可能な形で起きる反応。
内因性の病気とは、脳そのものの病気が原因で起きるもの。体験は関係なし、というわけだ。いっけんすごくわかりやすい分類だが、実はこれがどうして問題かと言えば、両者はしばしば複雑に絡み合っているからだ。そしてその絡み合い、相互の関係性が現代の精神医学においてもしばしば理解が難しいということである。わかりやすい例として、心因性の例として、Aさんが仕事をクビになって鬱になった、というのを考え、内因性として、Bさんが何もきっかけもないのに鬱になったという場合を考えよう。すごくわかりやすい例と思われるかもしれないが、そこにいろいろな事情を加味すると一気にわからなくなる。例えばAさんはこれまで何度もクビになったが、鬱になったことがなく、すぐ別の仕事を探し始めていた。それなのに今回だけなぜか深刻に落ち込んでしまったとしよう。そういえばAさんはここ数年酒の量が増え、体力が落ちていたかもしれない。あるいは彼の父親もちょうどこのくらいの年代で鬱を発症していたことがわかる・・・・。あるいはBさん。実は一年前にカミさんに出て行かれ、寂しそうにしていたらしい。あるいは実は半年前から精神分析を受け始め、自分自身に向き合うことが増えていたらしい(精神分析関係の先生方、スミマセン)。そう、脳独自の病気も、心因も微妙なものが非常に多く、しばしば両者は絡み合い、明確に心因性か内因性かを区別できないことがとても多いのである。(こんな例はどうか。最近夫婦仲が冷え切っていて、夫は落ち込みがちになり、寂しさを酒で紛らわすことが多くなり、仕事を休みがちになり、そのような夫に愛想を尽かした妻からさらに冷たくされ、夫はアルコール中毒気味となり、それがさらなる鬱を引き起こしてしまった・・・・。)

2019年2月4日月曜日

複雑系 2


さてどこまで細かく追って行ってもそこで微細なからくりが恐ろしいまでに整然と用意されているという意味で、生命体は恐るべき複雑系なのである。そして複雑系としての生命体は、例えば複雑系としての気象現象、地球環境、あるいは宇宙などとは次元が違う見事さを保っている。それはこれだけの複雑な構造を持った組織が全体としてほぼ完全に統一されているということだ。10兆もの細胞の塊、その一つの細胞の中にとてつもない複雑さ(60億塩基対の連なった長さ二メートルのDNAが整然と格納されている!!)を備えた塊が、一つの統一体として走ったり、歌ったり、考えたり、生殖活動を営んでいるのである。昔の人がこの統一体は何者かの意思により想像されたと考えても全く不思議はない。ほかにだれか高い知性を備えた存在が、目的と意図を持って人間を作り上げたに違いない、という考え方は当然あったし、今でもある。それが「インテリジェントデザイン」という考え方だ。またこの考えに従う人を、「インテリジェント・デザイナー」と呼ぶ。あたかも「知的なデザイナー」を意味するのではないかと錯覚するが、これは要するに、神(という高度の知性)が人を創りたもうた、という要するに天地創造論である。ところが最近の考えでは生命はことごとくボトムアップ、つまり最初は動的な無秩序と有り余るエネルギーがあるだけというカオスから、秩序が徐々に、しかも必然的に生まれてきたという理論に置き換わっている。
しかしこんなペースで書いていたら、「心因論、内因論」の話に行き着かない。そこでまずは「心因論」の定義に立ち戻ることから始めよう。
「心因反応、心因論」の定義はおそらく似通ったものだろう。だから次のように言っておく。「ある種の出来事による心の反応として起きた症状。」ここにある前提は、人間はある種の出来事に対して精神的な反応を起こすということだが、これは当たり前のことを言っているだけである。つらい事があれば悲しむ。憂鬱になる、あるいは怒る、不安になる、不機嫌になる。うれしいことがあれば快活になる、有頂天になる、興奮する、など。するとその反応の程度が少し極端であった場合には、それは心因による反応(不安、恐怖、抑うつ、悲嘆など)と表現される。そこには二つの前提がある。ひとつはそれが大部分の私たちにとって疑似体験が可能だということ、そしてもうひとつは心因が取り除かれればその症状が回復する、ということである。少し考えればこの二つは必要十分といっていいということがわかる。何事も起こらないのにおきる「反応」(と呼べるかはわからないが)は心因がない以上はそうは呼べない。アタリマエだ。それと原因がなくなれば、反応する理由がなくなるので症状は消える。消えなかったらそれは反応以上の「何か」がおきていることになるからだ。そしてもうひとつあるとすれば、「その症状が極端ではないこと。」それはそうだ。百円玉をどこかに落としてなくしてしまっても、それで起き上がれないほどのショックを味わうとしたら、それは「大部分の人にとって疑似体験できる」事にはならないからだ。すると心因反応、あるいは心因性の精神障害は、ある種の原因により理解できる精神的な反応が(おそらく少し強めに)出現している状態。(おそらく強めに)というのはこの部分がないと、病気として救い上げられないからだ。
さて内因性の障害は、これ以外で起きた精神障害をすべて指す、ということになるが、昔は外因性、とか器質性とかのカテゴリーもあったので、いちおう「感染症、外傷、その他器質因その他の外的な要因によらないもの」という条件が付くことになる。そう、遺伝性の疾患も「内因性」には属さないことになる。内分泌異常による鬱も内因性ではないということになる。なんだか依頼原稿とはいえ、書いていて面白くないなあ。

2019年2月3日日曜日

解離の心理療法 推敲 4


4.治療開始への不安や抵抗
様々な経緯を経て治療者にたどり着いた患者さんは、まだ多かれ少なかれ不安や抵抗を抱いているのが普通です。多くの場合、いくつかの人格が治療を受けることに対してそれぞれ別々の考えを持っています。普通は治療に積極的な人格Aさんがアポイントメントをとっても、当日の朝は別の人格が起きていて、結局来院しないということも起きます。時にBさんが、「手帳に多分Aの筆跡でこのクリニックの予定が書かれていたから、とりあえず来てみた」と言い、警戒の表情を浮かべるかもしれません。そのような警戒の念や不安を少しずつ取り除くことが、治療者にとっての最初の課題となります。多くの患者さんはそれまでの体験から、たとえそれが援助スタッフであっても、他者から助けの手を差し伸べられることへの希望を失い、時には強い不信や怒りさえ抱えています。まずは治療者に会うのを受け入れてもらうことが、治療への第一歩です。
以下にこれらの不安や抵抗を克服して治療開始に至ったいくつかの例を示します。

不信感を抱くアキホさん(30代女性)

(架空の例だが省略)

アキホさんは攻撃的な交代人格をもつDIDであり、これまで他者との間で繰り返されてきた誤解や行き違いが治療の場でも起きることに、強い不安を抱いていました。初対面の場でその不信と不安が高まり、人格交代が現れたのです。解離性障害の患者さんが急な態度の変化を見せた時には、経過を注意深く観察し何が起きているか様子をうかがい、落ち着いた態度で話しかけるのがよいでしょう。患者さんの状態に左右されることなく安定した姿勢を保ち、常に対話を心掛けることで患者さんは心の内を示しやすくなります。また患者さんが治療の必要性を自覚している場合でも、過去のトラウマを想起して他者に打ち明けることを恐れ、治療に強い抵抗を示す場合もあります。次はその例です。

話をしたくないムツミさん(20代女性、主婦)

(架空の例だが省略)

解離性障害の患者さんは、自分よりも相手のことを気にかける傾向があり、周囲に負担をかけているという懸念が受診や来談を後押しする場合もあります。治療の導入では、その時々の患者さんの気持ちや考えに沿いながら話を掘り下げていくことが最も重要です。
患者さんによっては、人格交代を始めとする様々な症状そのものが「自分の思い込みや勘違いではないか」という疑問を抱いていることもあります。

2019年2月2日土曜日

複雑系 1

複雑系 1

複雑系としての身体が生み出す心の病
 考えるだけで気が遠くなるということがある。例えばコンピューター。どんな複雑なコンピューターのプログラムを操っていても、そのもとのもとのもとをたどると、0か1かの信号に従ったプロセスである。読み取り機が0か1の信号を読み取り、簡単なルールに従って先に進んでいく。いわゆるチューリングマシンだ。それをものすごーく微小の素子を使って、ものすごーぐ高速で行うことで巨大なプログラムが動いていく。私がこうやってワープロで文字を打っても、一つ一つに膨大な素子による信号の読み取りがあってこそ、初めて正しい文字が打ち込める。勿論そんな素子たちのことを思いやりながらパソコンを打ってはいられない。ただ考え出すと気が遠くなるのだ。そしてそれを世界中で何百万何千万という人たちが行っていることを考えると・・・・。いやおそらく考えられないのだ。
しかしたとえば私たちの体で起きていることを考えても、おそらくコンピューターどころではないことが起きている。数10兆の体細胞(だったかな?)、その細胞のすべてに(といっても核のない赤血球などは除かれるが)DNAの長い紐が格納され、その長さはおよそ2mで、それがわずか数ミクロンの細胞核に入っているのである! そしてそのDNAにはおよそ60億個の塩基対が含まれている。恐ろし―。そして塩基対がいくつか集まってタンパク質を形成するわけだが、タンパク質は正しい形が整っていることで意味を成す。タンパク質は単なるアミノ酸の鎖ではなく、それが3次元にうまく形を成すことで、鍵穴に入る鍵のごとく、受容体にくっついたり離れたりできるのだ。生命活動とは、たとえばホルモンを分泌するとは、タンパク質が遺伝子の塩基対から情報を拾って作られるわけだ。そしてそしてそのタンパク質がいくつかのアミノ酸がつながる形でDNAの塩基対の鋳型から作られ、ちゃんとした形になるように、それを守ってあげる別のたんぱく質があって・・・・。一つのタンパクがようやく出来上がるまでに数分かかるという。ちょうどさなぎの殻を破って生まれた長が羽をゆっくり広げるまでは絶対邪魔されないようなことが、タンパク質1個が生まれるだけで小さな小さな細胞の中で起きている。ああ。ため息が出てしまう。
 何を言いたいかと言えば、私たちの体は途轍もない複雑系で、そこで何が起きているかは全く知られていないのであり、それが心に及ぼす影響なども全く持って未知数なのである。

2019年2月1日金曜日

解離の心理療法 推敲 3


3.治療者にたどり着くまで

こうして患者さんの多くは生きる上での困難がありながら、問題をひとりで抱え込んでいます。その間に症状が進めば、ご本人が困るだけでなく、周囲を巻き込む問題が頻繁に起こるようになります。トラブルに見舞われた家族や周囲によって治療の場に連れて来られた患者さんの思いは様々です。本人に病識が欠如していれば受診に拒否的となり、初診まで歳月を要することも稀ではありません。
その一方では自らの症状や交代人格の存在を把握し、積極的に治療を求めて来談する患者さんも増えています。近年ではDID映画や小説で取り上げられることも増えています。過去にさかのぼっても、小説では「ジキル博士とハイド氏」、「24人のビリーミリガン」、「十三番目の人格ISOLA」、「プラチナデータ」、映画では「サイコ」、「ファイトクラブ」、「シークレットウィンドウ」、「スプリット」その他がありました。(とはいえ、魔法の薬を飲んで体まで変身してしまうジキルとハイドの話は、とてもDIDとは程遠いのですが…)。患者さん自身がメディアに登場することもあれば、インターネット上に日常を綴ったブログを掲載する人もいます。一部の人は理解者を求めて専門医のもとに殺到し、治療の初回から交代人格の数や特徴を一覧にしたプロフィールを持参することもあります。
一般に患者さんが治療者を尋ねるまでの経緯には、以下のような場合があるようです。
・本人や家族が症状を書籍やインターネットで調べ、解離性障害という病名にたどり着くケース
・家族や周囲の知人たちがあらかじめ解離性障害の知識をもっており、本人にその疑いがあることを伝えるケース
・家族や周囲の知人たちが本人の状態を心配し、医療への受診を勧めることで初めて自分の問題に気がつくケース

ご自身も解離性障害であるとは知らず、治療者の側もそれを予想せずに最初の診察や相談が開始することもあり、その場合は治療を通して初めて実態が明らかになります。

精神科受診がゴールではない

一つここで申しあげなくてはならないのは、解離性障害に関しては、精神科医の受診が一つの到達点ないしはゴールとは考えられないということです。私たちは通常何か病気があった場合、その専門家の判断を仰ぐことをまず考え、そこで下される診断はおそらく正しいものとして受け入れるでしょう。それは内科や外科の病気に関してはある程度いえることです。ところが精神科に関しては、なかなかそうは言えないという事情があります。皆さんは奇妙なこととお考えになるかもしれませんが、こと解離性障害、特にDIDに関しては、精神科医の中には最初からその存在が頭にないという人が少なくありません。一昔前なら、医学部時代の精神医学の講義に「解離性障害」は登場しなかったという事情があります。そして精神科医としての初期の訓練を受けても、そこで解離性障害の患者さんに出会ったり、そのような病気について教育を受けることはあまりないのです。このような現象は精神医学に属する様々な診断の中でもあまり例がないのです。
解離性障害について馴染みのない精神科医が、それを診断として頭に思い浮かべないというのは不幸なことですが、それを複雑にするのが、多くの精神科医にとってとても馴染みのある統合失調症の存在です。そして解離性障害の方の訴えと統合失調症の方のそれは少し似たところがあります。頭の中でかなりはっきりとした声が聞こえる幻聴などはその主たるものと言えるでしょう。そのため解離性障害の訴えは統合失調症と理解され、処理されるということが往々にしておきます。
少し話がそれますが、統合失調症はかなり早くからその兆候が表れることが多く、それが疑われた時点で早めに薬物治療を行うことでその悪化を防いだり、遅らせたりできるという考えが精神科医の間に根強くあります。そしていかに早く統合失調症を見つけ、治療を開始するかは精神科医の経験と腕の見せ所である、という考え方がずっとありました。昔の精神科の医局には、統合失調症(昔は精神分裂病と呼んでいましたが)の兆候をかなり早くから嗅ぎ分ける名人のような先輩医師がいたものです。そこで解離性障害に関しても、「疑わしきは」とりあえず統合失調症の表れと見立てて治療を開始するということが多くの精神科医によってなされているのです。
するとそこで統合失調症の悪化を予防するための薬物療法が開始され、その結果として長い間の時間が無駄に過ぎてしまう場合があるのです。通常は一人の医師にかかるということは、その患者さんが別の医師に会い新たな診断を下してもらうという時期を年単位で遅らせてしまうものです。特に日本では担当の先生に失礼にあたる、という懸念から容易にセカンドオピニオンを求めることが出来ないという事情があります。すると精神科を受診して誤診を受け、それに基づいた治療を行うということは、ゴールどころか回り道になってしまう可能性もあります。そのためにも患者さん自身や家族が正しい知識を身に着けることがとても重要になってきます。そして本書の目的の一つはその機会を提供することにあるのです。