さて、ここまでで少し違和感を持つ人もいるかもしれない。例えば心因性の鬱を考える。今の例だと仕事をクビになって鬱になったわけだが、もしそれが「了解可能」であるとしたら、その鬱は自然の、ある意味では健全な反応であり、誰でも同じ状況ではそうなってもおかしくはないということになる。でも実際にクビになって皆が鬱になるわけではない。
仕事がクビになるのはつらい体験だろう。それで落ち込むのもわかる。でもうつ病と判断されるほどに深刻なうつになるとしたら、それも「了解可能」なのか。軽い(あるいは普通の)鬱にならずに深刻なうつに見舞われた人も「了解可能」なのか。むしろ深刻なうつになってしまう部分は「了解不可能」ということにならないのか? そう、ここら辺が一番難しいところ、悩ましいところなのだ。実は心因性の疾患は、その概念それ自体に矛盾をはらんでいる。心因性の疾患は、それ自身が純粋に心因では説明がつかないという点で自己撞着的なのだ。たとえて言うならば、「健康な病気」みたいな表現になっているわけである。ちなみにアメリカのDSMという診断基準には「適応障害」というものがあるが、これが心因性の疾患に一番近い。「適応障害」にはふつう但し書きが付く。不安症状を伴った適応障害、抑うつ症状を伴った適応障害、などなど。ところが一つ重要な条件を満たしていなくてはならない。それは症状があまり深刻ではないということだ。それは先ほど書いた矛盾を考慮してのことである。環境からのストレスにより、「了解可能」な範囲で症状が出ているんだね。だったら少なくともその症状は軽度にとどまっていなくてはならない。重度になってしまうと、もう『了解可能』な範囲を超えているからね」というわけである。いつか大リーグの大谷君がピッチャー返しのボールを手でちょっと触わってしまい、ベンチが心配したことがあった。大谷君は「平気、平気」という仕草をして、ベンチも胸をなでおろした。つまり彼は「何でもないよ」という意思表示をしたわけで、実際に「何でもない」、つまり「試合を中断したり、医療スタッフが駆け寄ったりする必要はない」ものとして扱われたわけだ。「なんでもない」以上はしばらく痛くても、そのうちその痛みは消え、指の爪がわれていたり、試合後も痛みが残ったりすることがあってはならない。その程度のことは誰でも「了解可能」な経験として持っていることになる。心因性の反応も適応障害も、「何でもない」「ヘーキヘーキ」の状態からあまり遠ざかって深刻な病気になってしまうと、もはやそうとは呼べなくなってしまうというわけである。(この大谷君の例、あまり意味なかったかな。書いていて何となく思い出したのである。)
ともかくもこの心因性の病気という概念の持つ矛盾は、この心因性という概念があまり信頼がおけない概念であるということを示しているのかもしれない。そしてそれがこの概念がどちらかと言えば使わらなくなっている原因ともいえるだろう。