さてどこまで細かく追って行ってもそこで微細なからくりが恐ろしいまでに整然と用意されているという意味で、生命体は恐るべき複雑系なのである。そして複雑系としての生命体は、例えば複雑系としての気象現象、地球環境、あるいは宇宙などとは次元が違う見事さを保っている。それはこれだけの複雑な構造を持った組織が全体としてほぼ完全に統一されているということだ。10兆もの細胞の塊、その一つの細胞の中にとてつもない複雑さ(60億塩基対の連なった長さ二メートルのDNAが整然と格納されている!!)を備えた塊が、一つの統一体として走ったり、歌ったり、考えたり、生殖活動を営んでいるのである。昔の人がこの統一体は何者かの意思により想像されたと考えても全く不思議はない。ほかにだれか高い知性を備えた存在が、目的と意図を持って人間を作り上げたに違いない、という考え方は当然あったし、今でもある。それが「インテリジェントデザイン」という考え方だ。またこの考えに従う人を、「インテリジェント・デザイナー」と呼ぶ。あたかも「知的なデザイナー」を意味するのではないかと錯覚するが、これは要するに、神(という高度の知性)が人を創りたもうた、という要するに天地創造論である。ところが最近の考えでは生命はことごとくボトムアップ、つまり最初は動的な無秩序と有り余るエネルギーがあるだけというカオスから、秩序が徐々に、しかも必然的に生まれてきたという理論に置き換わっている。
しかしこんなペースで書いていたら、「心因論、内因論」の話に行き着かない。そこでまずは「心因論」の定義に立ち戻ることから始めよう。
「心因反応、心因論」の定義はおそらく似通ったものだろう。だから次のように言っておく。「ある種の出来事による心の反応として起きた症状。」ここにある前提は、人間はある種の出来事に対して精神的な反応を起こすということだが、これは当たり前のことを言っているだけである。つらい事があれば悲しむ。憂鬱になる、あるいは怒る、不安になる、不機嫌になる。うれしいことがあれば快活になる、有頂天になる、興奮する、など。するとその反応の程度が少し極端であった場合には、それは心因による反応(不安、恐怖、抑うつ、悲嘆など)と表現される。そこには二つの前提がある。ひとつはそれが大部分の私たちにとって疑似体験が可能だということ、そしてもうひとつは心因が取り除かれればその症状が回復する、ということである。少し考えればこの二つは必要十分といっていいということがわかる。何事も起こらないのにおきる「反応」(と呼べるかはわからないが)は心因がない以上はそうは呼べない。アタリマエだ。それと原因がなくなれば、反応する理由がなくなるので症状は消える。消えなかったらそれは反応以上の「何か」がおきていることになるからだ。そしてもうひとつあるとすれば、「その症状が極端ではないこと。」それはそうだ。百円玉をどこかに落としてなくしてしまっても、それで起き上がれないほどのショックを味わうとしたら、それは「大部分の人にとって疑似体験できる」事にはならないからだ。すると心因反応、あるいは心因性の精神障害は、ある種の原因により理解できる精神的な反応が(おそらく少し強めに)出現している状態。(おそらく強めに)というのはこの部分がないと、病気として救い上げられないからだ。
さて内因性の障害は、これ以外で起きた精神障害をすべて指す、ということになるが、昔は外因性、とか器質性とかのカテゴリーもあったので、いちおう「感染症、外傷、その他器質因その他の外的な要因によらないもの」という条件が付くことになる。そう、遺伝性の疾患も「内因性」には属さないことになる。内分泌異常による鬱も内因性ではないということになる。なんだか依頼原稿とはいえ、書いていて面白くないなあ。