2026年10月28日水曜日

成田先生のこと 推敲 24 

 (承前) 私はここに二つの意味があると考える。一つにはそうすることで患者が治療者の弱気で怯えている部分を初めて垣間見ることになり、それが治療関係を大きく変える可能性があるからだ。患者が治療者に不満をぶつける時、大抵は治療者の側はびくともせず、むしろいくら言っても聞く耳を持たないのではないかという思いがあることが多い。権威的な相手に容赦なく不満や怒りをぶつける時、相手に一矢くらいは報いるという感覚はあっても、それ以上の衝撃を与えているという実感はないものだ。ちょうど幼児が母親をボカボカ殴りつける時 、幼児は母親をあたかもそのくらいではビクともしない存在であるととらえているであろう。つまりは相手を生身の人間とは見ていないことになる。そしてその意味で治療者と患者の関係は対等であるには程遠いのだ。

 すると治療者が弱気で動揺している部分を「白状」することで、患者は治療者を自分と同じ弱さを持つ対象として、つまりは等身大の人間として見ることにつながるかもしれない。つまり現実に一歩近づくわけだ。そして治療者に詰問する中で表現していた怒りによる相手のダメージのことを思い至り、後ろめたさや後悔の念に駆られるかもしれない。
 ただし私はこの理由が問題の本質にかかわっているようにはあまり思えない。もう少し別の理由が、それも精神療法の在り方そのものに関係した事情がそこにあるのではないかと考えるのだ。

 このもう一つの意味は、以前述べた精神療法の持つ曖昧さと関係してくる。精神療法はある種のサービス業だと私は考えているが、実はその実態は極めて漠然としたものである。患者と治療者は対話により患者が持ち込む問題の解決を模索するが、その内容も、その解決のされ方も漠然として言語化しがたい。そして患者も治療者もそれをどこかで意識している。患者の方は自分が治療に望むことが多くの場合不明であり、また治療者とのかかわりがどのように作用してそれが改善ないし悪化しているのかもよくわからない。患者が比較的明確に感じるのは、毎回のセッションでの治療者とのかかわりが心地よく感じられるか、それとも無意味に感じられたり腹が立ったりするか、といった自分の中の情緒的な反応であろう。そして時々は治療者の言葉が強く印象に残ったり、自分の気持ちを分かってもらえたという満ち足りた感覚を抱くであろう。しかしそれにより傷つき、不信感を抱く結果となることもある。そしてそのような時、多くの患者は治療者は治療関係の中で何が起き、どのような方向に進んでいくかについて、自分よりは明瞭な意図や考えを持ち、それをもとに自分を導いてくれていると思うだろう。つまりは治療に通うということを積み重ねることにどのような意味があるかを、少なくとも治療者の側は理解し説明できることを期待しているのである。


2026年10月27日火曜日

成田先生のこと 推敲 23 

  さてこのような状況での治療者の本音を考えよう。例えば「確かに自分はこの患者のことをよくわかっているとは言えない。少なくとも簡潔に今起きていることを言葉に言い表すことはできない。その意味では確かにこの患者の言うとおりだ。」と考えているかもしれない。  そこで正直にその気持ちを「白状」したとしよう。たとえば「おっしゃるとおり、私はここでは治療者として十分なことはできていませんね」と言う。もちろんそれを開き直ったように堂々と言うのではなく、「大変残念なことではあるが」というニュアンスを込める必要はあるだろう。  ところが普通治療者はこのような「白状」をすることには抵抗を感じる。何よりもそうすることが自分にとって不利になると感じるからだ。それは治療者自身が持っている矜持、プライド、ないしは権威を損なう可能性があるからであろう。  しかしこのような時、治療者は別の気持ちも持っているはずである。「自分は一生懸命この人の話を聞いている。しかしそれでも『わかってもらえていない』と思われるとしたら、いったい自分はどうしたらいいのだろう?」という当惑の気持ちである。さらには「精一杯頑張っている自分が患者にどうしてここまで責められなくてはならないのか?」という怒りも感じるかもしれない。

        <以下略>


2026年10月26日月曜日

成田先生のこと 推敲 22 

「正直に言う」ことの臨床的な意義

 この成田の正直さの持つ臨床的な意義についてもう一歩踏み込んで考えよう。先ず前提として言えることは、成田はこの「正直に言う」や「白状」をやみくもに行うのではないということだ。それは特に治療者が治療場面で窮地に立った時に意味を持つ可能性がある。そのような時、たいてい治療者は防衛的になっている。それは治療者としての能力を正面から問われるような事態だ。「先生はどう思っているのか?」「先生は何をしてくれるのか?」「全然状態は改善しないではないか?」「今の私の問題をどのように捉えているのか?」「先生の見立ては何なのか?」等であろう。そして治療者はそれに明確に応えられない状況に立つ。それらの患者からの問いかけはいずれも正当なものであると一方では認識する。しかし他方では明確にそれに対して答えられない。患者の中で何が起きているのか、治療者患者間で何が起きているのか、患者さんの問題をどのように見立てているのか、いずれもあまりに複雑で、不明瞭で、時には不可知的である。分析家であれば、それを理屈で説明しようとするかもしれない。分析理論を用いて、例えば「あなたは父親への感情を私に移し替えて(転移して)いるのでしょう」など。しかしそれが妥当でないとしたら、それは治療者が言っている傍から、あるいは患者が聞いている傍から嘘くさく感じられてしまう。

 結局こういうことだ。患者の心で正確に起きていることも、自分と患者の間で起きていることも雲を掴むようで理屈で説明は出来ない。しかしあたかもそう出来ているようにふるまっている。それは精神療法家、あるいは精神科医として看板を掲げて、患者が相談に訪れ、治療者が時間を取り、その分の料金を受け取っている以上当然期待されることである。しかし心理療法の世界では確かなことは何一つ存在しないと言っても差し支えない。例を挙げよう。

患者「最近気分がふさぐんです」

治療者「どのようなことがあったんですか?」

患者「よくわかりません。でもこの九月の長雨が関係しているのかもしれません。」

治療者「いつも季節の変わり目や天候の崩れが気分に影響していますか?」

患者「そんな気もしないでもないですが。あと最近仕事でストレスを抱えているというのも関係しているのかもしれません。よくわかりませんが。」

治療者「なるほど・・・・」

 とこんな感じで会話が重ねられていく。どこでも聞かれそうな会話の断片である。しかしこのような調子で話が続いた場合、治療者は患者の気持ちの塞ぎをどの程度理解し、どの程度確証をもってそれを説明するのか。精神科医だったら「そういえば五苓散という漢方が効くことが多いので、お出ししましょうか?」「お願いします」でお茶を濁すこともできるだろうが、心理療法ではそうもいかない。患者の気持ちの塞ぎはそれがある明確な出来事に関連して起きているのではない限り、治療者にとっても、患者自身にもその理由や対処法がわからないことが多い。

このような会話が終わった後、普通患者は「ではまた次回もお願いします」と料金を支払って帰ってくるかもしれない。そしてその患者が「結局30分お話を聞いてもらっても、ただのお喋りみたいだし、何の解決にもなりません。お金を返してください」とはならない。ところが時にはそれが起きてしまう。半年も一年もこのようなやり取りが続いた挙句、その日に特に気分がすぐれない患者がある日治療者にその不満をぶつけるかもしれない。「ここにきて一体なのが変わったのか分かりません。先生は何をしてくださったのですか?」それまで毎回一生懸命傾聴を続けつつ、出口を見出せない気持ちになっていた治療者は、たちまち患者の詰問の矢面に立たされるだろう。


2026年10月25日日曜日

成田先生のこと 推敲 21 

 成田の精神療法の「二大原則」

 このような成田の正直さや率直さは、その臨床観に深く関係している。彼は「精神療法の二大原則」として、「困ったときは正直に言う」、「わからないことは患者に聞く」を掲げている。これらは成田が精神分析的な原則に縛られることなく、自らの臨床経験から導いたものであるが、少し補足説明が必要であろう。

 「自分の精神療法の二大原則は、『困ったときは正直に言う』、『わからないことは患者に聞く』です。」((成田(2023) 講演「質問に応えて」2023年6月17日 倭木(すぎ、わぼく)の会)同 p.3)
 成田は「セッション内の治療者の主観的体験(患者の言動に対する反応)は出来るだけ開示する方向で考えるべきだと思っていて、これを『白状する』と称している」(ひとりごとp.93)と述べる。

 成田はその例としてある「重荷になる患者」に対する対応を挙げている(精神療法の経験 210)。患者は治療者に極めて依存的でありながら、「先生は私がこんなことを言うから重荷に思っているんでしょう」と言い、そういわれた治療者はそれを肯定するわけにもいかずに困っている。そして「あなたは私にしがみついている。母にしがみついていたように。」というたぐいの転移解釈に対して「世にこの手の解釈は沢山ある。こういう解釈が有効なことはめったにない。」と切り捨てた上で、「本当は重荷なの。でもそういうとあなたが見捨てられたと感じて治療を中断するのではないかと思うと、それが心配で、今まで言えなくて困っていたの。」と表現することをすすめる。成田善弘著新版 精神療法家の仕事 面接と面接者 成田善弘 金剛出版、2014年より

 ところでこのように患者に「白状する」という治療方針について、それをもろ手を挙げて賛成する療法家は少ないのではないだろうか。私も最初にこれを聞いたときは、「ちょっと自分には出来ないな」と思ったことは確かだ。しかし成田程の人がこの誤解を生みかねない表現を用いるのにはそれなりの理由があるとも考える。「白状する」には、治療者が普段は患者にそれを伝えないことで保っている「何か」の存在を示している。それは患者に対する素の気持ちであり、感情であろう。

 成田のこの「白状する」という方針からわかる通り、彼は治療場面における自分の姿をさらすことにはむしろ積極的という印象を受けるが、もちろん彼自身はこれが精神分析の世界で治療者の「自己開示」という問題で議論され、それがいかにタブー視されて来たかについて十分熟知している。しかし彼はまたフロイト自身が詩人HDとの治療で自己開示をしていることが伺われる点を指摘し、(ひとりごとp90)「自己開示をいちがいにタブーとするのは必ずしも治療的ではない」とする(同95)。

 成田が掲げているこの二つの原則は、彼の考える精神療法の在り方が、従来の分析的な中立性や受け身性、ないしは匿名性の原則とは極めて異質なものであることを示す。それは極めてアクティブで相互交流的 interactive なものである。もちろん成田はいかに患者に共感するかを第一に考えているのであろう。しかし彼は同時に精神療法がどのように患者にとって役に立つかを常に考えているようである。それがこれらの二つの原則の意味するところであり、要するに受け身的に話を聞くことは、いかに治療者の思いを患者に伝え、また問うかを前提としたものであることがわかる。

2026年10月24日土曜日

成田先生のこと 推敲 20

  成田の著作の読みやすさは、彼の思考が借り物ではなく、自らの体験から説き起こされたものであることを意味する。しかし成田が他の療法家や理論家を参照しないというわけでは決してない。幼いころから読書好きであったというだけあり、むしろ広く文献を渉猟している。さらには臨床経験を積み重ねる途上で手掛かりを求めて行き当たったさまざまな理論を、場合によっては取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田の治療論なのだ。そしてそれを彩るのが「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」など、いずれも優しい和語で語られる概念である。  成田の著作の読みやすさはまた、学問的な高尚さや衒学趣味をことさら回避する傾向の表れとも言えようが、それに関連して彼には肩書や名誉などへの拘りがかなり薄いように見受けられる。通俗的な意味での自己愛を感じることがほとんどない。それよりはむしろ自らの至らなさや自信のなさを率直に開示する傾向がある。  成田はたとえば自分は「孤独で人と交われなかった」こと、運動が苦手だったこと、分析学会誌に原著論文を掲載していないのに学会の会長になったこと、教育分析は受けていないこと、患者の前で何度か眠ったことがある、などなど、その例は枚挙にいとまがない。  ただしこれは自身がある種のカリスマとして扱われている事への備えのように思える。臨床に関して自身が語る言葉が余計な権威をまとうことを回避するための工夫ではないか。成田の言葉は確かに自分の経験から生まれたものであるが、それは常に正解と主張するつもりもないことを、自らの失敗体験をさらけ出すことで示している。正直であることは、治療者が陥りやすい自己愛に対する常なる戒めの意味を持っているのである。  余計な想像かもしれないが、成田のこの一種の丸腰戦法は、彼が対人関係を築くうえである重要な意味を持っていたのではなかっただろうか。人とのつきあい方に悩んだという若き日の成田が至ったのが、社会を渡り歩くうえで、この率直さ、正直さを貫く生き方だったのではないか。

2026年10月23日金曜日

成田先生のこと 推敲 19

 成田の著作に見られる正直さや率直さ

 成田は精神療法とはいかにあるべきかについて常に考え続けていた人である。それが精神療法そのものを主題とした数多くの論文や著作に表されている。それはほとんど「成田療法」と名付けてもいいような独自性や一貫性を有するのだが、その全体を通して流れているのが、上述の自由さと表裏をなす正直さや率直さである。これは成田の最後の著作のタイトル(「まっすぐに」患者と向き合う)にある「まっすぐ」であることとほぼ同義であるそれは彼の人柄を表すと同時に、精神療法家の在り方として追及した姿でもある。これはロジャース的な「自己一致」の見事な例と言える。

成田 善弘 (2024) 成田善弘 心理療法を語る: 「まっすぐに」患者と向きあう. 金剛出版社

 成田の率直さは彼の数多い著作に見られる筆致に表れている。成田の語りはいかにそれが奥深くても不思議と難解さは感じられない。それらは時にはエッセイ風に、どちらかと言えば軽いタッチで語られているからである。時には何らかの引用の後に典拠を示す代わりに「誰の言葉かは忘れた」などと書かれていると、読む側の肩の力もスッと抜ける。


2026年10月22日木曜日

成田先生のこと 推敲 18

 成田先生の自由さ

 以上述べた見地から成田先生について考えると、彼はとても自由であり、分析的療法家としては他に類を見ないほどであると言える。彼は精神分析学会での活動が長く、学会長まで務めた人物であるが「精神分析的であれ」という縛りは極めて薄いどころか、時にはそれに相反するような独自の考え方を持っていたことがわかる。しかしそれを表明するのは、分析学会の中での立ち位置を考えれば極めて難しいことであり、かなり勇気がいることなのだ。

 そのような成田の立場を特に際立たせているのが、成田の「深い精神療法と浅い精神療法」の議論であり、そこに見られる一種の「精神分析批判」である。
(成田(1982)精神療法の深さ—精神科医の立場から 精神療法 8巻4号、1982)(成田(2012)精神療法の深さー成田善弘セレクション 金剛出版、P70~71)

 この1982年の論文は、成田が40代の初めに書いたものということになるが、かなり旗幟鮮明に自分の考えを主張している。彼はまず、精神療法には深いものと浅いものがあると言い、両者を対比的に表示しているが、これはまさに精神分析ないしは表出的精神療法と支持的療法の対比と言える。その上でこう述べる。


<以下略>

2026年10月21日水曜日

成田先生のこと 推敲 17

 脱線が過ぎたので、また最初に戻る。

「自由人成田先生と精神療法のスタイル」 

 本誌の成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係にあったわけではなく、スーパービジョンをしていただく機会もなかった。年に一度、秋の精神分析学会で長身のお姿をお見掛けし、時々言葉を交わさせていただくだけであった。私は先生の著作を隅から隅まで読んだわけでもなかったが、私の中での先生の位置は特別なものであった。しかし改めてそれはどのような意味でであろうかを問うてみる。
 これを考えると、かつて先生が2014年に精神分析学会の小此木賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はたまたまその時に先生の簡単なご紹介をする立場にあったが、その最後に「私にとっては、成田先生は精神分析学会の良心と言っていい方です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした何人かの先生方が「面白いこと言うなあ!」とばかりに苦笑なさったことも覚えている。そして今振り返っても、成田先生はやはり私の心の中では「分析学会の良心」として特別な存在であったのだ。この文章で私がそう考える理由を簡潔にお伝え出来たらと思う。
 まず結論から言えば、成田先生は自由人であったと思う。精神分析学会には属されていたが、精神分析やそその他の学問的な縛りからは自由で、いわば融通無碍なスタイルをお持ちだった。そしてそのことが上に書いた「良心」の話とも、治療者としての資質とも深く関係しているのである。


2026年10月20日火曜日

成田先生のこと 推敲 16 脱線気味・・・・

  治療者と患者が「対等」でない場合、患者は公然と治療者に甘え、頼り、自分の問題を解決してもらうことを声高に要求するかもしれない。その場合自分の問題の複雑さや深刻さを敢えて自覚することなく、受け身的に助けを与えてもらおうとする。そしてしばしば相手がある種の超人的な力を持つと考える一方では、自分からその問題を解決するという発想はその分だけ乏しくなる。あるいはその問題は他者によりもたらされたので、自分はその解決に関与していないと考えている。  例を挙げるならば、ある時自分の家が火事で燃えてしまったとしよう。しかし幸いに火災保険に入っていた。するとたとえそれが自分の火の不始末のせいで起きたとしても、深刻に反省したり落ち込むことはなく、むしろ一刻も早く保険料が支払われ、家が建て替えられることを望むであろう。つまりその問題は他人事になってしまい、少しでも保険会社の対応が遅れるとしたら文句を言いたくなるかもしれない。何か嫌な性格の人間の様に捉えられるであろうが、これがしばしば起きるのが人間社会だ。  何か本題から脱線している気もするが、大事な問題のような気もするので続ける。人間同士の交流では貸し、借りは常に生じ、そこに優越感や負い目等の感情的な問題が微妙に入り、時には深刻な対立を生む原因になる。そこで商取引きが生まれ、契約や金銭の授受が生まれ、感情の対立が生じることを防ぐのだ。そしてサービスをする側とカスタマーとは対等なはずだ。深刻な感情的な対立が生まれる素地はないことになる。  ところが一方が過剰な要求をしたり、感情的になったり、マウントを取ったりするということが頻繁に起こる。いわゆる「カスハラ」などもその例であろう。そしてなぜカスハラが成立するかと言えば、どちらか(この場合はカスタマー側)がこの対等の関係を理解しないからであろう。  カスタマーが腹を立てる場合、それは当人が契約上当然得られるべきものが得られていないと感じるからであろうが、だからと言って相手に対して怒りをあらわにし、自分が望むものを声高に要求するべきではない。自分が得るべきだと考えているものと、相手が与えるべきだと思っている事との間に齟齬が生じているという単純な事実に立ち戻り、両者の間で冷静に話し合い、契約を結び直したり、解約を検討すべき問題なのだ。それが大人の世界での契約であり、一方が激することはある意味では契約違反であるとさえいえるだろう。  以上のことがどうして本題と結びつくかと言えば、それは治療関係にも言えることであるからだ。「白状」にはこの契約を結んだ段階にまで立ち返るニュアンスがある。

2026年10月19日月曜日

成田先生のこと 推敲 15

 成田が挙げている「白状」(「ひとりごと」p94)の例を見てみよう。ある臨床例が挙げられて成田は話が分かりにくい患者に、なかなかそれを言い出せなかったというエピソードが語られる。成田は迷った末に患者に「あなたの言っていることがもう一つよくわからなくて、あせりや無力感を感じる。おそらく今あなたも同じような気持ちではないか」と「白状」する。するとそれが患者の側の「自分でも自分の気持ちがよくわからない」という反応を引き出すのである。  これは上に述べた「自分は力不足で申し訳ない」という類の「白状」と言えるが、これはかなり危ういセリフであることは事実だ。一歩間違うと、「あなた自身が力不足を認めているのですね。ではこれまでの治療は何だったんですか?」と言われたり、「ではこの治療は今日で終わりにします。」という事態になったりしかねないだろう。このように「白状」は治療関係そのものが瓦解しかねないという覚悟を伴う言葉と言える。その意味で「白状」は捨て身戦法でもある。 しかしここでいみじくも「戦法」と表現したように、成田はこうすることにある程度の勝算を見込んでいることになる。それは常に成功するとは言えないまでも、特定の条件下ではある種の game changer となりうるのだろう。それはなぜだろうか?  一つにはそうすることで患者が治療者の弱気で怯えている部分を初めて垣間見ることになり、それが治療関係を大きく変える可能性があるからだ。患者が治療者に不満をぶつける時、大抵は治療者の側はびくともせず、どうせいくら言っても聞く耳を持たないのではないかという思いがある。あるいは少なくともその不満が治療者を動揺させたり不安にさせたりするという感覚が薄い。権力を持った相手に容赦なく不満や怒りをぶつける時、相手に一矢報いるという感覚はあってもそれ以上の衝撃を与えているという実感はないものだ。ちょうど幼児が母親をボカボカ殴りつける時 、幼児は母親をあたかも少しのことでは動じないどっしりとした存在であるととらえているであろう。つまりは相手を人間とは見ていないことになる。そしてその意味で治療者と患者の関係は対等であるには程遠いのだ。

 


2026年10月18日日曜日

成田先生のこと 推敲 14    

  ちなみに内科でも、医師が患者に「白状」することが必要になる場合を考えることが出来ないわけでもない。例えば患者が自分に該当する疾患についての知識が豊富で、医師の説明の不備や知識不足を突く場合などであろう。あるいは誤診ではないかと迫られることもあるかもしれない。その場合内科医は自己正当化をするよりは、自分の不勉強や誤った臨床判断について「白状」して謝罪することが倫理的にも必要になろう。ごまかしようのない場合にはそうするしかない。ただしそうすることへの抵抗は無論甚大だろう。その最大のものは自らの医師としての権威が侵されることへの恥や自己愛の傷つきと言えるだろう。  精神療法においては、患者の側から「どうしてわかってもらえないのか?」「なにもしてくれないではないか!」「高い料金を払っているのに、黙って聞いているだけで何か有効なアドバイスはないのか?」等、療法家としての機能を果たしていないという不満を患者からぶつけられることがそれに相当する。他にもいろいろな状況はあるであろうが、主たるものはこれに該当することが多いようだ。その時に療法家が窮するのは、どこかに「その通りかもしれない」という部分があるからであろう。患者の話に共感し、わかってあげるのが自分の本分であろう。しかしその相手が「わかってもらえない」と訴える限りは、自分はその職務をこなしていないことになる。  しかしこのような時、治療者は別の気持ちも持っている。「自分は一生懸命この人の話を聞いている。しかしそれでも『わかってもらえていない』としたらいったい自分はどうしたらいいのだろう?」という当惑。さらには「精一杯頑張っている自分が患者にどうしてここまで責められなくてはならないのか?」という怒り。ただし後者はこれを口に出していってしまってはおしまいである。それは相手の不満や怒りを増幅させてしまうに過ぎない。こうしていよいよ治療者は窮してしまうのだ。その際に気持ちを表現する一つの形は「自分は力不足で申し訳ない」ということだろうか。

2026年10月17日土曜日

成田先生のこと 推敲 13

  患者に「白状する」という治療方針について、それをもろ手を挙げて賛成する療法家は少ないと思う。私も最初にこれを聞いたときは、「ちょっと自分には出来ないな」と思ったことは確かだ。しかし成田程の人がこの誤解を生みかねない表現を用いるのにはそれなりの理由があるとも考える。「白状する」には、治療者が普段は患者にそれを伝えないことで保っている「何か」の存在を示している。それは患者に対する素の気持ちであり、感情であろう。  普段はそれを伝えることは二重の意味で不利であると考える。一つにはその気持ちを伝えることが患者を傷つける可能性である。そうしてもう一つは治療者が持っている矜持、プライド、ないしは権威を損なう可能性があるということだ。このうち前者を伝えることは決して「白状」ではない。後者を伝えることが「白状」に該当するのであろうが、それを成田は常に行うとは言っていない。あくまでも「困ったときは」であり、そうでない時も駄々洩れ状態にすることは決して治療的とは言えないであろう。そしておそらく患者の側もそれを望まない。  治療関係は成田が言うように、職業的な側面と、人間的な側面の二重性を持つ。前者は治療者がある高い位置ないし権威的な立場から何事かを伝える。そしてそれは患者の側が助けを求めて自らをさらし、治療者の側がそれを職業的に聞くという立場であるという関係性と密接である。  そこで思い浮かぶのは、医師の前で服を脱ぎ聴診器をあてられる際の患者である。患者は「どうして自分だけ服を脱がされ、相手は白衣を着たままなのか?」という疑問や不満を普通は抱かない。むしろ相手を医学的な知識を備えた権威と見なし、いわば高所から自らの問題を見つけ出して欲しいと思う。その時実はその医者も診療が終わったら自分の生活習慣病の治療のために自分も医師にかかっているという事実を聞くことはどちらかと言えば煩わしく、また興覚めでもある。「体調管理が出来ていない医師のいうことにどれだけの信憑性があるのか?」という疑いの気持ちが湧くかもしれない。そして内科受診の際は、内科医が「困ったときには白状する」という原則に頼る必要もないだろう。しかしそれが意味を持つ場合があるのが精神療法なのである。


2026年10月16日金曜日

成田先生のこと 推敲 12

 なぜ正直なのか?

 成田が「白状」とまで称するこの態度は、ある重要な点を示す。成田は自分が運動が苦手で、また孤独で人と交われなかったとするが、なぜ彼がこのようなことを言うかと言えば、彼が精神療法に関して自分がある種の権威として扱われている事への予防線なのである。すなわち自分はそれほどたいそうな人間ではなく、弱さを持った生身の人間であるということを宣言している。これはあたかも彼が武装解除をし、一介の人間としての体験から出発するという姿勢である。そしてその体験は彼自身の体験であり、そこから学んだことが彼の言動の源泉になっている。それは運動が苦手で孤独な人間であっても、一人の人間として体験できる何かを示しているのであり、その発言が権威を身にまとったものではなく、他者からの引用ではないことを示している。
 さらに言えば、そのような率直さ、正直さが人間関係を築くうえで最も効率的であるという確信のようなものが成田にはあるのであろう。それは相手が仕掛けてくる攻撃に対してそれに乗ることなく、いわば合気道的に受け流して相手をいなす方便である。
 このことは治療関係にも言える。治療場面で治療者が窮する時、たいてい治療者は防衛的になっている。そこには「分析理論から言えば」、「お作法から言えば」こうなるという方針が無力化される瞬間であり、いわば治療者として持っている武器が奪われ、丸腰になった状態と言える。その際に素であること、正直であることは恐らく最善の態度であり、そこには「自分はここでは何もできません」と白旗を上げるということをも含む。しかしそうすることで逆説的に何かの方向転換が生まれるというのが成田の知恵なのである。


2026年10月15日木曜日

成田先生のこと 推敲 11

 成田の目指す正直さや率直さ

 成田は精神療法とはいかにあるべきかについて常に考え続けていた人である。それが「精神療法」そのものを主題とした数多くの論文や著作に表されている。その全体として浮かび上がってくるのが、その正直さや率直さである。それは彼の人柄を表すと同時に、彼が精神療法家の在り方として追及した姿にも通じている。見事な「自己一致」がここに見られるのだ。
 その率直さが見られるのが成田の著作の特徴である。成田の精神療法についての理論的な書を読んでも不思議と難解さはない。それはこれらがほぼエッセイ風に、experience-near にどちらかと言えば軽いタッチで語られているからである。そして大事なのは、その根底に率直さ、正直さが流れているからだ。だから読者は常に我が身に引きつけて彼の文章を読むことができる。
 この正直さのゆえに、成田には自分の弱さや足りなさを率直に開示したものが多い。自分は孤独で人と交われなかったこと、運動が苦手だったこと、分析学会誌に原著論文を掲載していないのに学会の会長になったこと、教育分析は受けていないこと、などなどである。そしてそれに関連して彼には肩書や名誉などへの拘りが非常に薄いように感じる。つまり通俗的な意味での自己愛を感じることがほとんどない。
 だから成田には自分の理論を死守するために強弁するというところがない。しかしその臨床的な感性はかなり早くから既にあり、臨床経験を積み重ねる途上で出会う理論を場合によっては取り込み、あるいは取り込まれ、最終的に蒸留されていったのが成田理論なのだ。そしてそこには難しい四字熟語的な概念によっては語られない。「こころの井戸」、「その場の雰囲気さん」、「白状する」など、いずれも優しい和語で語られるものである。

 この率直さが先述の成田の自由さや、上述の「困ったときは正直に言う」という態度に結びついていることは理解するに難くない。

 成田は精神分析の世界で治療者の自己開示がいかにタブー視されて来たかについて十分熟知したうえで、それから「自由」な自分の治療感をこう述べる。(ひとりごとp.93)は「セッション内の治療者の主観的体験(患者の言動に対する反応)は出来るだけ開示する方向で考えるべきだと思っていて、これを『白状する』と称している」という。ある臨床例で(同、p94)成田は話が分かりにくい患者に「あなたの言っていることがもう一つよくわからなくて、あせりや無力感を感じる。おそらく今あなたも同じような気持ちではないか」と言い、それが「自分でも自分の気持ちがよくわからない」という患者の反応を引き出した例を出す。


2026年10月14日水曜日

成田先生のこと 推敲 10

 真に自由な成田が精神療法のエッセンスとして掲げているのは何か。 
 成田は「自分の精神療法の二大原則は、『困ったときは正直に言う』、『わからないことは患者に聞く』です。」((成田(2023) 講演「質問に応えて」2023年6月17日 倭木(すぎ、わぼく)の会)同 p.3)と述べる。
 成田が掲げているこの二つの原則は、それ自体が彼の臨床観が極めて相互交流的 interactive であることを示している。もちろん成田はいかに患者に共感するかを第一に考えているのであろう。しかし彼は心理療法を抽象的に捉えるのではなく、どのように患者にとって役に立つかを常に考えている。それがこれらの二つの原則の意味するところであり、受け身的に話を聞くことは、効果的に患者に言い、患者に尋ねるための手段というニュアンスがある。

(以下略)

2026年10月13日火曜日

成田先生のこと 推敲 9

成田先生の自由さ
 ここまで論じた自由さという見地から成田先生について考えると、彼はとても自由であり、分析的療法家としては他に類を見ないほどであると言える。彼は精神分析学会での活動が長く、学会長まで務めた人物であるが「精神分析的であれ」という縛りは極めて薄いことがわかる。そのことを表明するのは、分析学会の中での立ち位置を考えればかなり勇気がいることと言える。
 そのような成田の立場を垣間見せてくれるのが、成田の「深い精神療法と浅い精神療法」の議論である。
(成田(1982)精神療法の深さ—精神科医の立場から 精神療法 8巻4号、1982)(成田(2012)精神療法の深さ―成田善弘セレクション 金剛出版、P70~71にも所収)

(以下略)



2026年10月12日月曜日

成田先生のこと 推敲 8

 成田先生の追悼記念号に寄稿のお誘いがあったことは誠に光栄である。私は先生と師弟関係にあったわけではなく、スーパービジョンをしていただく機会もなかった。年に一度精神分析学会で長身のお姿をお見掛けし、時々言葉を交わさせていただくだけであった。私は先生の著作を隅から隅まで読んだわけでもなかったが、私の中での先生の位置は特別なものであった。しかし改めてそれはどのような意味でであろうか?
 これを考えると、かつて先生が2014年に精神分析学会の小此木賞をお受けになった時の記念講演のことが蘇る。私はたまたまその時の司会の役をいただき、最初に先生の御略歴を簡単にご紹介した後に、「私にとっては、成田先生は精神分析学会の良心と言っていい方です」と付け加えたのだ。これはその時最前列にいらした某先生が「面白いこと言うなあ!」とばかりに苦笑なさったことと共に明確におぼえている。そして今振り返っても、成田先生はやはり私の心の中では「分析学会の良心」として特別な存在であったのだ。この文章は私がそう考える理由を簡潔にお伝え出来たらと思う。
(以下略)

2026年10月11日日曜日

チャット君からのお返事

 私の主張に対するチャットGPTからの返事はとてもまとまったものだったので以下に掲載。

全体の主張は、こうすると一番強いと思う。あなたの現在の文章を僕なら四段階に凝縮する。

第一に、superintelligenceはomnipotenceではない。 Intelligenceがreal-world powerになるには、energy、infrastructure、weapons、networks、institutionsなどへのaccessが必要である。

第二に、superintelligenceのbehaviorが本当に予測不能なら、extinctionだけをdefault outcomeとするには追加のargumentが必要である。 Utopiaも保証されないが、doomも論理的必然ではない。

第三に、conscious desireがなくてもfunctional agencyは成立し得る。 したがって「AIにはdesireがないから安全」とまでは言えない。しかし逆に、instrumental goal-directednessを人間的なself-preservationやaggressionと同一視することにも慎重であるべきだ。

第四に、より近く確実な危険は、人間が強力なAIを自らのdesireに奉仕させることかもしれない。 AIにdestructive unconsciousが生じるのを待つ必要はない。われわれはすでにそれを持っている。

そして最後を、

Perhaps the most dangerous combination is not a superintelligent AI with a destructive unconscious, but a superintelligent AI without one, placed at the service of human beings who do have one.

で締める。

これはかなり強烈だと思う。しかも単なる「AI楽観論」ではなくなる。Yudkowskyの危険を否定するのではなく、危険の主体と時間軸をずらす議論になるんだ。

2026年10月10日土曜日

Harari 氏への反論

最近 Yuval Noah Harari 氏の短い講演をユウチューブで聞いたが、彼は「AIは道具ではない。例えばナイフはナイフでも、何に使うかを自律的に決めれるナイフ、そして新たなナイフを生み出せるナイフだ」と彼は言っている。つまり自律性 agency を有するナイフというわけだ。だから危険だというわけだが、しかしこれも、Yudkowsky派の議論に似ている。真に自律的なナイフなら、それを人類にとっていい目的に使うか悪い目的に使うかそのものが私たちの予想を超えている。ところが Harari はAIがそれを悪い目的に使うものと決めつけて警告しているように思える。しかしそうだとすると、そのナイフは自分の潜在的な力を勝手気ままに、無判断に使っていることになり、真のagency を有する存在として扱っていないようだ。
私の言いたいことを繰り返すと、AI脅威論は、AIの有するsuperintelligence がまだ中途半端なレベルで危険な振る舞いをする可能性について強調しているということが問題だ。真の意味でのsuperintelligence はもっと予想不可能で、人類を滅ぼしもすれば繁栄をもたらす可能性もある。つまり楽観論も悲観論も可能なのだ。(そしてこれは単なる楽観論ではない。)それ以前に必要なのは、凶器にもなりうる自律性を持ったナイフをいかに人が悪用しないかを考えることが先決、ということだ。

2026年10月9日金曜日

Yudkowsky派への反論

 最近AIにより人類は滅亡するという言説が多い。「超知能AIをつくれば人類は絶滅する」(エリーザー ユドコウスキー, ネイト ソアレス他)等の著書の影響が大きいかと思う。 原著は If Anyone Builds It, Everyone Dies: Why Superhuman AI Would Kill Us All、Eliezer Yudkowsky と Nate Soares の2025年の本。
 彼らはMIRI(Machine Intelligence Research Institute)を長く率いてきたAI alignment / existential risk論の代表的論者で、主張はかなり強い。「危険性がある」ではなく、現在に近い方法でsuperintelligenceを作れば、デフォルトの帰結は人類絶滅だという立場だ。
 これについての反論を私は以下に考えてみた。
Yudkowsky派の考えは一理あるようにも思えるが、基本的にはAIに関する議論を越えて、この世の中に superintelligence というものが存在したら何が起きるのか、という議論のように思える。わたしならば高度に発達した知能は、もはや自分の生存を優先するという自己中心的な目的ではなく、共存共栄を求めるのではないかとも考える。ましてやAIに desire がないならば、自分たちだけが生き残るという方向に行く理由がよくわからない。superintelligence がどのような振る舞いをするか予測できない、というのはその通りだが、それは最終的に人類を絶滅させるのではなく、むしろそれの繁栄をもたらすという可能性だってありうるだろう。だから彼らが最終的に人類の滅亡が不可避だとだけ主張しているのはなぜか私にはわからない。
 それよりも私が懸念するのは、superintelligence がまだコントロール可能な段階で、世界の誰かがそれを悪用して自分たちの利益のために用いるという危険性の方だ。結局はAIはそれを用いる人間により、善にも悪にも使えるという議論に行きつく。つまり私の議論はそんな先のことを考えるまでに、人間によるその悪用をいかに防ぐかの方がよほど先決問題であるということだ。
 それともう一つ、Yudkowsky派は、superintelligence 自体を神格化し、それが全能であるという誤解を生んではいないだろうか。高度のIQを持つ人間が現在の世の中でどれだけその力を行使しているかを考えてみればいい。彼らは社会の中で圧倒的な力を行使して、自己の利益を高めているだろうか? まったくそんなことはない。メンザのメンバーを見ても、おそらくバラバラな活動をしていて、中にはニートのような生活を送っている人もいる。世界を支配するのは、高知能ではなく、もっと別の力ではないか。少なくとも高知能=他者を欺いて世界を支配する能力という考えは誤解を生むだろう。
 それともう一つ、これはバッシングを承知でYudkowsky派への反論。彼らは「AIが危険になるのに malice(悪意)はまったく必要ない」という。しかしAIが本当に危険になるのは、それが何らかの形で「覚醒」し、つまり意識や願望を持つことだ。それさえないsuperintelligence 何て計算能力の高いだけの、ただの木偶の棒である可能性だってある。そんなに危険なほど高度のintelligence に、意識や願望を想定していないという彼らの議論は矛盾していると思う。そしてもう一つ、悪意のないAIであればこそ、それを悪用しかねない人間の方がよほど危ないのではないだろうか?結局一番の問題は我々の無意識的な破壊衝動だ、という分析的な考えに帰着する。