第8章 社交恐怖への分析的アプローチを考える
(2011年に書いた論文がもとになっている)
そもそも対人恐怖とは
わが国において従来頻繁に論じられてきた対人恐怖(現在では社交不安障害と呼ばれているものが概ねこれに相当する)は、精神分析的にはどのように扱われているのかというのが本章の中心テーマである。対人恐怖と精神分析というテーマについて考える際は、わが国における精神分析の草創期の、森田正馬の姿勢を思い出す。対人恐怖に対してもフロイト的なリビドー論に従った理解を示す精神分析の論客達に対して、森田は果敢に論戦を挑んだと言われる。それから約一世紀たつが、果たして精神分析は対人恐怖を扱う理論的な素地や治療方針を提供するに至ったのだろうか?
まず精神分析ということをいったん頭から取り去り、対人恐怖とは何かについて論じることからはじめたい。でも最終的に示したいのは、社交恐怖についてもしっかりとした先進分析的な理論が存在するということである。
まず精神分析ということをいったん頭から取り去り、対人恐怖とは何かについて論じることからはじめたい。でも最終的に示したいのは、社交恐怖についてもしっかりとした先進分析的な理論が存在するということである。
私個人は、対人恐怖とは「対人間における時間をめぐる闘いの病」と表現することが出来ると考える。対人恐怖は 自分と他者との間に生じる相克であるが、そこに時間の要素が決定的な形で関与しているということだ。
一般に自己表現には無時間的なものと時間的なものがある。無時間的とは、すでに表現されるべき内容は完成されていて、後は聴衆に対して公開されるだけのものである。すでに公開されている絵画や小説などを考えればいいであろう。表現者が表現する行為は事実上終わっていて、その内容自体は基本的には変更されない。それが展示されたり出版されたりする瞬間に、作者は完全にどこかに消え去っていてもいい。それらが人々からどのような反応を得たかについて、作者はまったく知らないでもすむのである。それに比べて時間的な表現とは、今、刻一刻と表現されるという体験が伴う。人前で歌う時、演説する時、それは刻一刻と展開していくのであり、これこそが対人恐怖的な不安を招きやすい自己表現である。その事情をさらに詳しく見てみよう。
私たちは社会生活を営む際、自分の中で他者に積極的に見せたい部分と、なるべく隠しておきたい部分とを分け持っているものだ。そして社会生活とは前者を表現しつつ、後者を内側に秘めて他人とのかかわりを持つことにより成り立っていく。このうち無時間的な表現は、上述の通り、それが人目にさらされる際に作者は葛藤を体験する必要はない。しかしそれが時間的なものであり、時間軸上でリアルタイムで展開していくような「パフォーマンス状況」(岡野、1997)では事情が大きく異なる。もしパフォーマンスが順調に繰り広げられるのであれば、さしあたり問題はない。人は自己表現に心地よさを感じ、それがますます自然でスムーズなパフォーマンスの継続を促す。しかし時には何らかの切っかけで、表現すべき自己は一向に表されず、逆に隠すべき部分が漏れ出してしまうという現象が起きうる。そこで時間を止めることが出来ればいいのであるが、大抵はそうはいかない。対人恐怖とは時間との闘いであるというのは、そのような意味においてである。
さて、対人恐怖の症状に苦しむ人は、通常はある逆説的な 現象に陥っている。それは自分の中の表現されてしかるべき部分と同時に、隠蔽すべき分も漏れ出してしまうという現象である。
このようなパフォーマンス状況の典型例として人前でのスピーチを考える。誰でも自分が言いたいことを饒舌に話したいものである。自分が表現すべき内容を、弁舌軽やかに話せているときは気持ちがいいものだ。しかし途中で言葉がつかえたりどもったりして、内心の動揺も一緒に表現され始めたらどうだろう。しかも一度口ごもった言葉は、もうすでに目の前の人の耳に届いていて、決して取り戻すことが出来ないのである。人前で話すことが苦手で、それに恐れを抱いたり、そのような機会を回避したいと願ったりしている人達は多いが、彼らはこのような悪夢のような瞬間を味わった結果として、それに対する恐怖症反応を起こしているのである。
以上は症状として見た対人恐怖に関する議論であるが、対人恐怖にはこれにとどまらない部分が関与していることが多い。それは本来他人の目にさらされると萎縮しやすく緊張しやすいという性格的な素地があり、他人に対する恥や負い目を持ち、人との接触に際して相手を過剰に意識してしまうというパーソナリティ構造である。それが基礎にあり、そこから顕著な対人緊張症状(赤面、声の震え、どもりなど)を生じて対人恐怖の全体像を形作っていることが多い。このことを私は対人恐怖の持つ二重性として捉えている。ここでの二重性とは、対人恐怖が症状を有する症状神経症という側面と、一種のパーソナリティ上の特徴および障害という側面を併せ持つということである。
対人恐怖に伴う性格的な基盤については、森田正馬(1960)が「ヒポコンドリー性基調」と呼んで論じている。またDSMの疾病分類に従うならば、多くの社交恐怖の患者が、回避性人格傾向、ないしは回避性パーソナリティ障害を有するという事情と同様である。
精神分析の文脈から見た恥の病理
従来精神分析においては、社交恐怖を扱う試みは少なかったが、皆無ではなかった。比較的近いところでは (と言ってももう40年ほど前になるが) 舞台恐怖
stage fright」 (いわゆる「あがり症」) についての Gabbard 先生の論文(Gabbard,
1979)がある。これはかなりリビドー論的な対人恐怖理論で、興味深い。そこには展望文献として Bergler (1949)、Ferenczi (1950)、Fenichel
(1954) らの論文が挙げられている。
Bergler は「舞台恐怖」を voyeuristic terror(覗き見恐怖)を原因とするものと考えた。すなわち幼少時に原光景を覗き見たことへの罪悪感への防衛として、覗きを行った主体を聴衆へと転化した結果、それに対する恐れが生じているとする。Ferenczi (1950) は、舞台恐怖にある人は極度の自己注視の状態にあり、一種の自己陶酔状態にあるとした。Fenichel
は「舞台恐怖」は無意識的な露出願望、およびそれが引き起こす去勢不安が原因になって生じるものとして説明した。彼によれば対人恐怖的な心性の背後にあるのは、抑圧された露出的衝動であり、患者はそのような衝動を持つことについて懲罰されることの方を選ぶ。その場合聴衆は超自我ないし去勢者として機能し,そこに聴衆を前にした恐怖感が生まれる,と説明する。これなどはいかにもリビドー的、エネルギー経済論的だ。
これらの説によれば、対人恐怖症的な症状は幼児期のリビドー論的な葛藤の再現ないしはそれに対する防衛として理解されることになるが、臨床的な実用性は乏しいように思われる。ただしFenichel のいう露出願望というのは、患者の持つ自己愛的な側面、自分をよく見せようという願望を捉えているという意味では、私が先にパフォーマンス状況に関する説明の際に触れた、「他者への表現を積極的に行う部分」と同じ文脈にあると言えなくもない。
このような古典的な解釈に比べて、Gabbard の提案は対象関係論的であり、私たちの常識的な理解の範疇にあるといえる。彼は上がり症が一種の分離個体化にまつわる不安に由来すると説明する。ステージに立つということは、「ここからはすべて自分でやらなくてはならない。誰も助けてくれない」という再接近期の不安の再燃につながり、それがあがり症の本質として説明されている。ただその説明だけでは一面的で物足りなく、より心の中の力動に一歩踏み込んでいない嫌いがある。
ちなみにこのGabbardの論文は当時の時代背景を反映したものであった。それまで対人恐怖的な議論は欧米では少なかったが、その流れを変えたのが1980年の米国の新しい精神科診断基準であるDSM-IIIであり、そこに収められた社交恐怖social phobia という新たな概念であった。この社交恐怖は「ひとつないしは複数のパフォーマンス状況に対する顕著で持続した恐れであり、そこで人は見慣れない人の目に晒されたり、他人からの批判の目に晒されたりする。人はそこで恥をかいたりhumiliating、恥ずかしかったりするembarrassingような振る舞いをすることを恐れる。」とされている(American Psychiatric Association, 2000)。ここに見られる社交恐怖ないしは社交不安障害は細かい点においては異なるものの、多くの点で対人恐怖と類似し、いわば対人恐怖の米国版といった観があった(岡野、1997)。
この時期に同時に見られたのは、対人恐怖様の心性について、自己愛パーソナリティ障害の一型として記載しようとする動きであった。Broucekはその恥についての精神分析的な考察のモノグラフ(Broucek,1991)の中で,自己愛人格障害をこのような趣旨に従って二つに分けている。それらは「自己中心型self-centered」と「解離型 dissociative」と呼ばれている。このうち「自己中心型」の方は誇大的で傍若無人な性格で、従来からの自己愛パーソナリティが相当するのに対し,「解離型」では,むしろ引きこもりがちで恥の感覚が強く,対人恐怖的な人ということになる。これらの理論の背景になったのは、1970年代より米国の精神分析会において大きな潜在的な力を持つことになったKohut理論であり、そこで事実上取り上げられることになった恥の感情およびその病理であると考えられる。