2018年3月25日日曜日

精神分析新時代 推敲 42


「動き」と攻撃性、そしてそれに対する抑止

ここから一番誤解を招きやすい点の説明に入らなくてはならない。子供の側の「動き」による「効果」のもっとも顕著なものは、たとえば器物の破壊であり、人の感情表現、たとえば怒りや悲しみなどの苦痛や、喜びなのである。器物だったらそれは形が目に見えて崩れたり、大きな音を立てたりする。また人は怒りや喜びの表情を表す。
 上に示したプレイセラピーでは、子供は私が数個積んだ積み木を崩して音を立て、その「効果」を楽しんだ。ではもし8個だったら?あるいは塔のように高く積み上げられた数十個の積み木なら? それを崩した時はより大きな音がし、それだけ「効果」もそれによる興奮も大きいだろう。そして同様に、あるいはそれ以上に子供がその「効果」に一番反応するのは、実は人の表情であり、感情なのだ。自分が微笑みかけることで母親に笑顔が生まれる。自分が泣き叫ぶと、母親が心配顔で駆けつける。積み木を崩すことで治療者が多少なりとも演技的に発した悲鳴も、それに加えていいかもしれない。
人が世界に変化を与え、それにより能動性の感覚を味わうとしたら、他人の感情状態の変化は最もよい候補と言えるというのが私の主張だが、それはどのようにして習得されるのだろうか? それはあくまでも自分の感情体験を通してであろう。自分自身が突然味わう喜びや悲しみや恐怖や痛みの感覚がその「効果」の証拠になる。そして同一化や投影の機制を通じて同様のことが人の心に起こることをモニターするだけで、その「効果」を推し量り、その大きさを感じ取ることができる。
 私たちはみな、しばしばこのような「効果」を人の心に起こそうと試みる。贈りものをしたり、サプライズバーティを仕掛けることで人が喜んだり驚いたりする姿を見ることは単純に楽しいものだ。しかし他人を攻撃し破壊することで引き起こす苦痛も、それに負けずとも劣らない「効果」となり得る。苦痛や恐怖を与えられた人間は、もがき、苦しみ、のた打ち回るといった反応を見せるだろう。そしてそこには破壊の極致としての殺人が含まれる。これほど劇的な「効果」はないはずだ。
 幼いころに地面にアリの巣を見つけ、さまざまなことを試みて無数のアリたちの反応を見た記憶のある方もいるだろう。人によっては砂糖粒を落としてアリが喜び群がるのを楽しんだかもしれない。しかし私達の大部分はてっとり早くアリの巣の入り口をふさいで慌てふためくアリを眺めたに違いない。ありを喜ばせるよりは、苦しませる方が興奮を誘ったはずだ。
しかし幸いにも、人間を相手にした私たちは、他者に苦痛という「効果」を及ぼすことには強烈な抑制がかかる。それは罪悪感には留まらない。他人を害することは実は私たちにとって最大の恐怖となる。これはおそらく道徳心や倫理観などをバイパスした、それよりもはるかに原始的な心のメカニズムが関係している。道徳心に無縁のはずの動物の社会、たとえばゴリラの社会でも、通常はそこに同種の個体に対する攻撃性への強い抑制が見られることを、霊長類の研究者も伝えている ()
一般に集団を構成する動物には、相手に対する配慮、あるいはWinnicott の言葉で言えば慈悲mercyと呼べるような心性が、本能の一部に組み込まれていて発達のかなり早期から発動し始める。トラの子供たちが爪を立てることなくじゃれ合う時、母トラが子トラの首をそっとくわえて運ぶとき、相手の身体はおそらく事実上自分の身体の延長として体験されているのであろう。そして相手への加害行為には、自らを傷つけることと同等の強烈な抑制が加えられているに違いない。
その結果最大の「効果」を生む加害行為は、想像上の、バーチャルな世界で生き残ることになる。ストーリーやゲームの世界で、攻撃や殺戮がいかに私たちを興奮させ、私たちの精神生活の一部にさえなっているかを考えてみよう。たとえば私たちが親しむ推理小説はどうか?必ずと言っていいほど殺人がテーマになる。人が死なないとスリルが味わえず、面白みが半減するのだ。「〇〇殺人事件」というタイトルの代わりに、「〇〇捻挫事件」「××全治一か月事件」などと題された本を想像してみよう。人は店頭で手に取ってもすぐに棚に返してしまうだろう。あるいは囲碁や将棋を考えよう。相手の大石を仕取めたり、王将を追い詰めることは、無上の快感を与えるにちかいない。あるいはビデオゲームを例にとってもよい。ファイティングゲームでは敵を倒したり、ダメージを与えたりする様なシーンが必ず登場する。これらの例は、私達がいかにイメージの世界では他人に苦しみを与えたり、破壊したり殺したりすることに喜びを見出しているかを示している。そしてそれも残虐性、というよりは自分が与えた「効果」の大きさへの貢献と考えるべきである。
 私は今でも時々、2008年6月に起きた秋葉原連続殺傷事件のことをよく思い出す。事件が報道された翌日の外来では、患者さんたちと事件のことがしばしば話題になった。そして驚いたのは、彼らの反応の多くが「自分は実行はしないが、犯人の気持ちがわかる」というものだったのだ。ちなみに私の外来の患者さんたちは特別暴力的な傾向を持つことのない、主として抑うつや不安に悩まされている人々であった。それだけに私には彼らの反応が意外だったのである。私はこの時は非常に驚いたが、今から考えれば少しは合点かいく。ファンタジーや遊びの世界で他者や物にダメージを与えることは、むしろ普通のことであり、むしろそれを現実の世界で抑えている理性が正常に働いていることを示しているのである。

攻撃性への抑止が外れるとき

加害行動は現実の他者に向かうことに対する強烈な抑止が働いていると述べた。ファンタジーでの加害行動が頻繁なだけ、この抑止のメカニズムは強固でなくてはならない。そして私たちがニュースなどで目にして戦慄するおぞましい事件は、その抑止が何らかの原因で外れた結果なのだ。
では攻撃性の抑止はどのような時原因ではずれるのだろうか? 私はその状況を以下に4つ示してみる。それらは 1.怨恨、復讐による場合、2.相手の痛みを感じることが出来ない場合、3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合、4.突然「キレる」場合である。

1.怨恨、復讐による場合
特定の人に深い恨みを抱いていたり、復讐の念に燃えていたりした場合、私たちはその人をいとも簡単に殺傷しおおせる可能性がある。家族を惨殺された遺族は、たとえ善良な市民でも、犯人への無期懲役や死刑求刑の判決を喜ぶだろう。復讐はかつては道徳的な行為ですらあった。自分の愛する人を殺めた人に、刃物を向けることは、精神的に健康な人であっても、おそらくたやすいことになってしまうのである。しかし考えれば、これは実に恐ろしいことではないか?
私が特に注意を喚起したいのは、怨恨や被害者意識は純粋に主観的なものでありうるという事実だ。自分が他人から被害を受けたという体験を持つ場合、周囲の人にはそれがいかに筋違いで身勝手な考えのように思えても、その人の暴力への抑止装置は外れてしまう可能性があるのである。この怨恨が統合失調症などによる被害妄想に基づいている際には、それはより顕著となるかもしれない。しかしそれ以外にも偶発的な、ないしは理不尽な怨恨は数多く生じる可能性がある。幼少時に子供が虐待を受け続けたと感じても、当の親は子供の主観的な体験にまったく気づかないことも多い。しかしその結果として自分はこの世から求められていない存在であると感じ、自分は被害者であるという感覚が高まり、世界に対して恨みや憎しみを抱くようになってしまうのだ。それは神社仏閣に油を撒くというような愉快犯的な犯罪から始まり、無差別的な殺戮やテロ事件に至る場合さえある。すでに述べた秋葉原の事件などは、まさにそのようなことが起きていたと私は理解している。人はこれらの事件を耳にした時、いったい何が起きたのか、と不思議に感じるかもしれない。原因不明の暴力の突出であり、人間の持つ攻撃性が露出したものと理解するかもしれない。しかし当事者にとっては世界への復讐として十分に正当化されるものかもしれないのだ。