Andrew Morrisonの恥の理論
Kohut 理論の影響下で対人恐怖に類する病理を論じた人の代表が、Andrew Morrison である。彼は恥が自己愛との関連で論じられるという方針を明快な形で示したのだ。彼が1989年に著した「Shame:The
underside of Narcissism 恥-自己愛の裏の面」は精神分析における恥の理論に大きな影響を与えた。その主張は次のように非常にシンプルで明快である。「恥とは自己愛の傷つきである。Kohut ははっきりとは言っていないが、彼の理論は恥の理論である(「恥の言語で綴られている。」)つまりMorrison は恥の体験はKohut 的な意味での自己の病理として捉えられるとしたのだ。
ここで Morrison
に倣い、 Kohut の自己愛の理論にそって対人恐怖心性について考えてみよう。Kohut の中心概念 (Kohut,
1971) は、平易な言葉では次のように説明されよう。人は敬愛している他者から認められ、敬意を表されるという体験を、「あたかも人が生存のためには空中の酸素を必要とするように」(Kohut 自身の表現)必要としている。それが自己対象s elfobject の持つ「理想的な両親像であるということ
idealized parental imago」と、「ミラーリング mirroring」の機能である。人は精神的な意味で生き続けるためには、それらの自己対象機能を果たすことの出来る他者を周囲に必要とする。幼少時は主として親がその役割を果たすであろう。そして成長してからは、友人や先輩や同僚や配偶者との間で、同様の関係を持つことになる。しかし最初の段階で親により自己対象機能を果たされなかった場合には、子供は健全な自己の感覚を養われずに、Kohut の言う意味での「自己愛的な病理」を持つようになると Morrison は論じた。彼によればそれは恥体験および恥の病理として言い換えられることになる。そしてそのような患者との治療関係においては自己対象転移が見られ、それに基づき治療が進展していくことになる。
Morrison の説にこのまま従えば、治療論に関しても Kohut 理論に沿って展開されることになるが、これを対人恐怖に対する精神分析的なアプローチとして用いることには一つの問題がある。それは対人恐怖ないしは米国における社交恐怖という病態が、Kohut-Morrison 流の恥の病理と微妙にずれるということである。これはMorrison が「恥の体験=自己愛の傷つき」という単純化を行っていることから来る問題ともいえる。対人恐怖者は、自己愛の病理のみにより説明できるかといえば、必ずしもそうではないであろう。単純に考えれば、自己愛的ではない人も、対人恐怖的となりうるのだ。
ただし Morrison の治療論を読むと、対人恐怖や恥を感じやすい人々にその対象を限定して論じるのではなく、自己愛の病理一般を恥という視点から見直すというニュアンスを持っており、これはこれで明快で説得力がある。彼は恥の防衛として生じるさまざまな病理、特に他人に対する憤りや軽蔑といった問題も自己愛が満たされないことから来る怒り(「自己愛憤怒」)という視点から扱っている。これはパーソナリティ障害に広く見られる問題を扱う手段としては非常に有効であろう。ただしそこに現れる患者像は、対人恐怖というよりはDSM的な自己愛パーソナリティ、すなわち自己中心的であり、他人を自分の自己愛の満足のために利用するといったタイプにより当てはまるという印象を受ける。
岡野の対人恐怖理論の図式
私が対人恐怖に対する精神分析的な考察を行った際に導入したのが、二つの自己イメージの葛藤という図式である(図1、岡野、1997, 省略)。それをここで改めて紹介したい。これは冒頭で記述した対人恐怖の心性を力動的に説明しようとした試みであり、また先に述べた自己愛の病理の理論を基盤としたものとも異なったものであった。
人は自分を理想化したイメージと、恥ずべき自分というイメージの二つを分け持つことが多い。そしてそれぞれは別個に体験される傾向にある。冒頭のスピーチの例では、スムーズにスピーチをしている自分のイメージが理想自己に相当するが、いったん言いよどみ、冷や汗をかき、「ああ自分は駄目だ!」という思いと共に、今度は「恥ずべき自己」のイメージに支配されるようになる。いわば自己イメージの「転落」が生じるわけだが、それが著しい恥の感情をうみ、それが対人恐怖の病理の中核部分を形成すると考えるのである。
この両「自己像」のあいだの分極に関して重要なのは、この分極の上下の幅がその人の恥の病理の深刻さにつながるということだ。なぜなら恥多き人ほど、「自分は人前で自由に心置きなく自分を表現したい」と夢見ることが多く、それは現実とかなりかけ離れたものとなる傾向にあるからだ。また恥多き人ほど「自分はなんて駄目なんだ!」と思う時の落ち込み幅も尋常ではない。彼らはほんのちょっとした失態で「こんな駄目な人間は生きている資格がない」、とまで思ってしまうのだ。だからこそ対人恐怖傾向のある人においては、「理想自己」はより高く位置し、恥ずべき自分はとことん低く位置する傾向にあり、両者の懸隔は大きくなる。
逆に対人恐怖的な傾向が少ない人の場合は、両者の距離はあまり開いておらず、時には両者は融合して中心付近により現実的な自己として存在している可能性がある。パフォーマンスを職業として選択し、すでに場馴れしている人にとっては、両者の分極する程度はより限定されたものとなるだろう。たとえばプロの司会者であれば、「自分の技量はこんなところだろう」という妥当なレベルを思い描くことができ、日常の業務ではそれを大きく超えていることに驚くことも、それが極端に裏切られることも多くはないはずだ。彼らは自分に対する期待値も過度に大きくはなく、したがってそれだけ失望も少ないということになる。プロのパフォーマーなら自分の姿のビデオ再生を見ても、自分がイメージしていた姿と極端に異なるものを見ることはない。つまり「理想自己」から「恥ずべき自己」への転落はおきにくいのだ。ところが対人恐怖傾向のある人間は、自分のパフォーマンスの姿を写真で見ることすら強烈な恥の感情が沸き起こるものである。それは自分がこうあって欲しい、こうであればよかったというイメージが肥大し、そのために現実とのギャップに大きく失望するという悪循環が成立してしまっているからだ。
「対人恐怖」の治療状況における転移関係について
ところで図8-1 (省略) を見る限りでは、二つの自己像の反転現象はあたかも自分という内的世界で生じているというイメージを与えるかもしれない。しかしたとえば一人自室で文章を音読していても、よほど臨場感を伴わない限り、対人恐怖症状としての声の震えは生じないだろう。ところがそこで目の前にたった一人が存在しているだけで動揺し、声の震えやどもりを引き起こされることがある。その意味では両「自己」の分極や反転現象は対象との関係により大きく依存することになる。
このことは対人恐怖症状について扱う治療環境を考える上でも重要である。通常は転移関係は治療関係の深まりとともに発展し、そこに患者の病理も反映され、それが治療的に扱われるわけであるが、対人恐怖症状についてはそれが必ずしも当てはまらない。むしろ治療者がまだ見知らぬ、あるいは出会ったばかりの時期にもっとも華々しくなり、それから徐々に軽減していく傾向にある。しかも対人恐怖の力動的な治療に必要とされる患者治療者関係は、あからさまな対人恐怖症状が患者の側に誘発されないような安全な環境が保障されていることが前提となる。その様な環境で初めて、治療関係によりさまざまに動く患者の心境に焦点を当てた治療が行なわれる。それは基本的には支持的で、古典的な分析状況とはかなり異なるものとなるはずだ。
私がかねてから治療実践に生かしているのは、そのような安全な環境を提供した上での、認知療法的な枠組みの導入である。分析的な枠組みと認知行動療法的な枠組みの共存は伝統的な分析的療法の立場からはなじみにくいかもしれないが、今後はさらに試みられるべきものであろう。精神分析的な枠組みは、認知行動療法的なプロセスにおいて生じたさまざまな心の動きについて語る場も提供できるという点で、後者の効果をより高めるというのが私の考えである。そのような例として後に二つの症例を提示したい。
対人恐怖における謙虚さや謙譲の美徳という意義について
次に対人恐怖における謙虚さや謙譲の美徳という側面についても触れておきたい。これまで述べたように、対人恐怖は DSM-III(1980年)において社交恐怖という形で欧米の精神医学界において市民権を得る形となった。それ以来社交恐怖についての理解と治療を扱った出版物が英語圏でも非常に多くなっている。そこには一種のブームが生じているといっていいが、それらは一様に恥の感情や社交恐怖をなくすべきもの、克服すべきもの、という論調におおむね終始している。それは最近の米国に見られる「恥ずかしがりを克服しよう」という類のタイトルを冠した数多くの著作を目にしてつくづく感じることだ。
もちろんそのような風潮はある意味ではやむをえないことなのかもしれない。欧米社会において社交嫌いで引っ込み思案であることは、社会生活において極めて不利であることを意味する。それと同様に欧米人に控えめさ、謙虚さの意味を説くことにも限界がある。他方わが国には内沼の業績(内沼、1977)に見られるような、恥の持つ倫理的な側面や、それがいわば「滅びの美学」とでもいうべき謙譲の精神につながるとみる立場が存在する。そして対人恐怖症状を持つ人が同時に、他人を優先し、譲歩する傾向を持つことにも注目すべきであろう。
私は対人恐怖の根幹にある力動は、この人に譲りたいという気持ちと裏腹の自分を主張したい願望との葛藤、内沼(1977)が表現するところの 没我性と我執性の葛藤にあると思う。それは既に述べた図式における理想自己と恥ずべき自己の葛藤と結局は同義であることに気づかれよう。この没我性と我執性の葛藤という問題を全体として扱ってこそ力動的なアプローチと言える。
対人恐怖症状の深刻さはこの両自己像の隔たりに反映されていると説明したが、その隔たりが継続しているひとつの理由は、当人が特に恥ずべき自己の姿を極端に脱価値化するために直視できないことにある。彼らは手が震えたり言いよどんだり、赤面している自分は、それを見たら誰もが軽蔑したりあまりの悲惨さに言葉を失ったりするような姿であると感じている。それらの人々に欠けているのは、おそらく人前で緊張をしたり、パフォーマンスを前にしてしり込みをしたりするのは普通の人にもある程度はおきることであり、その姿を他人に見せたからといって二度と人前に出られなくなったり社会的な生命が奪われたりするわけではないということである。そしてそればかりではなく人前での緊張や引っ込み思案は、他人に自己主張や発言のチャンスを与えるという積極的な意味も担っているということを彼らが知ることは、両自己像の懸隔を近づける意味を持つと考える。
治療関係において恥ずべき自分に対する肯定的なまなざしを向けることを促進した例として、以下に事例AさんとBさんを掲げたので参照されたい。
(以下症例は省略)