2.相手の痛みを感じることが出来ない場合
私は先に、加害殺傷のファンタジーには、それを実際に行動に移すことへの恐怖と罪悪感が強力なストッパーになっていると述べた。すると恐怖や罪悪感がそもそも生まれつき希薄だったり欠如していたりする人の場合にはどうだろうか、という問題になる。あたかもゲームで人を殺すようにして、実際の殺害行為に及ぶことになることになりはしないか? 自分の体の「動き」により大きな「効果」をもたらしたいという願望、そのためのファンタジーにおける殺戮、それに罪悪感の希薄さや欠如が加われば、それが実際の他人に向けられても不思議はないとも考えられる。注目していただきたいのは、彼らが特別高い「攻撃性」を備えている必要すらないということだ。彼らの胸に生じる可能性のあるのは「どうしてテレビゲームで敵を倒すようにして人を殺してはいけないの?」という素朴な疑問だけであろう。
「人を殺してみたかった」という犯罪者の言葉を、私たちはこれまでに少なくとも二度聞いている。一人は2000年5月の豊川事件の加害者。もう一人は2014年 7月の佐世保での女子高生殺害事件においてである。後者の事件の加害少女は、小学校のときに給食に農薬を混入させ、中学のときには猫を虐待死させて解剖するという事件を起こしている。さらには2014年の事件の前には父親を金属バットで殴り重傷を負わせている。そこにはそれらの行為による「効果」に明らかに興味を持ち、楽しんでいるというニュアンスが伺えるのである。
ではどのような場合にこの「人の痛みを感じられない」という事態が生じるのだろうか?
他人の感情を感じ取りにくい病理として、私たちはまずはサイコパス、ないしはソシオパスと呼ばれる人々を思い浮かべるであろう。いわゆる犯罪者性格である。また自閉症やアスペルガー障害などの発達障害を考える人もいるかもしれない。確かに残虐な事件の背景に、犯人の発達障害的な問題が垣間見られることはしばしばある。
まずはコアなサイコパス群についてである。彼らの多くは一見通常の言語的なコミュニケーション能力や社会性を有し、そのために他人を欺きやすい。2001年の大阪池田小事件の犯人などは、典型的なサイコパスでありながらも、何度も結婚までしている。なぜ他人の痛みがわからない人がかりそめにも社会性を身につけるのかについては不明だが、おそらくある種の知性は、かなりの程度まで社会性を偽装することに用いることが出来るのであろう。あるいは彼らの他人の痛みを感じる能力には、「オン、オフ」があるのかもしれない。
最近わが国でも評判となっている著書『サイコパス・インサイド―ある神経科学者の脳の謎への旅』で、ジェームス・ファロンは大脳の前頭前皮質の腹側部と背側部における機能の違いを説明する(5)。前者はいわば「熱い認知」に関係し、情動記憶や社会的、倫理的な認知に対応し、後者は「冷たい認知」すなわち理性的な認知を意味する。そしてサイコパスにおいては特に前者の機能不全が観察されているとする。それに比べてむしろ後者の「冷たい認知」に障害を有するのが自閉症であるとする。
そこでこの自閉症を含む発達障害に目を転じてみよう。実は過去20年の間に起きた殺人事件で加害者にアスペルガー障害が疑われたケースはかなりある。そのためにこの障害自体が攻撃性や加害性と関連付けて見られやすい傾向にある。しかし当事者のために一言述べておかなくてはならないことがある。それは自閉症やアスペルガー障害を持つ人々が人の心を読みにくいために加害的な行動をとりやすいということは、一般論としては決して言えないということだ。それどころか彼らの多くは高い知能を有し、人から信頼され、研究者や大学教員となって活躍している。
ここで他者の心を理解しにくいということは、道徳心や超自我が育たないという事を必ずしも意味しないという点についても強調しておきたい。むしろ彼らの持つ秩序へのこだわりは、加害行為に対する強い抑制ともなっている可能性がある。彼らの多くは、法律や規則や倫理則を犯すことを生理的に受け付けない。私の知るアスペルガー傾向を持つ人々の中には、車の運転をする際に法定速度を絶対に超えない人がいる。あるいは決められたアポイントメントの時間に一分たりとも遅れる事が出来ないという人もいる。その種の「決まり」を守らないことは、彼らにとっては「キモチわる」く、感覚的に耐えられないようだ。
しかし「決まり」を守る道徳性と「他人に痛みを及ぼすこと」を抑止する道徳性は次元が異なるのもはたしかであろう。前者による罪悪感や羞恥心や「キモチわるさ」は、いわば自分の側の不快や痛みである。他人の痛みを感じる力が希薄でも成立するのだ。しかし後者は自分がどうであれ、他人の痛みがそのまま問題となる。方向性としては全く逆なのである。ただしもちろん「人を害してはならない」は「決まり」でもある。他人の苦痛を感じにくい人でも、「決まり」を破るという意味で加害行為はそれなりに「キモチわる」くもあるだろう。しかし他人の痛みを感じることによる決定的な抑止を欠いている場合には、加害行為はゲーム感覚で、あたかも仮想上の敵に対する攻撃と同じレベルで生じてしまう可能性があるのだろう。つまり発達障害傾向にサイコパス性が重なっている場合には、事情は大きく異なる可能性があるのだ。
3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合
相手を蹂躙し、殺害することに快感が伴う場合、攻撃性の発揮は執拗で、反復的となる。2015年の『文芸春秋』5月号に、「酒鬼薔薇」事件(1997年)の犯人Aの家裁審判の判決の全文が載せられている(6)。これを読むと、一見ごく普通の少年時代を送った少年Aが猟奇殺人を起こす人間へと変貌していく過程を克明に見ることが出来る。思春期を迎えると、悪魔に魅入られたように残虐な行為に興奮し、性的な快感を味わうようになる。少年Aの場合は、性的エクスタシーは常に人を残虐に殺すという空想と結びついていたという。
米国ではジェフリー・ダーマーという殺人鬼が1970~80年代に起こしたおぞましい事件が知られているが、彼の父親の手記も同様の感想を抱かせる(7)。ダーマーは主にオハイオ州やウィスコンシン州で合計17人の青少年を殺害し、その後に屍姦や死体の切断、さらには肉食行為を行った。母親は極めて精神的に不安定であったが、父親はそれなりの愛情を注いでいたようである。しかし父から昆虫採集用の科学薬品のセットをもらってからは、動物の死体をいじることに夢中になり、その対象も昆虫から小動物に移行する。彼のネクロフィリア(死体に性的興奮を覚える傾向)の追求にだれも歯止めをかけることはできなかったのだ。そして取り返しのつかない惨事が起こってしまう。
私たち人間にとって性的ファンタジーほど始末におえないものはない。私たちの多くは一生これに縛られて生きていくようなものだ。私たちの性的な空想は、その大半は同世代の異性に向けられ、また一部は同性に向けられる。ここまでは問題はない。しかし私たちの一部はそれを小児に向け、またごく一部はその対象をいたぶることでその興奮を倍加させ、そしてそのごく一部が、殺害することでエクスタシーを得る。犯人Aやジェフリー・ダーマーの場合のように。そしてそのすくなくとも一部は遺伝や生物学的な条件により規定されるようである。もし私たちがそのような運命を担ってしまったら、どうやって生きていけばいいのだろうか?
おそらく全人類の一定の割合の人々は、ネクロフィリアを有し、猟奇的な空想をもてあそぶ運命にあろう。彼らはみな犯人Aのような事件を起こすのだろうか? ここからは純粋に想像でしかないが、否であろうと思う。彼らはおそらくそれ以外の面で普通の市民であろうし、自らの性癖を深く恥じ、一生秘密として心にしまいこみ続けるのではないだろうか? そしてごく一部が不幸にしてそれを実行に移してしまうのであろう。
4.突然「キレる」場合
殺傷事件の犯人のプロフィールにしばしば現れる、この「キレやすい」という傾向。普段は穏やかな人がふとしたきっかけで突然攻撃的な行動を見せる。犯罪者の更生がいかに進み、行動上の改善がみられても、それを一度で帳消しにしてしまうような、この「キレる」という現象。秋葉原事件の犯人は、人にサービス精神を発揮するような側面がありながら、中学時代から突然友人を殴ったり、ガラスを素手で叩き割ったりするという側面があった。池田小事件の犯人などは、精神病を装ったうえでの精神病院での生活が嫌で、病棟の5階から飛び降り、腰やあごの骨折をしたという。これは自傷行為でありながらも「キレた」結果というニュアンスがある。一体キレるというこの現象は何か。米国の精神科診断基準であるDSM-5では、この病的にキレやすい傾向について「間欠性爆発性障害」という名前がついているが、この障害は、おそらくあらゆる傷害事件の背景に潜んでいる可能性がある。
以上攻撃性への抑止が外れる4つの状況を示したが、現実にはこれらはおそらく複合して存在している可能性がある。殺人空想により性的快感を得る人間が、人の痛みを感じ取る能力にかけ、同時にキレやすい傾向を有し、また幼少時に虐めや情緒的な剥奪を受けることで世界に恨みを抱いた状態。それが凶悪事件を犯す人々のプロフィールをかなりよく描写しているのである。
ちなみにこれらの4つのうち、2番目と4番目に関しては、そこにサイコパスたちの持つ脳の器質的な問題が影響している可能性があると私は考える。殺人者の半数以上に脳の形態異常や異常脳波が見られるということが指摘されてもいる。近年のロンドンキングスカレッジのブラックウッドらの研究によると、暴力的な犯罪者は脳の内側前頭皮質と側頭極の灰白質(つまり脳細胞の密集している部分)の容積が少ないという。これらの部位は、他人に対する共感に関連し、倫理的な行動について考えるときに活動する場所といわれる。(http://www.reuters.com/article/2012/05/07/us-brains-psychopaths-idUSBRE8460ZQ20120507“Study finds psychopaths have distinct brain structure.) 前出のファロンの著書も同様の結果を報告しているのだ。
治療的介入の新理論
暴力はどのように防ぐことが出来るのであろうか?暴力をふるい、人を傷つけた人のなかには、それを深く反省し、服役後は再犯を犯すことなく市民生活を送っている人もいる。しかし犯罪を繰り返す反社会的パーソナリティ障害、サイコパス、犯罪者性格などといわれる人々に対する治療は、難しく、原則として治療法は存在しないというのが専門家の一般常識であった。ただしかつては彼らを治療しようというヒロイックな試みもあった(8)。1960年代にアメリカの精神科医 Elliott Barker 氏が、ある治療的な実験を行ったという。彼が唱えたのは、「サイコパスたちは表層の正常さの下に狂気を抱えているのであり、それを表面に出すことで治療が可能である」という説だった。彼は「トータルエンカウンターカプセル」と称する小部屋に、若く知性を備えたサイコパスたちを入れて、服をすべて脱がせ、大量のLDS(幻覚剤)を投与し、お互いを革バンドで括り付けたという。そしてエンカウンターグループと同様の試み、すなわち心の中を洗い出し、互いの結びつきを確認しあい、心の奥底を話し合うといったプロセスを行った。そして後になりそのグループに参加したサイコパスたちの再犯率を調べると、さらにひどく(80%)になっていたという。つまり彼らはこの実験的な治療により悪化していたわけだ。結局この治療的な試みで彼らが学んだのは、どのように他人に共感しているように演じるか、ということだけだったという。
Barker,
E,McLaughlin, A. The Total Encounter Capsule.Canadian Psychiatric Association
Journal. 22:355-360, 1977.
以下に「入門 犯罪心理学 原田隆之著」(9)を参考にして記述してみたい。このような悲観論を代表するものとしては、1970年代に有名なアメリカのマーチンソン Robert Martinson の研究があったという。それが犯罪者の治療は何をやっても効果がないという研究結果を伝え、それによりアメリカは犯罪の厳罰化の方向に動いたという経緯があった。いわゆる「何をやってもダメ nothing works 」理論を提唱したのだ。そしてさらに脳の画像技術が進み、暴力的な犯罪者は、すでに述べたような脳の器質的な変化を伴っている可能性があることが明らかになり、それが治療的なペシミズムを推し進めたのである。
しかし後にマーチンソンの見解は誤りであるということがわかったという。彼が治療と見なしていたものの中には、保護観察、刑罰、刑務所収容の対象者までも含まれていて、改めて治療的なものだけを選んで調査をした結果、約半数に治療効果がみられていることがわかったのだ。そしてその後マーチンソンは自説を撤回し、1979年に52歳の若さで飛び降り自殺をしてしまったという。その後Lipsey いう研究者により、犯罪者の治療についての研究がまとめられたが、それはそれまでの悲観論を大きく変えるものであった。
そのリプセイの研究によれば、その主張は以下の3点にまとめられるという。1.処罰は再犯リスクを抑制しない。2.治療は確実に再犯率を低下させる。3.治療の種類によって効果が異なる。
Lipsey,
MW., Landenberger, NA. & Wulson SJ (2007) Effects of Cognitive-behavioral
programs for criminal offenders. The Campbell
Libruary of Systematic Reviews. ネットでダウンロード可能!!
1.については、拘禁や保護観察は逆にわずかだが再犯率を上げてしまうという。これについては一見常識的な考え方が通用しないというのは驚きでもあるし、また興味深い。2.はこれまでの治療悲観論への反論とも言える。適切な治療を行った場合の再犯率が35%、行わなかった場合が65%であるというのだ。これは劇的な効果ともいえる。そして3.適切な治療とは、認知行動療法、行動療法であり、それ以外の療法、たとえば精神分析やパーソンセンタード・セラピーなどでは再犯率にほとんど影響はなかったという。また治療を行うなら拘禁下よりも社会で行う方がいいとも述べられている。
アンドリューズとホンダという研究者はこれらの理論を踏まえて「RNRの3原則」というものを導いている。それらはリスク原則、ニーズ原則、反応性原則だということだが、これらが守られないと、犯罪者に対する効果は台無しになるどころか、再犯率は少し増えるという。
まずはリスク原則について。これは要するに、再犯率が軽い人に高強度の治療をすべきではない、ということである。そうすることで費用もかさむし、再犯率も上がると伝えている。ウィスコンシン矯正局の研究では、低リスクの人に低強度の治療をしたところ再犯率は3%だったが、高強度の治療にしたところ、それが10%に跳ね上ったという。ちなみにここで高強度とは1対1の面接などであり、低強度の治療とは、自習とか視聴覚教材を用いたものである。刑務所などでは模範囚には手厚い「治療」の場が提供される一方では、反抗的な囚人は放っておかれるということが起きているという。その逆を行かなくてはならないというわけである。
ニーズ原則については、これを説明するためには犯罪にまつわる「セントラルエイト」の記述が必要だ。犯罪にはいくつものリスクファクターがあるが、アンドリューズらはそれを8つに絞ったのだ。それらは、①反社会的認知、②敵意帰属バイアス、③性犯罪者の認知のゆがみ、④反社会的交友関係、⑤家庭内の問題、⑥教育、職業上の問題、⑦物質濫用、⑧余暇使用であるという。そのうちたとえば⑦の問題しかない人には、それに集中した治療、つまり薬物乱用への対処を行い、同じように、④、つまり悪い連中とつるんでいることが問題となっていた人には、それに対する治療を行うという意味だ。
反応性原則とは要するに、効果があることをせよ、効果がないことをしても仕方がない、というもので、そこには効果がないものとして、アニマルセラピーや精神分析が挙げられている。受刑者が動物に触れるのは確かに情操教育に効果的と直感的に感じるが、再犯率には関係がないという。しかしそのような直観に従った「治療」を私たちはしがちであり、真に効果的な治療、すなわち認知行動療法を行うべきだ、と述べている。
具体的な治療的介入の試み
さて以上は原田氏の著作の治療に関する項目を紹介した形になるが、そこでのエッセンスとなる部分について述べたい。それは、上述の「セントラルエイト」のうちの①反社会的認知に集約されるだろう。②敵意帰属バイアス、③性犯罪者の認知のゆがみも、認知的な問題ということでは①にまとめていいであろう。そしてその認知の問題に注目して認知行動療法を行うことには明らかな効果があり、再犯防止につながると述べられているのだ。これは確かに重要な提言であり、「サイコパスには治療は不可能である」という私たち臨床家が慣れ親しんだペシミズムへの反省を促してもくれる。もちろん犯罪者に対してその考え方を根本から変え、まっとうな人間に生まれ変わらせることは不可能に近いのかもしれない。人間の「育て直し」などは本来不可能なことなのである。その意味では治療の成果として目覚ましいものは期待できず、せいぜい再犯率がたとえば6割から4割に減る、という程度のものでしかないだろう。しかしそれならそれ以外の精神疾患、うつとか境界パーソナリティ障害とか解離性障害の治療が、それに比べてはるかに高い治療効果が上げられているかといえば、そういうわけではない。精神科医療は多くの場合、「少しだけ改善」に役立つだけなのである。いずれにせよ「サイコパスは救いようがない」は、実は私たちが持っている偏見かもしれないのだ。
ではこの反社会的認知とは一体何か? それはたとえば「ドラッグはかっこいい」とか「戦場で人を斬って初めて一人前になる」とか「やつらをポアするのは人類を救済するためだ」というような思考であり、それに従うことで、現実の他者への攻撃性の抑止が外れてしまうというようなものだ。②の「敵意帰属バイアス」として分類されているものは、本来恨みを持つべきでない相手を恨むことであり、私のこれまでの自己愛の議論(9,10)では、H.Kohut の自己愛憤怒に深く関連している。居酒屋で隣のグループの一人が「馬鹿じゃないの」と言ったことを、自分のことだと捉えて、ナイフでその人を刺し殺してしまったりするという極端に理不尽な例 (それを原田氏は「馬鹿じゃないの殺人」と命名している) も挙げられる。私がこれまで述べた4タイプについても、独特の反社会的な認知がみられるのであろう。そのことを踏まえつつ、それぞれの4タイプについての治療について触れたい。
1.怨恨、復讐による場合
このタイプでの典型的な反社会的認知は、「私は相手により深く傷つけられた」、「私は相手により人生を台無しにされた」というものであろう。ただしこの認知は彼らのそれまでの人生経験そのものから醸成されている可能性があり、彼らにとってのアイデンティティにすらなっているだろう。生育環境から生じた親への恨みや極端な自己価値観の低さは、一時的な治療的介入で癒せるものではないことは、経験ある臨床家であれば十分承知しているはずだ。だから私たちはこの種の認知に介入することは決して容易な作業ではないことを覚悟しなくてはならない。
しかし私は彼らの認知を是正することとは違った視点から、これらの人々の暴力の暴発を抑止出来る可能性は残されていると思う。すでに例として出している秋葉原事件の犯人の場合には、彼が事件の実行の直前に体験したのは、インターネットで誰も彼のスレッドに書き込みをしてくれない、という激しい失望だった。それが彼の世間に対する恨みを急激に高めたわけだが、もし彼の人生において、Kohut の言う自己対象的な機能を果たす人がいたなら、彼の孤立無援さや絶望感を少しでも和らげ、後の暴発を防ぐことになったかもしれない。もちろんそれは一時しのぎでしかないかもしれないが。
そのような自己対象的な存在は、結果的に犯人の「認知」を是正する可能性もあった事も理解すべきであろう。他人に理解されることで「自分は生きていく価値があるのだ」という「認知」が生まれる可能性もあるのである。
なお被害妄想が統合失調症や妄想症によるものである場合には、抗精神病薬が功を奏する可能性は十分にあろう。ただし当人が服薬を断固拒否する可能性もまた高いために、この手段も無効である場合がある。
2.相手の痛みを感じることが出来ない場合
いわゆるサイコパスや情性欠如と呼ばれる人々や、自閉症スペクトラムを有する人のごく一部においては、加害殺傷の際に、相手を単なる「もの」と見なすような思考が典型的な形で見られる。「人間だって食用の牛や豚と同じ動物ではないか」という類の思考である。すでに解説したとおり、相手の痛みは知的なプロセスを経ることなく、それこそ動物でも直感的に感じ取れるものである。それを認知の是正により根本的に解決することは不可能に近いであろう。それは色覚異常の人が天然色を体験することが不可能なのと同様である。おそらくコアなサイコパスは、認知療法的な治療に最後まで抵抗するのではないか、という悲観論を私は持っている。
3.現実の攻撃が性的な快感を伴う場合
このケースに関しては、彼らの認知的な歪みを是正する可能性はさらに小さいと考えざるを得ない。いかなる理性的な思考を持たせようとしても、自らが得る快感がそれにはるかに勝っているとしたら、認知療法の効果も限られているように思う。その意味ではこのタイプの加害者の治療は、薬物依存の患者に対する心理療法的なアプローチと同様の困難さを伴うであろう。
このタイプの加害者に対しては、むしろ生物学的なアプローチがより有効かもしれない。実際の去勢はさすがに倫理的な問題があるにしても、科学的な去勢、すなわち薬物により男性ホルモンを低減させるということで、若干の効果がみられることがある。ただしむろん万能ではない。私も米国時代に経験があるが、人を縛って快感を得るという思春期の男性患者に、黄体ホルモンの注射を毎週施した結果、テストステロンは限りなくゼロに近付いた。しかしそれでも病棟でこっそりと他の患者を縛っていたということが発覚してガッカリしたしたという思い出がある。
もう一つこれは精神医学の教科書にはあまり書いていないが、抗うつ剤の使用が有効である場合もある。特に SSRI、SNRI といった抗うつ剤には、性欲減退という副作用がある。これも米国での体験であるが、ある露出癖のある中年患者に、プロザック(米国では一昔は代表的だった SSRI,日本では認可されなかった) を飲んでもらった。しばらくするとあまり露出に興味を示さなくなり、「もうあまり面白くなくなりました」と、頼もしい証言を聞いた。少しは彼の役に立ったのかもしれない。幸いなことに性的快感を伴う他害行為は、男性が年を取るにしたがって男性ホルモンが落ちてくるにつれて、明らかにその勢いがおさまっていくということは観察されている。
4.突然「キレる」場合
高い衝動性を有する患者には、脳の器質的な問題が考えられ、精神科領域では主として抗てんかん薬やリチウム、抗精神病薬などが用いられてきた。そのほか、オキシトシンでも効果が期待できる可能性があろう。(オキシトシンは扁桃核を抑制する働きが知られている。)しかしその効果は決して高くはない。そのほか怒りのコントロールについての行動療法的なアプローチもある程度は有効であろう。
最後に
本稿では攻撃性や暴力について精神医学的な考察を行った。暴力的な人々に対して、治療的なペシミズムに陥らずに、彼らのさまざまな「反社会的認知」を理解し、可能な限り対処していくという姿勢が求められているのだろう。しかしそれでも彼らに対してなすべきことには限界がある。おそらく1~4の全てを兼ね備えてしまった人間に対して私たちが出来ることは限られているのであろう。そのような人を想像してみよう。まず発達障害的な素地を持ち、内側前頭皮質の容積が小さく、そしてオキシトシンの受容体が人一倍少なく、しかも幼少時に虐待を受けていて世界に対する恨みを抱いているというものだろう。しかしそれだけでは足りない。彼は同時に生まれつき知的能力に優れ、または何らかの才能に恵まれていて、あるいは権力者の血縁であるというだけで人に影響を与えたり支配する地位についてしまったりした場合はどうだろうか。真に私たちが備えなくてはならないのは、社会適応をそれなりに遂げ、権力にまで結びついた攻撃性や暴力かもしれないのだ。
参考文献
[省略]