2012年10月23日火曜日

第14章 報酬系という宿命 その2 (2)

「快感原則」と「不快原則」の間を埋める反射的、常同的、本能的な活動

以上、人や犬の行動を「快感原則」と「不快原則」の両方に支配されたものとして描いた。しかし心がこれらの二原則に支配されるのは、高等な生物に特徴的であるという事情もご理解いただけるだろう。なぜなら両原則とも実際には体験されていない快感や不快を査定ないし検出するために、それ相当の想像力を必要とするからである。下等動物ではこうは行かない。
   1章(報酬系という宿命 その1)で私はヒメマスのことを紹介した。ヒメマスの親は、産卵の後、一生懸命砂や小石を卵の受けにかけてその卵をカモフラージュするという。一見複雑な行動を見せるわけだが、それが自然に起きてしまうとしか考えられない。つまり親ヒメマスがひれをパタパタやっている時、一生懸命想像力を働かせ、「わが子が元気に孵ってくれますように。そのためには真心を込めて水を送ろう・・・」「ウーン、ここでやめちゃうと、自分は親ヒメマスとして失格だったと後でオチこむだろうな。・・・・あと3時間ぐらいは続けよう」などと考えることなどは絶対にありえないのだ。彼らは自動的に、無意識的に、常同的にひれのパタパタを行なう。それはすでに一つの回路として脳の中にプログラムされている本能の一部というわけだ。そして下等動物では、この種の本能に基づく行為がそのかなりの部分を占めているのであろう。生物がある程度下等になるまでは、この本能的な行動が占める割合が増えるようだ。たとえばミツバチの作る社会やそこでのハチたちの仕事の文化の仕方はどうだろう?おそらくそこにはは引きこもりバチもサイコパスバチもいないだろう。人間よりはるかに優秀という気さえする。
 反対に生物が高等になるにつれて、この本脳による行動の間に出来た隙間を、自由意思による行動が埋めることになる。そしてそこでの主観的な体験に伴う快や不快が快楽原則や不快原則の天秤にかけられるようになるのだ。もちろん本能に従った行動それ自身がおそらく緩やかな快を伴っていることも想像できる。ひれをパタパタしているヒメマスは、おそらくなんとなく心地いいから続けるのだろう。本能に従った行動それ自身が緩やかな快を伴うのは、それはその本能的な行動が中止されないための仕組みと考えられる。これが生殖活動などになると、大きなエネルギー消費を伴うためにそれ自身が大きな不快となりうるため、当然強烈な快に裏打ちされていなくてはならない。メスのヒメマスが産んだ卵に必死に精子をかけて回るときのオスは相当コーフンしているはずだ。

   この事情は私たち人間にとっても変わらない。例えば人は決まった通勤路を歩いている時には、その行為について意識化していないことが多いが、おそらくはある種の快を伴っているのであろう。それは風邪などをひいて体調を崩しているときにはすぐに不快に転じるので、少し歩いては見ても、タクシーを止めたり、道に座り込んでしまいたくなったりするだろう。

「快感原則」と「不快原則」の綱引きの関係

「快感原則」と「不快原則」の関係性についてもう少し説明を続けよう。私たちが日常的に行う行為の大部分は、この両者が同時に関係しているといえる。私たちの行動のほとんどが、快楽的な要素と不快な要素を持つ。だから常に快感原則と不快原則の綱引きが起きている。第13章で論じた小脳の話を持ち込むのならば、最初はこの両原則に支配されて行われていた行動は、慣れるにしたがって一部は自動化され、反射的、常同的になり、小脳や大脳辺縁系を介して処理されるようになっていく。つまり快感原則に基づいた行動、不快原則に基づいた行動、常同的本能的な活動の要素は、通常は共存して行動を形成していることになる。
   健康のために自宅の周りを散歩する、という例を考えよう。散歩で小一時間汗を流すのは気持ちいいが、同時にめんどうくさい、という部分も伴うだろう。空模様が怪しかったり、ムシ暑かったり、逆に肌をさす風が冷たい日などは特に「私は何のためにこんなことをやっているんだろう?」と思うこともあるだろう。しかしあなたがその散歩の途中で「やーめた」と道に座り込んだりせずにそれを継続する場合、それは散歩が現実原則に則っている(つまり「快感原則」>「不快原則」となっている)からだということになる。
 この例における快にはどのようなものがあるのか? それをリストアップしてみよう。歩くこと自体を気持ちよく感じている場合には、それを各瞬間に体験していることになるだろう。それ以外にも終わった際の「今日もルーチンをこなした」「体にいいことをきちんとした」という達成感を先取りして体験していることになる。つまり快は、即時的な部分と、遅延している部分により成り立っている。ただし「今日のルーチンの35パーセントは達成できた」などと考えることができる人の場合には、歩いている間にもそのパーセンテージが上がるのであるから、遅延部分は即時的な部分と事実上あまり変わらなくなるだろう。
 では不快はどうだろうか? 天候がすぐれない時や体調が悪い時などは、歩いている各瞬間が苦痛となるであろう。こちらの方はほとんど即時的なものくらいしか思いつかない。遅延した不快体験というのはこの場合あまり考えられないからだ。「この散歩を終えたら、将来何か悪いことが起きる」などということは考えにくいし。
 さてこの散歩がルーチン化していったならば、それは半ば無意識化され、自動的なものになる。仕事から帰るといつの間にか散歩用のスポーツ着になり、歩き出している、などのことが生じる。その時はいちいちそれが快か不快かを問うことなく、その行動が自然と起きてしまう。ただしその行動がマイルドな形で快を与えることが、その継続にとっては重要であるということはすでにみたとおりだ。

 散歩の例は、快が即時的なものと将来の先取り分という複雑な構造を持ち、不快の方は即時的なものだけだったが、逆の例を考えることも容易である。たとえば喫煙。こちらは快はもっぱら即時的だ。「こうやって煙草を毎日吸っているのは辛いが、将来きっといいことがある」なんてことはあり得ない。ただしおいしそうなタバコのカートンを手に入れて家に帰ってから吸おうと家路を急ぐ時の快は、遅延部分といえるだろう。
 今度は不快の方のリストだが、これは複雑だ。即時的なものとして「まずい、煙い」などといいながら吸い続けるということもあるのだろうか? 私は吸ったことがないのでわからない。しかし「これ喫っていると、どんどん肺が真っ黒になっているんだろうな」とか「肺がんや膀胱がんに確実になりやすくなるだろうな。オソロシイ」などの考えは起きるだろう。これは将来の苦痛を先取りしたものといえなくもない。


「快感原則」と「不快原則」と「不快の回避」との関係

ところでこの快感原則や不快原則との綱引きの関係についての議論を読んでいる読者は一つ気が付くことがあるかもしれない。それは知る人ぞ知るウォーコップ・安永の提言である「すべての行動は、快の追求と、不快の回避の混淆状態である」との違いだ。この提言は英国の不思議な学者ウォーコップが示した人間観を日本の精神医学者安永浩博士が集約したものだが、それと「快楽原則」と「不快原則」との関係はどうなっているのか。この問題についても触れておきたい。
   本章でウォーコップ・安永の理論に含みこむ余裕はないが、彼らの理論を一言で言えば人間の行動は必ず、それをしたい部分と、しなくてはいけないのでやっている、という部分がまじりあっているということだ。彼らは前者を「生きる行動」と「死・回避行動」と名付けている。この観察は私たちの日常生活に照らせばかなり妥当である。というよりそうでないという場合を見つけることが難しい。先ほどの散歩の例で言えば、歩いていることそのものの快感と、それをいわば義務感に駆られてやっているという部分がある。義務感に駆られているというのは、それを「しない」ことが後ろめたさや罪悪感を生むからである。死・回避行動とはそれを少し極端な形で言い表したものなのだ。
   このことを先ほどの快感原則と不快原則の議論に引き付ければどうか?「死・回避」の部分は、実は不快原則とは似て非なるものだということがわかる。「死・回避行動」の場合、それは散歩を継続するという方向に働くが、不快原則の場合はそれは散歩をやめる方向に綱を引くことになる。前者は、「散歩は苦痛な部分があるが続けよ」であるのに対し、後者は「散歩は苦痛だからやめよ」と当人に働きかけるだろうからだ。すると両者はまったく別のものなのか?
   ここで一つ種明かしをすると、実はこれまで「快感原則」、つまり気持ちいいことはやる、としていたところに、「不快の回避」というファクターも含めていたのである。不快の回避はしばしば安堵感を生むので、それも快感としてカウントしてしまおう、ということだったのだ。確かに両者は区別しにくいところもある。しかし厳密に言えば、不安の回避と快感を一緒にするわけには行かない。
   たとえば散歩の例を思い出そう。そこで快感のリストに挙げられるものとして次のように述べた。 歩くこと自体を気持ちよく感じている場合には、それを各瞬間に体験していることになるだろう。それ以外にも終わった際の「今日もルーチンをこなした」「体にいいことをきちんとした」という達成感を先取りして体験していることになる。ホラ、快のリストに実は「不快の回避」が含まれていたではないか。「今日もルーチンをこなした」というのは、一種の義務を自分に課して、それを遂行したということを意味する。それは散歩をしないことにより生ずるさまざまな健康上の問題を考えることの苦痛や不安を回避するという意味を持っていたのだ。
 考えてみればこのお預けの行動を分析する際に、最初から不快の回避をしっかり数え入れておくべきであった。というのも私たちの行動のかなりの部分は、この不快の回避としての要素を非常に多く持っているのだ。いやいやながらする勉強、不承不承に通う職場などを考えればそれは明らかであろう。それに何しろまったく快の要素がなく、「不快の回避」だけの行動というのもいくらでもあるからだ。たとえば犬がムチをもって追いかけてくる人から必死になって逃げているという場合などはそうだろう。

  ところで「すべての行為は快の追及と不快の回避の二つの要素からなる」という提言には、誤ってはいないものの、ちょっとしたトリックがある。これは一種のトートロジーなのだ。少し説明しよう。
 ある行為を行うということは、「その行為を行わないという行為を行わないこと」でもある。先ほどの犬のお預けの例では、お預けをする、とは「えさに突進するという行為を行わないこと」でもある。するとある行為の快のリストには、その行為をしないことによる不快を回避すること、という項目は必然的に含まれることになる。アタリマエだ。それが「不快の回避」の正体であったのだ。では私はどうしてこれを快の追求と同じものとして扱ってきたのか?それはしばしば不快の回避が快の追求に変質するからである。そしてそこに再び登場するのが私たちの想像力なのだ。私たちの想像力が、不快の回避から新たな快を生むことが出来る。それをちょっと奇をてらった言い方ではあるが「快の錬金術」と称して、次の章で論じよう。