2012年10月28日日曜日

第15章 報酬系と日常生活―心理士へのアドバイス(最終章)



報酬系について知ることは、人の観察の仕方や、人への臨床的なかかわりに一定の指針を与えてくれるであろう。それは人は結局快楽的な体験に導かれる、というシニカルなまでに現実的な見方を迫る。しかしそれは人が自己中心的な生き方のみを求めるということを意味してはいない。利他的な行為であっても、それは結局快感原則に従うという点は、前章で強調した通りである。人は利他的な行為と快感原則に従った行為を、互いに正反対のものとして区別しようとするが、両者は十分に共存し、それが人の行動に厚みや奥行きを与える上に、人間存在を互恵的なものにする。

そこで・・・

アドバイス その1. 報酬系の理解に基づく人間関係の基礎としての「Win-win の原則」
 Win-win (ウィンウィン)とは「相手も得をし、自分も得をする」という意味の英語表現だが、最近は日本でも時折聞くようになっている。私がこの原則について考えるようになったきっかけについて話したい。私事であるが、私は数年前から大学院の教師としても働いている。それまではもっぱら医師のみの立場で働いていたので、教師としてどのようにふるまうべきかについては最初は全くわからなかった。そこで教師の立場に慣れるのには時間が少しかかったが、そこでわかったことは、学生にも患者にも同じような心構えで対面すればいい、ということだった。それは一言で言えば彼らは同様に「お客様customers」だということだ。これは誤解を招くいい方かもしれないが、つまりは彼らがあってこそ私がある、という関係を理解し、それを前提とすることだ。彼らがこなければ(治療に来る、教室に授業を受けに来る、という意味で)、あるいは彼らが満足しなければ私も仕事のやりがいがない。仕事が苦痛になるだろう。ということは彼らと私がWin-win になる状況を探すことが最前提になる。逆に言えば、それを考えてさえいれば、あまり仕事上で迷うことはないのである。もちろんこちらがそのつもりでもうまく行かないことが時々あるのは当然であるが。
 このwin-win の原則は、しかし案外忘れられがちなのである。一番多いパターンは、自分がやっていることが当たり前である、と思い込むことであろう。患者は来て当たり前。生徒は授業に出て来て当たり前、と思ってしまう。他方では相手側にとっては受診や受講をして直接win するものが十分ではなく、ただ単位をとるため、薬をもらうため、という状況だと、治療者患者関係、あるいは先生と生徒の関係は決して実りの多いものとはならない。しかしそのことに気付かずに不然感ばかりが体験されるというパターンが多いのだ。

 このwin-win の原則は意外に有用である。少なくとも人間関係でどうもしっくりこない時、実は自分の思っているwin-win と相手のそれが食い違っている場合、ないしは自分のwin が相手のwinよりいつの間にか大きくなりすぎて、事実上 win-lose の関係になっている場合であることが多い。問題はそうなっているという状況に気づかない場合に生じる。だからその場合はそうなっている理由を一つ一つ検討すればいいことになる。
 この方針は患者がいたずらに自分を責めることにならないという点が長所と言える。つまり人間関係がうまく行かないとしても、「私が悪い」からではなく、win-win 状況の把握が間違っている、計算違いをしている、ということになる。これは過剰に自責の念に駆られなくてもいい、ということでもあるが、同時に人間関係において独りよがりも許されないということになる。
さてこのような原則はことごとく患者の人生にも当てはまる。患者の話を聞いていると、その人生上の様々な問題、特に対人関係について問題を抱えている方が多い。そこで患者の対人関係を考える上で、どこかにwin-winの原則に従っていない部分があるのではないかという観点から患者と一緒に検討を進めていく。非常に多くの場合、患者は自分がwin しすぎである一方、相手がwinしているものがあるのかについて、その見当すらしていないことが多い。あるいは相手にwin させすぎて自分自身がちっともその関係から得るものがなかったりする。
 Win-win 状況を作るということは、実はある程度の対人観察能力を必要としている。自分とのかかわりで、相手は何を求め、何を得ているのか。満足をしているのか、それとも不満に思っているのか。患者がこれを探ることを援助するのは、心理士のもっとも重要な仕事の一つとなる。

アドバイス その2. 「自らにとって快感なものを人は信じる」という原則に立つ

人はこれこそ自分が信じるもの、というものを持つことが多い。福原愛さんにとっては、それは卓球だろう。五嶋みどりさんにとってはバイオリンに違いない。故小此木啓吾先生にとってはフロイト流の精神分析だったはずだ。また中には「自分から酒を取ったら何も残らない」、という人もいるかもしれない。
心理療法を行なう上で大切なのは、人はそれぞれ自分の好みや癖や習慣を有するだけでなく、ある種のbelief に支配されているということである。Belief を日本語にすると、つい「信条」とか、「信仰」、という堅苦しい表現になるが、要するに自分にとって「これだ!」と思ったり感じたりできることである。そしてそのbelief に沿う形で広がっていく思考、行動のパターン全体がbelief systemというわけだ。それは自らの報酬系にフィットした一定の考え方、感じ方の複合体であり、それが報酬系を刺激する限りは、人はそこから容易に動こうとはしない。
 そのような人が「どうしてそのようなbelief に固執するのですか?」と尋ねられた場合には、何らかの理屈を口にするかもしれない。しかしもちろんそれは理屈ではなくて口実に過ぎない。上ではアルコール依存の人の例を出したが、その人はアルコールを使用している自分を肯定できるようなbelief system を持っていることになる。その人にどうしてそんなbelief system を持っているのですか、と聞いても意味のある回答は得られないであろうし、仮にどんなに理不尽な回答が得られたとしても、それを論駁することで彼が酒を断つことにはならないだろう。報酬系とはそういうものなのだ。気持ちいいものが正しいもの、「これしかない」ものになってしまう、それほどに私たちは報酬系に支配される運命にあるのである。
しかし私はここで「心理療法家は患者がそれぞれ持っているbelief を変えることはできないから何をしても無駄である」と言おうとしているわけではない。「心理療法家は患者のbelief を受け入れるということからしか治療は始まらない」ということを主張しているのだ。すると次のような反論が来るだろう。「患者のbelief system は病理を含んでいるはずであり、それをそのまま受容することは治療に反するのではないか?」この点については、私はコフート的な回答を用意している。患者は治療者に、そのbelief を受け止めてくれることで理解されていると感じた地点から、そのbelief について同時に感じる問題点についても話すことが出来るのである。
例えば過食嘔吐がある人の気持ちを私はおそらく本当の意味では分からない。自分にその経験は事実上ないからである。でも私の目の前でそれを訴える人の話を聞きながら、そして過食嘔吐に苦しんでいる人と話した経験で補強しながら、それを受け入れようと努めるだろう。受け入れるのは過食嘔吐という問題だけではなく、それをその文脈の中に含むような患者のbelief system ということになる。そしてそれが基本的には快感原則に従うために、それを容易にやめることが出来ないという事実である。「それからどうするのか?」と人は問うかもしれないが、患者にとってはそのbelief system を理解されるという体験自体にすでに意味があったりするのだ。

アドバイス その3.「洞察」は快感原則に従った際に有益となる

前章の②でも述べたとおり、患者の脳の中で生じるネットワーク同士の連結という現象は基本的に報酬系を刺激するが、実はそれは伝統的な精神分析が目指すものに一致する。それがいわゆる「洞察」の獲得である。
そこで洞察を得るということはどういうことかについて改めて考える。それは非常にシンプルに考えた場合には、二つないしはそれ以上の異なる体験が同一だということを理解することである。ここでフロイトの「科学的心理学草稿」のidentification (同一視)という概念に注目したい。フロイトが脳科学に見せられていた時代に書いた本に多く出てくるこの同一視という概念。実はこれが洞察の基礎となった概念であると私は理解している。同一視とは「ああ、これはあれだったのだ」という現象である。「これはどこかで見たことがある」でもいい。「この味覚は、過去のあの時の感覚と同じなのだ」という形をとることもあるだろう。これがまさにネットワーク同士の連結という現象である。
おそらく同一視のもっとも原初的なものは、「この人は昨日の人と同じだ」というものである。その原型は母親像だ。人に慣れ、甘え、その前で自分を出す相手は、いつも同じでなくてはならない。いつも同じような笑顔、同じようなしぐさ。同じような語り口調。これがその対象との安定した愛着を生む。その人と出会うと、脳の多くの部分が一斉につながって「鳴り」出し、その人と一体化する。そして心地よくリラックスした気分になれる。この体験があると、それから先に出会うひとの中にも、母親を見出すことになるだろう。これもまた同一視である。
子供が行う最も高度な同一視とは、母親に起きていることと、自分に起きていることは同じだという同一視である。ミラーニューロンのテーマと同じ話だとご理解いただきたい。共感、ということでもある。精神療法とはいわば、これらの同一視を縦横無尽に行うことと定義して差し支えない。そして同一視の最も重要な局面は、ミラーニューロン機能を先取りして、自分の中に起きていることは、きっと対象(治療者)にも起きているかもしれない、と思えることである。見えない相手に対する配慮、ということが出来るだろうか。
さてネットワークがつながること自体は快感原則に従い、心地よい体験のはずである。しかし・・・・
精神療法はまたつらい体験でもあると考えられている。自分自身についての洞察を得ることは、時には厳しい現実との直面化や、抑圧していた外傷の想起を余儀なくされることになる。これはつながることは快感、という私の主張と一見矛盾するようである。しかしこれは洞察するという現象の両面性を表しているものと考えるべきであろう。あることを理解すること、それ自身に快楽的な部分がある。ただしそれが認めることに苦しさを体験するような事実であったとする。それ自身は苦痛な部分と言えるだろう。
たとえばある患者が友人がどうして自分から敬遠されているかがわからずに苦労をしているとする。治療を進めていくうちに、その患者が友人に対して言った言葉がその友人を傷つけたという理解を得たとしよう。その患者は、一つ腑に落ちたことになり、それ自身には心地よさを感じるかもしれないが、それは同時につらい自責感を生むかもしれないのである。
私は洞察的な治療をつらく感じることのもう一つの理由は、洞察という概念を狭く取り、患者の問題についての洞察ということに限定しすぎているからではないかと思う。それが前提になると、患者の連想が、夢の内容が、失策行為がことごとく患者が気がついていない問題を反映しているという方向になりかねない。洞察イコール「ダメ出し」、という事が起きてしまうのだ。これではつらいだろう。むしろ洞察はあらゆることに向かうべきである。自分と他者との間に起きていること。治療者との間に起きていること。世間をにぎわしているさまざまな出来事。それらの間につながりを見つけていく作業を手助けするのが心理療法家本来の仕事だと考えるべきだろう。
最後に重要なアドバイスを忘れるところだった。治療者は患者が同一視することが出来るように、一定の、変らない自分を常に持っていなくてはならない。自分らしさ、と言うことだ。予想不可能な行動や言動は、少なくとも治療場面では慎まなくてはならない。その上で始めて柔軟さが意味を持つのである。

あれ、これで一まずお終いだ・・・・