2012年10月24日水曜日

第14章 報酬系という宿命 その2 (3)


快の錬金術は前頭葉のなせる業である

先ほどの散歩の例で、それをもっぱら義務感から続けるという場合を考えた。あなたは「面倒くさいなあ」とか「本当はこんなことは必要ではないんじゃないか?」とか思いつつ、「でもこのままだとまた三日坊主になってしまうかもしれない。」と考え直していやいやスニーカーを履くという場合である。この種の義務感のみに従った行動というのはかなりの苦痛を伴うわけだが、少なくとも散歩を始めたひと月前はそうではなかった。「よし、これからは毎日一万歩歩くぞ」と新しいスニーカーを買いに走り、張り切って始めたのである。それはあるテレビ番組を見た翌日のことであった。その番組では生活習慣病について特集し、それを見ながらあなたはつくづく自分の炭水化物中心の食生活や運動不足が問題であると思い知らされた。そして番組でゲストの医師が言っていたように、「このままで行くと徐々にメタボリック症候群がひどくなり、やがて糖尿病や高血圧になり・・・・」と考えると不安と恐怖でいっぱいとなり、さっそく仕事から帰って30分の散歩を思い立ったのだ。
最初の23日は、あなたはその散歩に意欲的だった。「自分は健康にいいことを始めたのだ」、「メタボリック症候群に陥る危険を確実に回避しているのだ」と思うことが出来たからだ。しかしその意気込みは徐々に薄れていった。そしてひと月たった今は、散歩の時間が近づくと「メンドーだなあ」とため息をついているのである。しかしそれでも散歩を続けるのは、散歩から戻った時にある種の達成感が感じられること、そして「三日坊主にならずに済んだ」という安堵感があるからだ。これまでの議論から前者は快感であり、後者は不快の回避ということになることはおわかりだろう。
さてここでのテーマは、この散歩というルーチンを、より快楽的なものにするにはどうしたらいいか、ということだ。そこには想像力が関与している、と予告しておいた。それはどういうことか? 
 たとえばあなたがあれほどインパクトを受けたテレビの健康番組をいつも思い出し、あるいは録画をしたものを再生し、いかに今の食生活では自分の健康が損なわれていて、今すぐにでも生活習慣を変えなくてはならないのかをありありと感じ続けることが出来たらどうだろうか? あなたは自分の生活の不健康さを思うたびに、メタボリック症候群の恐ろしさを感じ、不安を新たにするだろう。すると毎日の散歩は、それに対する具体的な対策としての意味を、そのたびごとに感じさせるのではないか?
この種の想像力の使い方はそれなりに有効だろう。しかしそれにも限界があるし問題もある。日常の雑務に追われて番組のことを思い出すだけの精神的な余裕はないかもしれない。ビデオを何回も見る暇もないだろう。想像力を発揮する為には精神的なエネルギーを要するものなのだ。
 しかし人にはもう少し別の想像力の働かせ方もある。というかおそらく非常に多くの方は、以下の二番目の形での想像力を用いているはずである。それは「散歩をサボると三日坊主になる」という不快の回避部分を、一種の達成感に書き換えるための想像力だ。散歩を続けることの出来る自分をほめてあげる。大きな達成だと思い込む。こうして「不快の回避」の項目の値は減って、より純粋な快の部分が増えていく。これが「快の錬金術」と私が呼ぶものである。そうすることで散歩は「より楽しく」なる。努力の名人などと呼ばれる人たちは、大抵こういう錬金術を行っている。そしてその種の高度な想像力を発揮するのは、人間に特に発達した前頭前野である。
ところでこの種の錬金術は、私たち誰でもある程度はできる能力を持っている。それは私たちがある程度の喪失体験にはあきらめ、慣れることが出来るからだ。そうするとその喪失が埋められることを獲得として感じ取る。たとえばあなたが10万円入りの財布をなくしてしまったとしよう。どこかに落としたつもりになって、もう絶対出てこないと思っていたその財布が一週間後にソファーのクッションの隙間から出てきた時は、「やったー、10万円ゲット!」となるのである。散歩のルーチンについても、片手間にやるのではなく、自分の仕事と様なものとして受け入れることにより、苦痛度は減り、達成感へと変換するであろう。
ちなみにこのような変換を行えるためには、ある程度の精神の健全さが必要である。すくなくともうつや強迫を伴っていないということは大切だ。人間はある程度の心のエネルギーがあれば、「しなければならない」ことを、「しないと不安なこと」 → 「すると安心できること」 → 「すると喜びを感じられること」へと変えることはさほど困難ではない。特に「しなきゃいけない」ことがそれほど苦痛なことではなく、「めんどくさい」程度のことなら、いったんそれに集中すると案外スムーズにできたりする。するとその行動自体の快を増すこともできる。面倒くさい散歩も、歩き出したら案外楽しい、ということもあるだろう。そして歩き終わった後は「今日もルーチンをこなしていい気持だ」となる。しかしこの種の芸当が一切できなくなるのがうつ病なのだ。うつになると、普段面倒に感じていたことなどは、およそ実行不可能になる。初めても少しも楽しくない。集中力により乗り切る、という力も残されていないのだ。
強迫は強迫でこれまた厄介である。ある行動(強迫行為)をしないことの不安が、理由もなく、病的に襲ってくる。散歩の途中に目に入る電信柱を数えないと不安になり、それで疲弊してしまったりする。強迫は、まさに自分の生活にかかわる行動のことごとくが「しなきゃならない行動」になってしまう。その「しなきゃならない」リストには、自らの強迫が生み出したさまざまな行動の詳細が付け加わるからだ。
「不快の回避」の「快の獲得」への転換には、個人の工夫や創造性も発揮される。散歩をした後はカレンダーに大きな丸を付ける、でもいい。新しいシューズを買って、歩きながらその履き心地を楽しむ、でもいい。またそんなお金もなかったら、家族に自慢する、でもいい。(でも家族の誰もほめてくれないとあまり意味ないが。)仕方がなかったら自分をほめてあげる、でもいい。
このような能力を発揮しているのは、主として前頭葉である。特に後背側前頭前野(dorsolateral prefrontal cortex)は、将来にわたる行動のシミュレーションに携わる部位である。この部分は自分がある事柄をどのように実行していくかのタイムテーブルを作成することに貢献する。努力の天才のありかは、ここら辺にあるのだ。

快の錬金術の補足-快を新生する力
ところで「やらなきゃいけないこと」を「やって達成感!」に変えることは、快を生むことだ、と言ったが、これには補足が必要だ。なぜなら両方とも最初から快のリストに初めから乗っていたのではないか?ということはその総計は変わらないのに、快が新たに生まれる、とは詭弁ではないか、とも考えられるからだ。人は他人ないしは環境から何かを与えられることなく、自分から快を新生することなどできるのだろうか? ここのところを改めて考えてみたい。
つまりこうだ。最初はいやいやながら散歩を始める。その時は目の前に快がなかなか見えない。「メタボになるのが嫌だから、と昨日決めたから」とか「三日坊主になるのは嫌だから」という消極的な理由ばかりである。しかしこれも一応快のリストに載っている。不快のリストには山ほどある。かったるい。疲れる。足のウオノメが痛い。巻爪もズキズキする(新登場!)これだけの逆風で、よくも散歩が続けられるものである。しかしこんな感じで日常生活を送っている人は多い。仕事などもこんな感じかもしれない。
この散歩が少しでの快の要素を含んでいるとしたら、「ああ、今日はもう散歩をしなくてもいい」「今日のノルマは終わった。これから23時間は散歩から解放される」(よほど嫌いらしい)という安堵感なのである。でもそのうち人はこの散歩を楽しむようになることもあるのだ。ああ、今日も散歩がしたい。もちろんごく一部の人がこうなるのだが、ある程度の楽しみを感じられるようになる人は結構いるものである。これは大変なことなのか? それともアタリマエのことなのか?
そこに絡んでくるのが先ほど述べた忘却の力である。人は生きていくうえで多くの傷つきや、恥ずべき体験を持つ。それは大きな苦痛を伴う。しかしそれは通常は徐々に忘却されていく。不快はその一部が消失していくのだ。同様のことは快についても同じである。獲得した喜びは徐々に忘却される。そのうち当たり前のようになる。このような忘却の力はもろ刃の剣といえる。私たちを過去の辛い思い出によるストレスから守ってくれると同時に、不幸にもすると言えるだろう。つまり失ったものを再獲得する楽しみに変える力が与えられていると同時に、過去に自分を幸せな気分にしてくれたものが、あっという間に色あせてしまう、ということも起きてしまう。
散歩の例で言えば、健康診断の結果が思わしくなく、日課としての散歩が必要となったということ自身は不快体験であるが、それに慣れるに従い、今度は健康な体を取り返すことへの希望や喜びが大きくなる。
ここで先ほど問題になっている快の新生に戻ってみた場合、これは新生というよりは、実はかなりの部分が「忘却分」として説明できるのではないか、というのが私の主張である。私たちの人生の楽しみは、実はかなり過去に失ったものの痛みを忘却した分からなる。そしてもちろん同じことは苦痛についても言える。