2012年10月26日金曜日

第15章 報酬系と日常生活 (2)



報酬系が刺激される条件

最後に日常生活で活躍する私たちの報酬系の性質について、いくつか述べる。
       過去の体験の反復と新奇さの微妙なバランス
私たちは繰り返し体験することにより自分の脳になじんできて、しかしまだ新鮮さが残っているようなものに一番快感を味わう傾向にある。これについて早速例をあげよう。
 私たちはよほど音楽的な才能に恵まれていない限りは、初めて聞く楽曲に心を動かされることは少ない。たいてい何度か聞いて、サビの部分のメロディーを覚え始めるあたりから、その曲が気になるようになる。楽曲はおそらく2030回くらい聞いたころが旬になる。一番感動する時期だ。涙を流すこともある。このころは、曲が半ば頭に再生可能で、しかし細かい部分はまだ不確定な状態だ。つまり十分に慣れてはいずに、その曲の新奇さが残っている状態だ。そのうち聞き飽き始める。かなり聞き飽きそうになったら、半年くらい「寝かせておく」とまた感動がよみがえってくる。しかし再び聞いても、飽きるのも早くなってくる。ということで私は好きな曲はなるべく聞かないようにしているのが得策だ。

 ちなみに数年前に北山修氏のラジオ番組に呼んでいただいた時に、私は次のような話をした。
  曲を好きになることと、恋愛とは似ている。少しずつ親しみが増し、でも慣れ切っていないような相手が一番「好きな」相手なのだ。曲の場合はその状態でとめておくことができる。しばらく聞かないでおいて、たとえば一年に一度だけ聞く、という風にして堪能するのである。ところが恋愛の場合はそうもいかない。飽きないように何年も「寝かせておく」わけにはいかない。相手もこちらもどんどん「古く」なってしまうからだ・・・・。

 とにかく慣れと新奇さのバランス、である。言い方を変えれば、全く自分の血肉化して、新鮮さのないものは、私たちを惹き付けることはない。完全に知ってしまえばおしまい、ということだ。これは人に当てはまるだろうか?性的な意味ではそうかもしれない。しかし人間として、という意味であれば異なる。人は毎日姿を変え、新鮮でいられることができるからである。

② ネットトワーク間の連結が報酬系を刺激する
私たちは、わかった!という体験を大概は心地よく感じる。よほど不幸なことが「わかった」という状況ではない限りである。そしてわかる、という体験とは、ある思考や感覚記憶ともう一つの思考や感覚記憶が繋がった状態なのだ。映画や推理小説でも、話が展開していくうちに、前に出てきた伏線となるシーンが思い出され、「ああ、あそこがこう繋がっているんだ。」と感じることがある。たいがいはこれは快感を生む。このことは、「わかりかけてわからない」という体験に対して私たちが持つ不快感や不全感が間接的に示していることだ。私たちはみな「わかりたい病」にかかっていると言えるが、実はわかる、ということは生命の維持にとって大切なことでもある。
 では思考や記憶どうしが「繋がる」という体験とは、脳科学的にはどういうことか? それはわかりやすく言えば、脳波の活動が「同期化」することである。心理学の実験で、二つの異なる棒A,Bをスクリーン上で動かすと、視覚野で、ABに相当する別々の部分が興奮するということが確かめられる。そしてそれらの相は、バラバラなはずだ。何しろ別々の体験だからである。ところが二つの棒は実は連動していて、その細い連結部分Cが覆いで隠されていたために、それらは別々のものとして認識されていたとしよう。そこでその覆いを取り去ると、被検者は、A,Bは一つの全体の別々の部分であるとみなすようになる。するとA,Bに相当する視覚野の二つの部分は、相変わらず興奮し、その細い連動部分Cに相当する部分も興奮を見せるのだが、以前と違うところはA,Bに相当する部分は同期化している。つまりサインカーブの相が一致していることになる。相が一致している体験は、一つの繋がった体験なのだ。
 生物の脳はおそらくこのとき大部分は快感を覚える。それは彼らの自己保存本能に合致するからだ。全体をわかること、一部の動きから全体を知ること、それは敵から身を守るために必要なことだからだ。サバンナの草むらで、ライオンが身体の大部分を隠している。頭と尾の一部だけが別々に見えているとしよう。それを見ただけでライオンの全体を把握する能力のあるシマウマは生存の可能性が高くなるだろう。だからその種の能力は、快感原則的に保証されている必要がある。人間が物事を「わかる」能力も同様だ。では一番大きな「つながり」を脳が実現したらどうだろうか? ABCDEFも・・・・・みながひとつであるという体験。それは一種の悟りの境地に近く、宇宙といったいとなった状態といっていい。それは狂気のきびすを接していて、同時に・・・・カイカンでもあ
る。それが特殊な薬物で得られるとしたら、ちょっと手放せなくなるだろう。実際薬物によるエクスタシーがある種の忘我の境地や悟りに近い心境に導くのは、偽りの手順で生じた脳波の同期化に関係していると考えられるのだ。

 痛みや苦痛刺激が快楽に変換されることもあるから、ややこしい。性的マゾヒズムもそうであるし、精神的なマゾヒズムもそれに当てはまる。(マゾヒズムを、性的sexual、精神的 moral に分けたのはフロイトだったが、これはわかりやすい分類だ。) 
 私にはまったくわからない世界だが、鞭にうたれて気持ちがよくなってしまう人がいる。その場合痛み刺激は「入力」としての意味しか持たず、あるいは痛みとしてと同時に快感中枢も刺激することで気持ち良くなる。なぜかは誰も分かっていないが、「誰に鞭打たれているか」という認知が関与しているということは、前頭葉からのインプットが大きな役割を果たしている。鞭打ってくれるのが、若いお姉さんだからいいのであり、ふと見たら、髭面のお腹の出たおじさんが自分に鞭打っているとしたら、気持ちイイどころが腹がたつだろう。このように快感は精神的な影響がそのまま即物的な快楽につながる。その場合快感はほとんど性的な性質を帯びる。
 精神的なマゾヒズムの場合、さらに複雑な性質を持つ。精神的な意味での苦労(鞭打ちみたいな即物的な痛み刺激ではなく)が快につながるからだ。ただしこれも性的なマゾヒズムと似ていて、「ある現象」が起きていることになる。それは、痛み刺激が、快感中枢にも同時に信号を送るという現象が起きるということだ。


この④は「第15章 報酬系と日常生活」で述べたことと事実上同じであるが、ここで改めて強調したい。なぜならこのこの性質は人間の持つ性(さが)とに関連しているからだ。それは自分たちが持っていることに決して感謝することが出来ず、持っていないことの不幸ばかり文句を言うということである。私たちはABCを持っていても、それを持つことに感謝するのではなく、DEFをもっていないことを悔やみ、自分が不幸である根拠とする。それはABCを持つことの快感はもう既に体験し終えているからだ。私たちが自分の持てるものを感謝する能力があれば、どれだけ幸せになれることだろう。私はただ富雄先生の「寡黙なる巨人」という書のことを忘れられない。かつて脳梗塞に襲われた彼は、「ものを飲み込む事ができる」人がとてつもなく幸運であると感じられる境遇になってしまった。(さっそうと世界を飛び回っていた彼は、68歳のその日から、ひとりで歩くことも出来ないだけでなく、一匙の水にも「溺れて」しまうようになったのだ。)それも人生なのである。人の幸せはまったくの相対的なものである事がわかる。人は失った瞬間から、それを持っている人を羨み、持っていた時の自分に戻ることを熱望する。
この④を少し変化させたものとして、人から与え続けられる恩恵は時とともに快楽的要素のほとんどを失う」というものを付け加えたい。これが典型的な形で見られるのは、やはりなんといっても親子の関係だろう。親は成人した子に、自立するまでは生活費を援助するのが普通だ。子はそれを当然のものとし、特に恩に感じることもない(ように見うけられる)ことがしばしばである。不幸なのは、恩を与えている側がそれを自分の当然なすべきことと割り切っているうちはいいが、時には「どうして感謝されるべきことをしていて、当たり前と思われるのだろう? 電話一つよこさないとはケシカラン!」となる場合だ。しかし④が人間の報酬系に備わった性質である限り、これは致し方ないことなのだ。子どもをけしからんと怒っている親だって、実は自分の親に対して多かれすくなかれ似たような忘恩行為をしているものである。(実は私のことだ。)
 もちろんこの性質は親子関係に限らない。配偶者の一方が他方に与える恩恵も、国家が国民に与える恩恵も同じである。ただ親子関係が一番例としてわかりやすいのだ。
この④の恐ろしい点は、恩恵を与える側は、感謝されないだけでなく、その恩恵を与えることを中止した際には明白な怒りや恨みを向けられるということである。
このような現象が起きる原因はすでに述べたとおりだ。自分がすでに得たものは快楽ではない。快楽とは、自分の持っているものの、時間微分値がプラスの場合である。得たときにしか心地よくない。
 さて恩恵を与えていた側が恨みを買うといった不幸が生じないためには、彼が感謝を一切期待しないという覚悟をするしかない。あるいはその恩恵を与える行為を一切止めてしまうことだ。マア、当たり前といわれればそれまでだが。
 大体援助を継続している側は、たいてい一度は援助を止めてしまいたいと考えるものだ。しかしそれはなかなか出来ないことである。それはそうすることへの後ろめたさ、あるいは恩恵を受ける側からの恨みの大きさへの恐れからである。それほど援助される側の「当たり前感」は大きいのだ。ただしそれを思い切って行ったとしても、それは本人が思ったほどには、極悪非道のことには思えない。そう、援助する側が勝手にうらまれることを恐れているに過ぎない。
 ただし親子の関係には、もう一つ深層があると思う。それは出生をめぐる親の後ろめたさ、あるいは負債の感覚だ。生まれたばかりの子どもを胸に抱いた親は、その子が独り立ちするまで面倒を見ることは当然だと思うだろう。それは一方的に(まさにそうである)断りもなく(これもその通り)この世に送り出した親としては当然のことと思うだろう。
親は身勝手な行為の結果として子を世に送る。その時点で子供にまったく罪はない。すると子に降りかかるすべての不幸は、親の責任ということになる。これは考え出すと実に恐ろしいことだ。そうやって人類は生命を受け継いできたのだ、実は自分自身も親の勝手な行為の結果だ、ということを忘れても、この感覚を持ち続ける親は多いように思う。特に日本の親についてそれはいえるのだ。