2012年10月27日土曜日

第15章 報酬系と日常生活  (3)

⑤ 快楽的でない愛他性は原則的には快楽的である

愛他性は、私たちが持つ貴重な性質だ。ある意味では人としての価値は、どれだけ愛他性を発揮できるかということにかかっていると言っていいだろう。なぜなら愛他的な人はそれだけ他者の幸せに貢献できるのだから。これほどわかりやすい「人としての価値」の見極め方はないだろう。
 愛他性について多くの人が誤解しているのは、愛他性とは自らを犠牲にして他者に貢献する、という捉え方だ。しかしこれは正確ではない。愛他性とは、他人の快、不快が自分の快、不快と同期化するような性質だ。脳科学的には、報酬系が愛他性を発揮すべき相手と同期化しているということだ。もし相手の快が、自分にとって苦痛な体験の上に成り立つとしたら、一見自己犠牲的な行動に出ることはあるが、それはそれにより相手の得る快(したがって自分も体験する快)がそれに勝るのであれば構わないという判断を下しているにすぎない。
 他人の快、不快が、自分の快、不快と同期化すると言ったが、ここを間違ってはいけない。他人の快、不快と自分の不快、快の同期化、ではない。これでは逆である。これだと羨望が強い、あるいは極端な自己愛をもった人間ということになってしまう。でもこういう人も結構いるものである。
 他人の快、不快が自分のそれと同期化するというのは、ある意味では幸せな性格である。楽しみつつ人を幸せに出来るのだから。ただし愛他的な人はそれだけ不幸を体験しやすいともいえる。他人の不幸もまたわがことのように感じられてしまうからである。
 私たちは普通は愛他性を病理としては捉えない。愛他性は自我心理学的には「最も成熟したレベルの防衛機制」ということになる。ある種の適応的な性質として考えているのであるから、愛他的な行為が無意味にその人自身を傷つけたり滅ぼしたりしては元も子もない。愛他的な人が愛他的な行為を続けるためには、その人が元気で生きていなくてはならないのである。となると結局その人が「愛他的な行為を楽しむ」という形でしか愛他性は発揮できないのである。 
 
それにもしある種の愛他的な行為がその人の身体の損傷とか痛みをともなうとしたら、それさえも快楽的に感じられないことになり、それを行うモティベーションは継続できないだろう。するとこれは病的なマゾヒズムということになってしまう。
 ちなみに私たちはリストカット等の例で、自傷行為が快楽的な要素を持ちうることを知っているが、通常はそのような行為に「それにより他者を救う、癒す」という視点は入ってこない。もうその行為に浸ってしまい、他人どころではなくなってしまうのだ。
 さて私は愛他性は快楽的だ、という言い方をしているが、子どもを持つ親ならば、これはより身近に経験されるだろう。きょうだいの間でもそれはいくらでも起きるだろうし、恋愛対象に対してもそうだ。もちろん愛他感情だけがそれらの関係を支配するわけではない、ということは言うまでもない。しかし愛他感情はいろいろな関係性の中に時々チラ、チラ、と現れて、そこに癒しをもたらしてくれる。ある人はこんな体験を話した。
「ぶらぶら買い物をしていて、どこかの店に立ち寄り、何かの商品を目にしたとき、嬉しくなりました。その瞬間、それを買って帰り、夫にプレゼントして喜ぶ顔を想像しているからです。」
 これを読んで、「なーんだ、自分も楽しんでるじゃない。どこが愛他性なの?」という人は愛他性を誤解している、ということは最初に述べた。プレゼントを実際買うかは別として、互いにある程度はこのような体験をしていることが、その関係に癒しと潤いをもたらしている。贈り物をすることを好む人は、儀礼を重んじる事の他にもシンプルな愛他性の表現を行っていることが多い。受け取るという行為にも愛他性が含まれることだってあるだろう。徒然草に兼好法師が述べているではないか。「よき友、三つあり。一つには、物くるる友。二つには・・・・・」

⑥ 反復は基本的には快楽である 
 この⑥は性質②「過去の体験の反復と新奇さの微妙なバランス」の一部を取り出して強  調したものだ。繰り返されてきた刺激は多くの場合、それだけでも快感の源泉になる。特に今現在も繰り返されている、という点がポイントである。住み慣れた家の使い慣れたベッドと枕の感触。それがことさら不快感を生む原因が生じたというのでなければ、あるいは新しい刺激に興味をそそられない限りは、基本的には快感につながる。ただし決まったパターンを何らかの形で変更しなくてはならないような外的な必要が生じ、不本意ながら用いた代替物に慣れてしまうと、「どうしてあんなものを毎日続けていたのだろう?」と感じるということがある。こうして贔屓にする持ち物、道具、習慣などは徐々にシフトしていくものだ。
 私の場合は例えばかつて、ワープロで文章を作成する際のフォントといえば、HG丸ゴシックMPRO を常に用いていた。論文を書くにも、スライドを作るにも、それを使う。それが快感だった。でもある時別の人の用いるフォーマットに文章を合わせる必要が生じ、仕方なくHG正楷書体-PROを使っていたら、今度はこれにはまってしまっている。ゴシックMPROを使っていたときの快感は、まさにそれを使っていたから得られていた、ということが出来るのだろう。
 ②でも述べたとおり、同じことを続けたいというこのプレッシャーは、外的な理由や、新奇なもの、というもう一つの種類の快感によりピリオドが打たれ、移り変わっていくものである。そしてもちろん慣れによる不快感、すなわち「飽き」という現象もかかわってくる。どうして反復による快が、そのうち逓減したり、不快に移行したりするのかについては、よくわからない。反復することの危険性を知らせるための安全装置だろうか?確かに同じものばかり食べていると健康を害しやすいということもあるだろう。この二つの要素があるからこそ、人は同じことを一生繰り返さないで済む。
あのイチローが例の黒いバットを使わなくなるとしたら、余程のことがあるだろうが、ありえないわけではない。極度の打撃不振に陥り、偶然握った白バットでヒットが生まれると、きっとヒットが続く限りは使ってみよう、ということになるかもしれない。そうするともうクロバットには見向きもしなくなることもあるだろう。
反復の快楽。これがあるから人はこうも変わらないのだ。



 私の患者さんに非常に、手先の器用な男性Aさんがいた。某有名時計会社で、長年修理技師をしていたAさんは、引退したのちも年金暮らしをしながら仕事をもらい、持ち込まれた時計のうち、在職中の技師が治すことのできない難物をただで自宅で修理し、若い技術者を驚かせながら時間を過ごした。しかし不幸なことに時計のデジタル化とともに仕事がなくなり、彼の楽しい日々は去り、その後は空虚な日々を過ごすことになり、うつ病を発症してしまった。
 Aさんの不幸なところは、時計を直すという、彼にとっては非常に楽しい作業が、その注文がなくなるという外的な条件に翻弄され、目の前から消えてしまったことである。もしその作業が誰に左右されることもないものであり、それに熱中できるのであれば、さらにはそれにより生計を立てることができるなら、これほど幸せなことはないであろう。その意味で創作にかかわることのできる人生は、人間が人生を持続的に燃焼させ、最も快楽的に送ることのできる人生といえる。
 もちろん創作にかかわり続けることで人生を終えることはできない場合が多い。創作したものはたいがいは売り物にならない。また創作を続けるためには材料に金がかかるかもしれない。(指輪職人、などという例を考えればいいだろうか?)創作したものを置く場所がないということもある(捨てられた割りばしを飲食店からもらってきて束ねて固め、それを削って創作をするおじさんをテレビで見たことがある。「作品」はもちろん飛ぶように売れる、ということはなく、もらってくれる人の数も限られているだろう。「作品」に埋漏れていく御主人の部屋を眺めていた奥さんの複雑な表情が忘れられない。)
 さらには創作するためには体が動かなくてはならない(石像作りを創作する人は、材料費はあまりかからないだろうが、ハンマーを振れなくなったおしまいだろう)。ユーミンのように出せばヒットするようなCDを気長に作り続けるような人生は、だから最高といえるのだ。
 実はひそかな私の趣味は「本づくり」だが、これは実はすごい追い風が吹いている。書いたものが原稿用紙の束として置き場所を求める時代は過ぎた。電子化すればよい。鉛筆やペンを握る力がなくなっても、キーが打てれば大丈夫だ。そうして書いた駄作を出版してくれるような出版社を探す努力も、これからはあまり要らないかもしれない。ただの自費出版である「E出版」がある。実に恐ろしいことだ。半身不随になっても、寝たきりになっても、パソコン(スマートフォン?)さえあればこの趣味を続けることができる。
ところでネットを散歩していたら、この上なく幸せな人を見つけた。創作の材料は何と鉛筆。カッターナイフや縫い針が材料。作品が場所をとることは決してない。それは鉛筆の先の大きさにすぎないからだ。そしてその作品の素晴らしいこと。

やっぱりいつ見てもすごいや
ブラジル出身の米国在住のダルトン・ゲッティDalton Ghettiさんのことをご存じだろうか?本業は大工であるという彼はこの作業を、一説では裸眼で行うというのだ。私が一番感心したのは、上の「のこ切り」。私は彼はこの世で一番幸せな人の一人ではないかと思う。題材は無限。材料はタダ。使う体力はごく少ない。しかも作品が占めるスペースもごくわずか。あとは気力と忍耐力、そして創造性だけで人生を楽しむことができる。これほど幸せな人はいるだろうか。

 行動の完結そのものに快感がある
 もし私が食事を開始したら、よほど途中で満腹になったり、何かの理由で急に食欲を失ったりしない限りはそれを終わらすことに専念するだろう。また映画館に入り、始めた映画鑑賞を、残り5分を残して中断して出てきてしまう人も珍しい。何らかの文脈で自分の名前を書き始めて、途中でやめるということなどあるだろうか? 皿に盛られた食品を全て食べないと必要なカロリーを摂取できないから、映画の最後のシーンに秘密を解く鍵が隠されているから、書きかけの署名は用をなさないから、という理由以上に、私たちはものを完結させたいという欲求から、それらを最後までやり通す。完結それ自体が快楽的だからだ。だから私たちはあまり面白くない仕事でも、やり始めたら最期まで続けるのである。やり始めるまでは散々迷っても、いったん始めたとしたら、それを完結したいという欲求が突然増すとしか言いようがない。
 ゲシュタルト心理学は、このような人間の性質に注目した学問であるといえよう。全体としてまとまったものがドイツ語でいうゲシュタルト(Gestalt)だが、それを試行するという人間の脳の性質に注目した心理学がこのゲシュタルト心理学である。
 さてこれと深く関係しているのが、解離理論における「離散行動モデル」であると私は考える。人はどうして異なる自己状態を有する傾向にあるのか?どうしてスイッチングを起こすのか。それは行動がひとつの完結を見ることで次に移るような間隙が生まれるからであろう。