2025年9月7日日曜日

●甘え再考 2

 甘え概念の特徴として私が注目するのは、それが能動的でかつ受動的な概念であり、態度であるということだ。「甘える」と言うのは自動詞だが、それに対応するような英語がない。よく出てくる定義が to depend and presume upon another’s love or bask in another’s indulgence (https://unseen-japan.com/debunking-amae/) 日本語にすると、「他の人の愛情に頼ること、他の人の indulgence に浴すること」。ここで indulgence を訳していないのは、それが訳しにくいのと、敢えて訳すとしたらかなり「甘やかす」に近い意味になってしまうからである。つまり「甘やかす」なら indulge に相当するのだが、それを受身形の「indulge してもらう≒甘える」の英語が見つからないのである。まあ難しいことは置いておいて、甘えるの意味としては「頼る to depend 」にだいたい近い。何しろ土居先生の代表的な著書「甘えの構造」の英訳本のタイトルは”Anatomy of Dependence (依存の構造)”なのだから。だからこの不思議な受け身的な概念がどうして英語にないのかということである。  しかし面白いことに、精神分析では、フェレンチやバリントがこれを言っているのである。バリントはこれを primary love 一次的愛として盛んに論じている。これはそもそもフェレンチが「他者から愛されたい願望」という意味で「受身的対象愛 passive object love」と呼んだものをバリントが引き継ぎprimary love と表現したものである。バリントの”Basic Fault” (1968) の69ページ目には、甘えをひとことで ”to wish or to expect to be loved” と書いてあるが、これが一番わかりやすい。愛されるよう望んだあり、期待したりすること。 やはり一番この例として浮かぶのが、動物が人間の育ての親との間に結ぶ関係だ。ものすごく大きい体格の象が、10倍くらいの体格のクマが、百獣の王のライオンが、育ての親である人間の姿を見つけると一目散に駆けつけて体を摺り寄せるのだ。成獣や成鳥でも何らかの形でその人間から救われた経験のあるなら、その種のボンディングは生じるようだが、大抵はライオンの赤ちゃんを猫のように育てていくとごく自然に生まれる絆である。人間のように成長すると子供が多くの場合親から去っていくのとはえらい違いだ。ここでフェレンチやバリントたちが考えているのは、生まれた際の母子の一体となった体験だ。 実は甘えとバリントの関係については以下の論文に詳しい。少し読み直してみよう。

中野明徳 マイケル・バリントの「一次愛」論 ―土居健郎の「甘え」理論と比較して― 別府大学大学院紀要.18(2016.03),p.21-38


2025年9月6日土曜日

●甘え再考 1

 暮れのある学会のシンポでの発表のために、甘えについての考えを少しまとめておかなくてはならない。ちなみに私の最新の甘えに関する論文は、「母子関係における養育観の二タイプ」と言うもので、高山敬太・南部広孝編(2024)<日本型教育>再考 学びの文化の国際展開は可能か. 京都大学学術出版会の一章として発表したものだ。しかし大方の論旨はだいぶ忘れてしまったので、少し思い出すところから始めたい。 そもそも子育てには日本型と西欧型の二つがあるという単純化された考えを提示したことに始まる。要するに甘え(一次的愛)への養育者の能動的な反応性の高さが日本型、低さが西欧型というわけだ。要するに赤ちゃんがおっぱいを欲しがっている時に先取りするのが日本型、泣いて欲しがるという形で赤ちゃんが自分の欲求の表現を待つというのが西欧型と言うわけだ。実はこのことは成人のコミュ二ケーションにもみられるが、ここはひとつ変わった例。 32歳でパリにわたって初めに印象深かったことがある。病院で学習内容や病歴を書くために支給された紙が、真っ白で、罫線さえ引いていないのだ。一番上に病院のロゴマークが入っているだけ。あとは自分で使い方を決めよ、というわけだ。これだと字がドンドン曲がって行ってしまうじゃないか。日本の記録用紙ならうまい具合に罫線が入っていて、字が曲がるのを防いでくれるのに、何と不親切な‥…と思った。ちなみにそのあと渡米したら、アメリカでの記録用紙はどこでも一律にイエローバッド。どこに行っても例の黄色い紙の束しか売っていない。まあ罫線が入っているだけましたが、文房具でさえ、こちらを甘やかしてくれない。ごく単純化して言えば、日本は甘えを促進するが、西欧はそれをしてくれないし、そうすることはよろしくないというような雰囲気さえあるのだ。


2025年9月5日金曜日

FNSの世界 推敲の推敲 3

  身体科からの歩み寄り―「MUS」の登場

 ところでFNDについては最近新しい動きが見られる事にも言及しておきたい。それはこれまで精神科医は患者の身体症状についてその扱いに戸惑っていたが、その一部に脳神経内科を含めた身体科からの名称が与えられるようになったことである。それらは線維筋痛症であり、PNESであり、FNSである。それらを総称するならば、それはいわゆる「MUS」、すなわち「医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」である。(岡野(2025)脳から見えるトラウマ.岩崎学術出版社)

 ちなみにこのMUSという疾患群は最近になって精神医学の世界でも耳にするようになったが、取り立てて新しい疾患とは言えない。というよりその言葉の定義からして、そこに属するべき疾患群は、それこそ医学が生まれた時から存在したはずである。そして身体医学の側にとってはMUSはそれをいかに扱うべきかについて、常に悩ましい存在であり、それは現在においても同様であるといえよう。結局MUSに分類される患者は「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として精神医学で扱われる運命にあったのだ。そしてそれは昔のヒステリーと同類だと考えられる。 

  ここで「半ば医学的な概念」と表現をしたが、それはヒステリーは本当の医学的な疾患とは言えないようなもの、すなわち患者が自作自演で症状を生み出したもの、周囲の気を引くために症状を誇張しているものというニュアンスを有していたからである。つまりその症状は本人の心によって作られたようなところがあって、そこには疾病利得が存在するという考え方が支配的であった。言い換えればそれは病気であってそうでないようなもの、という中途半端な理解のされ方をしていたのである。そしてその意味ではヒステリーと呼ばれる患者たちは常に差別や偏見を向けられる傾向にあったのだ。
 幸いDSM-Ⅲ(1980)以降はヒステリーという名前が診断基準から消え、その多くの部分が転換性障害や解離性障害ないしは身体化障害という疾患概念に掬い上げられ、患者が差別や偏見を向けられる度合いは多少なりとも軽減したことはすでに述べた。
 ここでMUSに属するものについて比較的わかりやすく図に示したものをここに示そう。これはとある学術書(Creed, Henningsen, Fink eds, 2011)これを見るとMUSという大きな楕円の中に身体表現性障害と転換性障害の集合が含み込まれ、また器質性疾患の集合はMUSと一部交わっているという関係が示される(図の斜線部分)。


 ここで身体表現性障害とは、少なくとも従来の考え方によれば、心理的な要因が身体の症状により表現された疾患という意味であり、転換性障害とは、心理的な要因が感覚機能や随意運動に表現されたものと考えられてきた。(ちなみにこの元になった図が作成された時に用いられていたDSM-IV(1994)では身体表現性障害の中に身体化障害と転換性障害が含みこまれるという形をとっている。)
 また器質性疾患に関しては、ある種の器質性の変化や病変が見られるものの、それだけでは十分に説明できないものがこのMUSとの共通集合(灰色の部分)を作っているという事情を表している。
 この図からわかるように、MUSは身体表現性障害と転換性障害及び器質性障害の一部を含み込んでいるものの、それ以外の余白部分を含むさらに広い範囲に及ぶ。つまり様々な症状を示しつつ医学的な診断が下らず、これらの3つのいずれにも診断されない多くのものがこのMUSには含まれることになるのだ。それはちょうどかつてヒステリーと呼ばれていたものがきわめて多くの異種の精神疾患を含んでいた事と同様である。別所で私はそれらの内の幾つかの代表的なものについて以下に挙げて論じた。
 

● いわゆる「転換性障害」(機能性神経学的症状症、FND)

●   ME/CFS (筋痛性脳脊髄炎)

●   FM(線維筋痛症)

●   Yips または局所性ジストニア

●   PNES(心因性非癲癇性痙攣) これは昔偽性転換などと呼ばれていたものです。

 

  このMUSに関心が集まった理由の一つには脳神経内科の外来にはFNDを有する患者がかなり含まれるという事情がある。 実際には脳神経科の外来や入院患者の5~15%を占めるといわれる。またFND は癲癇重積発作を疑われて救急を受診した患者の50%を占め、脳卒中を疑われて入院した患者の8%を占めるという(Stone, 2024)。そのため脳神経科でもFNDを扱わざるを得なくなっている。そしてそれ以外の身体科、例えば眼科、耳鼻咽喉科、整形外科などにも同様のことがいえる。つまり精神科医以外の医師たちがいかに機能性の疾患を扱うかというのは従来より大きな問題だったのである。
 また先ほどFNDは陰性所見ではなく所見の存在(陽性所見)により定義されるようになったという事情を述べたが、実際に脳神経内科には Hoover テストのように、ある所見の存在がFNDの診断の決め手となるような検査法が知られていることも追い風になっている。
 しかしここで興味深いことも起きている。というのも最近神経内科の側からは、「FNDの診断には精神科医は必要ない」という声も聞かれるからである。

Stone, J. et al. (2014) Functional disorders in the Neurology section of ICD-11. Neurology, ;83;2299-2301.

Stone, J. et al. (2024) Functional neurological disorder: defying dualism. World Psychiatry. 2:1


2025年9月4日木曜日

FNSの世界 推敲の推敲 2

変換症からFNSへ

 以上は変換という概念が消えつつあり、それに代わってFNSの概念が唱えられるようになった経緯を簡単に述べたが、この動きはもう少し細かく追う必要がある。   言うまでもないことだが、このFNDの”F”は機能性 functional であり、器質性organic という表現の対立概念であり、検査所見に異常がない、本来なら正常に機能する能力を保ったままの、という意味である。変換症と呼ばれてきた疾患も、時間が経てば、あるいは状況が変われば機能を回復するという意味では機能性の疾患といえる。だからFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。  またFNDの”N”すなわち神経症状 neurologicalとは、神経症状との区別が紛らわしいので注意を要する。ここでの神経症状とは通常は脳神経内科で扱うような症状、例えば手の震えや意識の混濁、健忘などの、知覚、感覚、随意運動などに表われる異常である。変換症が示す症状はこれらの知覚、感覚、随意運動などに表われる異常であることから、それらは神経症状症と呼ぶことが出来るのだ。それとの対比で神経症状 neurotic symptoms とは、神経症 neurosis の症状という意味であり、不安神経症、強迫神経症などをさす。  このFNSがそれまでの変換症 conversion にとって代わる形で現れたわけであるが、それが含む意味は大きかった。DSM-5においてなぜconversion (変換、転換)という言葉そのものについて問い直すという動きがあったのだろうか? これについてはFNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone の論文(2010)を参考に振り返ってみる。本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来する。 Freudは鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味で、この言葉を用いた。ちなみにFreudが実際に用いたのは以下の表現である。「ヒステリーでは相容れない表象のその興奮量全体を身体的なものへと移し変えることによってその表象を無害化する。これをわたしは転換と呼ぶことを提案したい。」(Freud, 1894)  しかし問題はこの conversion という機序自体が Freudによる仮説に過ぎないのだと Stone は主張する。なぜなら心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからだという。もちろん心因が常に意識化されているとは限らず、心因が存在しないことを証明することも難しいが、その概念の恣意性を排除するという意味でもDSM-5においては conversive disorder の診断には心因が存在することをその条件とはしなくなったのである。

 Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.

 DSM-IVにあった「症状が神経学的に説明できないこと」については、DSM-5やICD-11ではあえて強調されていないことになったことはまず注目に値する。実際には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)
 このDSM-5やICD-11に見られた変更は、FNSにおいて神経学的な所見が存在しないということを否定しているわけではない。しかし医学的な診断が存在しないこと(すなわち陰性所見)ではなく、医学的な診断と適合しないこと(つまり陽性所見??)を強調する形になっている。この違いは微妙だが大切である。

実はこの陽性所見という概念、簡単なようで難しい。DSM-5‐TRの9.身体症状症および関連症群の冒頭部分でこう書いてある。「むしろ陽性の症状及び兆候(苦痛を伴う身体症状に加えて、そうした症状に対する反応としての異常な思考、感情、および行動)に基づく診断が強調される。」(p.339)  ところがFNSに関しては、「その症状と認められる神経疾患または医学的状態が適合しないことを裏付ける臨床的所見がある」(p.350) とし、2ページ後にはそれについて「このような『陽性』検査所見の例は何十例もある」p.351)。つまり陽性所見の意味はかなり違うのである。


 例えば足が動かないという訴えの人に転換性障害の診断を下すとしよう。その場合、足に神経学的な病変がないことにより診断することは望ましくない。そこに患者の強いこだわり、すなわち「過度の思考、感情、行動」が見られることで診断が下るべきだというのだ。

実はここら辺、相当苦労しながら書いている。何しろ従来の転換性障害conversion disorder は、変換症と呼ぶべきだったり、機能性神経症状症(FND)と呼ぶべきだったりと、さまざまである。どの用語を用いるべきかをいろいろ考えながら書かなくてはならない。

  ともかくもconversion という用語を用いなくなった事情には、患者が偏見や誤解の対象となることを回避すべきであるという倫理的な配慮も働いていた。これについてDSM-5‐TRには以下のような記載が見られるからだ。
「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。・・・所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5₋TR , p.339)

  ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、以下に述べる「心因が存在すること」、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。
 このうち心因については、DSM-5,ICD-11では診断基準としては問われなくなったことは、上で転換という概念がなくなりつつある理由として示した通りである。それでは「症状形成が作為的でないこと」についてはどうか。
 「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。
 また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。
 さらには従来CDと呼ばれる状態について見られるとされていた「美しい無関心 a bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。
 ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。

2025年9月3日水曜日

FNSの世界 推敲の推敲 1

   本章はヒステリー(変換症、FND)の精神科からみた歴史というテーマについて論じる。すなわち本書の執筆を担当されている神経学の専門家とは異なる切り口からこのテーマについて論じることになる。はじめに本稿で用いる用語について述べたい。というのも本章に関してはめまぐるしい名称変更が近年あったからである。まずヒステリー hysteria はすでに過去のものとなりつつある概念ないし診断名であり、DSM-Ⅲ(1980)以降、解離性障害 dissociative disorder や転換性障害 conversion disorder へと引き継がれたという経緯がある。そして最近それがさらにFNDという表現を得たことになる。 以上の経緯を踏まえ、また用語の混乱を避けるため、本稿では以下の3つを使い分けることとする。

● ヒステリー ・・・・・ DSM-Ⅲ(1980)以前の時代における変換症、FNSに相当する概念
● 転換症 ・・・・・ DSM-Ⅲ以降DSM-5(2013)までの時代における変換症、FNSに相当する概念、過去に転換と記載されてたものも本稿では変換という表現に変える。
● FNS ・・・・・ DSM-5以降の概念で、ここには変換症、機能性神経学的症状症、解離性神経学的症状症と同等のものとする。

ヒステリーの歴史

さてヒステリーに関する精神医学の歴史をひも解く、ということになるが、これを純粋に精神医学の歴史上のあり方として切り分けることは簡単ではない。というのも昔から精神科と神経内科 (neurology、最近では脳神経内科という表現が一般的) は混然一体になっていた。ちょうどヒステリーについて現代的な医学の立場から唱え始めたシャルコーは神経学者だし、それを引き継いだフロイトやジャネは精神科医だったが、フロイトは元々は神経解剖学者だったという風にである。さらには病理学者(解剖をして顕微鏡で調べる学者)と臨床医の区別も漠然としていた。
 さらに問題となるのは、シャルコーやフロイト以前に「精神医学」が本来あるべき姿として存在したのか、という点である。よく知られているように、ヒステリーは子宮遊走によるという説が、ギリシャ時代からあったとされるが、これはそもそも「学問」的な理解なのかということも疑わしくなる。
 ヒステリーは人類の歴史のかなり早期から存在していた可能性がある。その古さはおそらくメランコリーなどと肩を並べるといってもいい。ヒステリーに関する記載はすでに古代エジプトの時代すなわち紀元前2000年ごろには存在していたとされるのだ。

(ものすごく長い中略)

変換症およびびFNDとしての歴史

さてここまではもっぱらヒステリーについて論じてきたが、これは1980年代以降はヒステリーという名称が避けられ、変換症conversion disorder という名前になる。これは1970年代になり、ベトナム戦争の帰還兵に多彩な身体症状が見られ、また女性の性被害者や幼児虐待の犠牲者にも同様の症状が見られたことがDSM-Ⅲの診断基準に反映されたことが大きかった。
 むろん変換 conversion という用語はフロイトが用いて以来存在していた。1952年のDSM初版には精神神経症の下位分類として「解離反応」と「転換反応」という表現が見られた。1968年のDSM-IIにはヒステリー神経症(解離型、変換型)という表現が存在した。ただしそれはまだヒステリーという時代遅れの概念の傘の下に置かれていたのである。

変換症の概念がFNDにその座を譲る経緯は多少なりとも込み入っていた。
まずDSM-5(2013) では変換症/転換性障害(機能性神経症状症 conversion disorder (functional neurological symptom disorder )という表現が登場した。そしてさらにDSM-5-TR(2022)では後者は機能性神経学的症状症(変換症) functional neurological symptom disorder (conversion disorder )へと変更になった。すなわちDSMで着々と起きているのは conversion という概念の使用の回避であり、DSM-5とDSM5-TRで順番が逆転したことがそれを示唆している。さらにはICD-11ではconversion という表現がなくなり、変換症に相当するのは、dissociative neurological symptom disorde 解離性神経学的症状症である。(ちなみにconversion の訳語が転換(性)から変換(性)に変更になった点については、脳波異常を伴う癲癇(てんかん)との混同を避けるためであり、それなりに意味がある変更と思われる。)
こうしてFNDの時代が到来したことになる。

なお世界的な診断基準であるDSM(米国精神医学会)とICD(国際保健機構)は,精神疾患一般についての理解や分類に関してはおおむね歩調を合わせつつある。ただし変換症を解離症に含めるかどうかについては顕著な隔たりがある。すなわちDSM‐5においても変換症は、「身体症状症」(DSM-IVにおける「身体表現性障害」)に分類される一方では、ICD-11では解離症群に分類されるのである。


2025年9月2日火曜日

男性の豹変の問題 3

 ① ポジティブフィードバック理論

私たちが「フィードバック」という言葉から一番連想しやすいのが、いわゆる「ネガティブフィードバック」だ。これはとてもよくあるシステムで、生命体が安定化に向かうためのあらゆる仕組みに関わっている。例えば体温や血圧や血糖値などはみなこのシステムだが、簡単な例では、サーモスタットのようなものを考えるといい。温度が上がるとバイメタルが曲がってスイッチが切れる。そして温度が低くなるとバイメタルが元通りに戻ってスイッチが入る、というように。
  このネガティブフィードバックがいかに必要かは次のような例を考えればいい。お腹がすいたから食事を摂る。すると空腹感は次第に癒され、最初は旺盛だった食欲は低下し、次第に食事を見るのも嫌になり、摂食行動は終わる。その細かいメカニズムはおそらくかなり複雑だが、だいたい私たちの食行動はこのようにしてバランスが取れている。
ここで思考実験だ。ある人は空腹なのでお菓子を口にすると、さらにお腹がすいた気分になり、もう少し食べたくなるとしよう。そして食べた分だけもっと食べたくなり、最後にはお腹がはちきれんばかりになってもさらに食欲が加速し、最後には胃が破裂してしまう。これは実に怖ろしい現象であり、たちまち生命維持に深刻な問題を起こす。あるいは血圧が少し上昇すると、それをさらに押し上げるようなホルモンが産出され、最後には脳出血や心不全を起こしてしまう。これもかなり危険だ。

この悪魔のようなプロセスは、実はポジティブフィードバックを描いたものである。普通は生体には起きないことだが、私たちは過食や飲酒などがそのようなループにより歯止めが効かなくなりそうな状態が存在することを知っている。

ここで気が付くのは、ポジティブフィードバック(以下、PF)はそれが生じたとしたら、生体は行くところまで行ってしまい、元のバランスには戻れないであろうということだ。ある種の破局的、ないしは一方向性の現象が起き、行くところまで行って戻ってこれない。これは例えば排卵のプロセスに当てはまる。

ちなみにこのPFに一番近い例として私はよく鮭の遡上のことを考える。鮭は成魚になると生まれ故郷の川を遡上し、ボロボロになりながら産卵をして死を迎える。ここからは想像だが、おそらく生まれ故郷の川に含まれる独特の「匂い」、つまりは様々な物質の混じり合いを覚えていて、鮭はそれを感知してその元となっている川を目指す。そして、これも想像だが(後でチャット君に尋ねてみる)その匂いの濃度勾配により、鮭はますます上流へと引き寄せられる。あれほどの急な流れに逆らって身をぼろぼろにしてまで泳ぎ、最後は穏やかな流れの産卵地にまでたどり着き、放卵ないしは放精を行う。その時鮭はエクスタシーを味わっているのだろう。

(以下略)


2025年9月1日月曜日

遊戯療法学会の講演

 8月30日(土)の水戸はとんでもなく暑かった。気温は優に35度を超えていた。東京から車で2時間の旅。そこで開かれた遊戯療法学会の基調講演を行った。それは「遊びと精神療法ー愛着理論を架け橋として」というテーマであった。数か月かけてゆっくり温めたテーマなのでそれなりに言いたいことは言えたと思うが、聞いた方々はどうお思いになったか心配である。でもこの数か月でとても面白い勉強をすることが出来た。いわゆる「じゃれ合い遊び」が持つ二者間(母子間)の脳の同期化の促進など、こう言ってしまえば何のことやらわからないかもしれないが、遊びという哺乳類以上の生命体にとって必須のプロセスの裏側が少し見えた気がした。