甘え概念の特徴として私が注目するのは、それが能動的でかつ受動的な概念であり、態度であるということだ。「甘える」と言うのは自動詞だが、それに対応するような英語がない。よく出てくる定義が to depend and presume upon another’s love or bask in another’s indulgence (https://unseen-japan.com/debunking-amae/) 日本語にすると、「他の人の愛情に頼ること、他の人の indulgence に浴すること」。ここで indulgence を訳していないのは、それが訳しにくいのと、敢えて訳すとしたらかなり「甘やかす」に近い意味になってしまうからである。つまり「甘やかす」なら indulge に相当するのだが、それを受身形の「indulge してもらう≒甘える」の英語が見つからないのである。まあ難しいことは置いておいて、甘えるの意味としては「頼る to depend 」にだいたい近い。何しろ土居先生の代表的な著書「甘えの構造」の英訳本のタイトルは”Anatomy of Dependence (依存の構造)”なのだから。だからこの不思議な受け身的な概念がどうして英語にないのかということである。 しかし面白いことに、精神分析では、フェレンチやバリントがこれを言っているのである。バリントはこれを primary love 一次的愛として盛んに論じている。これはそもそもフェレンチが「他者から愛されたい願望」という意味で「受身的対象愛 passive object love」と呼んだものをバリントが引き継ぎprimary love と表現したものである。バリントの”Basic Fault” (1968) の69ページ目には、甘えをひとことで ”to wish or to expect to be loved” と書いてあるが、これが一番わかりやすい。愛されるよう望んだあり、期待したりすること。 やはり一番この例として浮かぶのが、動物が人間の育ての親との間に結ぶ関係だ。ものすごく大きい体格の象が、10倍くらいの体格のクマが、百獣の王のライオンが、育ての親である人間の姿を見つけると一目散に駆けつけて体を摺り寄せるのだ。成獣や成鳥でも何らかの形でその人間から救われた経験のあるなら、その種のボンディングは生じるようだが、大抵はライオンの赤ちゃんを猫のように育てていくとごく自然に生まれる絆である。人間のように成長すると子供が多くの場合親から去っていくのとはえらい違いだ。ここでフェレンチやバリントたちが考えているのは、生まれた際の母子の一体となった体験だ。 実は甘えとバリントの関係については以下の論文に詳しい。少し読み直してみよう。
中野明徳 マイケル・バリントの「一次愛」論 ―土居健郎の「甘え」理論と比較して― 別府大学大学院紀要.18(2016.03),p.21-38