「はじめに」の続きをちょっと書いてみた
以下の本文では、解離性同一性障害のことをDIDと表記することにします。解離性同一性障害という名前以前には、「多重人格」という呼び方が長年なされてきましたが、それでは誤解されることが多いということで、アメリカの診断基準であるDSM-IV (1994) でこの新たな呼び方(解離性同一性障害 dissociative identity disorder)が提案されたという歴史があります。ただこの解離性同一性障害という呼び名が少し長すぎるということで、英語名のイニシャルを取ってDIDと呼ばれることが多いのです。
他の用語としては、本書では主人格や交代人格やスイッチングという言葉を用います。主人格とは便宜的な言い方で、現在一番出ている人格、という意味です。その意味では主人格がだれかはその時々で違うということが出来るでしょう。ある時期はAさん、また別の時期はBさん、ということもありうるわけです。
また交代人格とは、いくつかの人格状態の呼び方ですが、他に適切な呼び方もあるかもしれません。欧米では「交代人格 alter」、「人格部分 a part of the personality」、「アイデンティティ identity」 などの言い方がなされています。どれにも一長一短があるよび方ですが、本書では交代人格、という呼び方で統一しておきます。ただし交代人格というと、主人格が困った時のピンチヒッター、交代用員というニュアンスがあり、主人格との差別化が感じられます。しかしここではすべての人格がそれぞれ交代する可能性があるという意味で用いています。ですから主人格もまた交代人格の一人、と言えるでしょう。
スイッチングについては、一人の人格からもう一人の人格に、言わば「主人公」が交代する現象を指します。ここで主人公、などという曖昧な言葉を使いましたが、これはあくまでも外側にいる人から、誰が今現在話し手となっているか、という意味です。私たちがDIDを持つ患者さんと話をしている時、その人は一定の口調、表情、しぐさを持った、一人の人間という印象を受けます。もしその交代人格が「Aさん」という自覚を持っているとしたら、それがその時の「主人公」というわけです。するとしばらくたって主人公として「Bさん」が登場したなら、私たちはAさんと異なる口調や表情や仕草を体験するでしょう。この時に人格のスイッチングが起きた、と表現します。
このスイッチングという表現には、ある種の急な切り替え、というニュアンスが伴うでしょう。そして確かに人格Aから人格Bへの交代はしばしば急で、時には一瞬で起きることが知られています。そしてこれは解離現象の一つの特徴ともいえます。通常の精神医学の現象で、ある心の状態から別の状態に一瞬で変わる、ということはあまり起きません。よく知られている現象では、たとえば覚醒レベルが急に上がる、あるいは急にパニックやフラッシュバックなどの形での不安が生じる、という現象が比較的急に起きます。あるいは一瞬でアイデアがひらめいた、という時もそうかもしれません。皆さんも授業中に眠気をも要している時に急に先生に差され、一瞬で目が覚める、という体験をお持ちでしょう。またパニック発作などでは、ある状況で、あるきっかけで急に不安がやってくるということもあります。しかし憂鬱な気分や被害妄想など、あるいは躁的な気分などは通常なだらかに、徐々に起きてくるものです。ところが解離現象は、あたかも脳で何かのスイッチが切り替わったような生じ方をし、それに自分自身も周囲も驚くということがあるのです。
2018年3月14日水曜日
2018年3月13日火曜日
精神分析新時代 推敲 35
3.考察
(中略)
この私とAさんとの関わりで生じたことは、現代の精神分析では「エナクトメント enactment」と呼ばれるものとして理解されるだろう。エナクトメントは1950年代くらいから、私たちが持つ無意識的なファンタジーを象徴的に行動に表す一般的な傾向として使われ出した。識者によればこれは臨床状況におけるアクティングアウトと同等のものであるとされる(Auchincloss and Samberg, 2012)。 それが意味を持つのは、そのエナクトメントの意味を治療者と患者がともに行うことで、相互の心の働きの理解が深まり、それが患者の自己認識を変えたのであろう。その詳しいメカニズムはわからない。ただそれは転移的な関係性についての言語的な言及やそれによる認知レベルでの理解を超えた何かであることは確かであろう。
Auchincloss, E. L. and Samberg, E. (2012). Psychoanalytic Terms and Concepts. 4th Revised edition edition.Yale University Press.
最後に改めて述べたいのは、転移・逆転移関係はあらゆる瞬間に存在していて、私たち治療者は常に出来るだけそれに自覚的でなくてはならないということである。しかし転移はまた患者さんとの生きたかかわりの中で常にめまぐるしく動いていくものなのだ。そしてそれを自覚したり扱ったりする余裕は、実際の治療場面ではきわめて乏しいばかりでなく、そうすることで転移のダイナミズムは停止しかねないものとも考える。
2018年3月12日月曜日
解離の本 その6
最初は脳の障害を疑われた●●さん
(中略)
職場で倒れる、記憶がなくなるという事態が生じて、やっと●●さんは救急に運ばれ、専門家の診断を受けることになりました。しかし救急でも精神科の問題であることは最初は気づかれず、脳外科に送られて頭のMRIや脳波検査などが行われましたが、異常は発見されませんでした。そして最終的に精神科医の診察により診断が下ったのです。
(以下略)
2018年3月11日日曜日
精神分析新時代 推敲 34
以上の立場を例証するものとして、次に症例を挙げる。
2.臨床例 Aさんは
2.臨床例 Aさんは
(省略)
問題となったセッションから3週間後、私のほうも冷静さを取り戻すことができた時点で、私は Aさんに、3セッション前に何が起きたのかを話し合うことを提案した。Aさんは「僕は先生は怒るはずはない、と勝手に思っていたんですね。」と言った。
(省略)
2018年3月10日土曜日
解離の本 その5
症状は演技?と自分を疑う人
(省略)
2018年3月9日金曜日
解離の本 その4
4.治療開始への不安や抵抗
様々な経緯を経て治療者にたどり着いた患者さんは、多かれ少なかれ不安や抵抗を抱いています。多くの場合、いくつかの人格がそれぞれ治療を受けることに対して別の考えを持っています。治療に積極的な人格がアポイントメントをとっても、当日は別の人格が朝から出ていて来院を拒む、ということもおきます。そのような不安や抵抗を少しずつ取り除くことが、最初の課題となります。それまでの体験から、多くの人は見知らぬ他者に助けを求めることへの希望を失い、時には強い不信や怒りさえ抱えています。まずは治療者に会うのを受け入れてもらうことが、治療への第一歩です。
以下にこれらの不安や抵抗を克服して治療開始に至ったいくつかの例を示します。
ケース 1(略)
ケース 2(略)
解離性障害の患者さんは、自分よりも相手のことを気にかける傾向があり、周囲に負担をかけているという懸念が受診や来談を後押しする場合もあります。治療の導入では、その時々の患者さんの気持ちや考えに沿いながら話を掘り下げていくことが最も重要です。
患者さんによっては、人格交代を始めとする様々な症状そのものが「自分の思い込みや勘違いではないか」という疑問を抱いていることもあります。
2018年3月8日木曜日
精神分析新時代 推敲 33
私自身の立場
以上の理論的な背景をもとに、私自身の立場について述べるならば、それは上に述べた Hoffman の姿勢にほぼ一致する。転移の中には、特に触れないでおくことで自然と温存され、治療同盟のきわめて重要な要素であり続けるものも多いのである。また患者を変えるポテンシャルを持つものは転移の解釈以外にも多種多様なものがある。精神分析の外部で起きていることに耳を閉ざさない限りは、たとえば森田療法、クライエント中心療法、認知行動療法的なアプローチも同じように有効な治療法となりうる点は認めざるを得ない。転移解釈の成果に関する「実証的」な研究結果も多くの考察の材料を与えてくれる。Gill の慧眼を持ってすれば、実証主義的な風潮の著しいアメリカの環境であと10年生きながらえたなら、Hoffman と同様の相対的な立場に至った可能性もあったであろう。
そのような前提で転移に関して私が主張したいことは、やはり転移・逆転移関係に注意を払うことは、力動的な治療者が常に心がけるべきであるということである。精神分析のトレーニングの最大の特徴は、まさに Gill のいう「転移を意識化することへの抵抗」を克服することに向けられることに相違ないのだ。治療者はおよそあらゆる可能な転移・逆転移関係を常に見出し、心の中で解釈し続けることが期待される。しかしここで同様に大切なのは、それは解釈を治療状況で実際に口にすることとは別であるということだ。ひとつの治療場面において考えられる転移・逆転移は決してひとつではない。患者は治療者を母親のように見ていると同時に父親のように感じていることもありえる。また父親のような治療者イメージも、優しいそれであったり、怖いそれであったりという風に、互いに矛盾しながら存在するものなのだ。多くの場合、臨床家はそれらの可能な転移解釈の海に患者と共に身を委ねた状態でそれらを感じているだけで、すでにその役割の重要な部分を全うしているのである。それは共感と呼ばれるものとも遠くはないであろう。可能な転移解釈のうちのいずれかがおのずと言葉として浮き彫りになってこない限りは、それを個々に選択して言語化することは、それが「鋭利なメス」として作用しないまでも、共感の維持にとっての障害となりかねないである。
以上の理論的な背景をもとに、私自身の立場について述べるならば、それは上に述べた Hoffman の姿勢にほぼ一致する。転移の中には、特に触れないでおくことで自然と温存され、治療同盟のきわめて重要な要素であり続けるものも多いのである。また患者を変えるポテンシャルを持つものは転移の解釈以外にも多種多様なものがある。精神分析の外部で起きていることに耳を閉ざさない限りは、たとえば森田療法、クライエント中心療法、認知行動療法的なアプローチも同じように有効な治療法となりうる点は認めざるを得ない。転移解釈の成果に関する「実証的」な研究結果も多くの考察の材料を与えてくれる。Gill の慧眼を持ってすれば、実証主義的な風潮の著しいアメリカの環境であと10年生きながらえたなら、Hoffman と同様の相対的な立場に至った可能性もあったであろう。
そのような前提で転移に関して私が主張したいことは、やはり転移・逆転移関係に注意を払うことは、力動的な治療者が常に心がけるべきであるということである。精神分析のトレーニングの最大の特徴は、まさに Gill のいう「転移を意識化することへの抵抗」を克服することに向けられることに相違ないのだ。治療者はおよそあらゆる可能な転移・逆転移関係を常に見出し、心の中で解釈し続けることが期待される。しかしここで同様に大切なのは、それは解釈を治療状況で実際に口にすることとは別であるということだ。ひとつの治療場面において考えられる転移・逆転移は決してひとつではない。患者は治療者を母親のように見ていると同時に父親のように感じていることもありえる。また父親のような治療者イメージも、優しいそれであったり、怖いそれであったりという風に、互いに矛盾しながら存在するものなのだ。多くの場合、臨床家はそれらの可能な転移解釈の海に患者と共に身を委ねた状態でそれらを感じているだけで、すでにその役割の重要な部分を全うしているのである。それは共感と呼ばれるものとも遠くはないであろう。可能な転移解釈のうちのいずれかがおのずと言葉として浮き彫りになってこない限りは、それを個々に選択して言語化することは、それが「鋭利なメス」として作用しないまでも、共感の維持にとっての障害となりかねないである。
自分でも「気恥ずかしい」と感じられるような解釈には用心せよ
転移解釈の議論でしばしば見過ごされる点がある。それは転移が本来感覚的、情緒的な性質を有するということだ。転移は治療者が何かを感じ取ることでその存在を知るのであり、論理的な想定に基づいたり、知的に作り上げらられたりするべきではない。しかし転移をめぐる議論はしばしば知性化の対象となり、精神分析の歴史においても弊害をもたらしてきた。しかし転移を感じ取る治療者の感受性は、通常の対人関係を営む中で自然に育まれ、かつ維持されていくものなのである。それは精神分析のトレーニングにより作り上げられるものというよりは、そのトレーニングが有効となるような前提というべきものなのである。それがあってこそ転移の存在により気が付くようになるための職業的な訓練にも意味がある。そもそも治療者が感じ取ってもいない転移について論じることは、それを治療者の防衛や知性化、ないしは作為の産物であることに任せることになりかねない。転移解釈が「鋭利なメス」以上の「凶器」となってしまうのはそのような場合であろう。
しかしそうは言っても実は転移の解釈が知性化や防衛の要素をまったく欠くことも事実上不可能であると思う。治療者が技能や知識を身につけた専門家としての期待から完全に自由であるわけには行かないからである。
そこで私は臨床場面で次のような考えを念頭においている。それは「気恥ずかしさを感じさせるような解釈は、心の中にとどめておくだけにした方がいい」ということだ。その気恥ずかしさは、最初から感じ取ってもいなかったものを知的に創り上げてしまったという「まがいもの」の感じ、あるいは自由に漂わせておけば生き生きとしていたものを無理やり掬い上げて固定してしまう治療者のエゴイズムと深く関係しているのである。
転移解釈の議論でしばしば見過ごされる点がある。それは転移が本来感覚的、情緒的な性質を有するということだ。転移は治療者が何かを感じ取ることでその存在を知るのであり、論理的な想定に基づいたり、知的に作り上げらられたりするべきではない。しかし転移をめぐる議論はしばしば知性化の対象となり、精神分析の歴史においても弊害をもたらしてきた。しかし転移を感じ取る治療者の感受性は、通常の対人関係を営む中で自然に育まれ、かつ維持されていくものなのである。それは精神分析のトレーニングにより作り上げられるものというよりは、そのトレーニングが有効となるような前提というべきものなのである。それがあってこそ転移の存在により気が付くようになるための職業的な訓練にも意味がある。そもそも治療者が感じ取ってもいない転移について論じることは、それを治療者の防衛や知性化、ないしは作為の産物であることに任せることになりかねない。転移解釈が「鋭利なメス」以上の「凶器」となってしまうのはそのような場合であろう。
しかしそうは言っても実は転移の解釈が知性化や防衛の要素をまったく欠くことも事実上不可能であると思う。治療者が技能や知識を身につけた専門家としての期待から完全に自由であるわけには行かないからである。
そこで私は臨床場面で次のような考えを念頭においている。それは「気恥ずかしさを感じさせるような解釈は、心の中にとどめておくだけにした方がいい」ということだ。その気恥ずかしさは、最初から感じ取ってもいなかったものを知的に創り上げてしまったという「まがいもの」の感じ、あるいは自由に漂わせておけば生き生きとしていたものを無理やり掬い上げて固定してしまう治療者のエゴイズムと深く関係しているのである。
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