以上の理論的な背景をもとに、私自身の立場について述べるならば、それは上に述べた Hoffman の姿勢にほぼ一致する。転移の中には、特に触れないでおくことで自然と温存され、治療同盟のきわめて重要な要素であり続けるものも多いのである。また患者を変えるポテンシャルを持つものは転移の解釈以外にも多種多様なものがある。精神分析の外部で起きていることに耳を閉ざさない限りは、たとえば森田療法、クライエント中心療法、認知行動療法的なアプローチも同じように有効な治療法となりうる点は認めざるを得ない。転移解釈の成果に関する「実証的」な研究結果も多くの考察の材料を与えてくれる。Gill の慧眼を持ってすれば、実証主義的な風潮の著しいアメリカの環境であと10年生きながらえたなら、Hoffman と同様の相対的な立場に至った可能性もあったであろう。
そのような前提で転移に関して私が主張したいことは、やはり転移・逆転移関係に注意を払うことは、力動的な治療者が常に心がけるべきであるということである。精神分析のトレーニングの最大の特徴は、まさに Gill のいう「転移を意識化することへの抵抗」を克服することに向けられることに相違ないのだ。治療者はおよそあらゆる可能な転移・逆転移関係を常に見出し、心の中で解釈し続けることが期待される。しかしここで同様に大切なのは、それは解釈を治療状況で実際に口にすることとは別であるということだ。ひとつの治療場面において考えられる転移・逆転移は決してひとつではない。患者は治療者を母親のように見ていると同時に父親のように感じていることもありえる。また父親のような治療者イメージも、優しいそれであったり、怖いそれであったりという風に、互いに矛盾しながら存在するものなのだ。多くの場合、臨床家はそれらの可能な転移解釈の海に患者と共に身を委ねた状態でそれらを感じているだけで、すでにその役割の重要な部分を全うしているのである。それは共感と呼ばれるものとも遠くはないであろう。可能な転移解釈のうちのいずれかがおのずと言葉として浮き彫りになってこない限りは、それを個々に選択して言語化することは、それが「鋭利なメス」として作用しないまでも、共感の維持にとっての障害となりかねないである。
自分でも「気恥ずかしい」と感じられるような解釈には用心せよ
転移解釈の議論でしばしば見過ごされる点がある。それは転移が本来感覚的、情緒的な性質を有するということだ。転移は治療者が何かを感じ取ることでその存在を知るのであり、論理的な想定に基づいたり、知的に作り上げらられたりするべきではない。しかし転移をめぐる議論はしばしば知性化の対象となり、精神分析の歴史においても弊害をもたらしてきた。しかし転移を感じ取る治療者の感受性は、通常の対人関係を営む中で自然に育まれ、かつ維持されていくものなのである。それは精神分析のトレーニングにより作り上げられるものというよりは、そのトレーニングが有効となるような前提というべきものなのである。それがあってこそ転移の存在により気が付くようになるための職業的な訓練にも意味がある。そもそも治療者が感じ取ってもいない転移について論じることは、それを治療者の防衛や知性化、ないしは作為の産物であることに任せることになりかねない。転移解釈が「鋭利なメス」以上の「凶器」となってしまうのはそのような場合であろう。
しかしそうは言っても実は転移の解釈が知性化や防衛の要素をまったく欠くことも事実上不可能であると思う。治療者が技能や知識を身につけた専門家としての期待から完全に自由であるわけには行かないからである。
そこで私は臨床場面で次のような考えを念頭においている。それは「気恥ずかしさを感じさせるような解釈は、心の中にとどめておくだけにした方がいい」ということだ。その気恥ずかしさは、最初から感じ取ってもいなかったものを知的に創り上げてしまったという「まがいもの」の感じ、あるいは自由に漂わせておけば生き生きとしていたものを無理やり掬い上げて固定してしまう治療者のエゴイズムと深く関係しているのである。
転移解釈の議論でしばしば見過ごされる点がある。それは転移が本来感覚的、情緒的な性質を有するということだ。転移は治療者が何かを感じ取ることでその存在を知るのであり、論理的な想定に基づいたり、知的に作り上げらられたりするべきではない。しかし転移をめぐる議論はしばしば知性化の対象となり、精神分析の歴史においても弊害をもたらしてきた。しかし転移を感じ取る治療者の感受性は、通常の対人関係を営む中で自然に育まれ、かつ維持されていくものなのである。それは精神分析のトレーニングにより作り上げられるものというよりは、そのトレーニングが有効となるような前提というべきものなのである。それがあってこそ転移の存在により気が付くようになるための職業的な訓練にも意味がある。そもそも治療者が感じ取ってもいない転移について論じることは、それを治療者の防衛や知性化、ないしは作為の産物であることに任せることになりかねない。転移解釈が「鋭利なメス」以上の「凶器」となってしまうのはそのような場合であろう。
しかしそうは言っても実は転移の解釈が知性化や防衛の要素をまったく欠くことも事実上不可能であると思う。治療者が技能や知識を身につけた専門家としての期待から完全に自由であるわけには行かないからである。
そこで私は臨床場面で次のような考えを念頭においている。それは「気恥ずかしさを感じさせるような解釈は、心の中にとどめておくだけにした方がいい」ということだ。その気恥ずかしさは、最初から感じ取ってもいなかったものを知的に創り上げてしまったという「まがいもの」の感じ、あるいは自由に漂わせておけば生き生きとしていたものを無理やり掬い上げて固定してしまう治療者のエゴイズムと深く関係しているのである。