2018年3月7日水曜日

精神分析新時代 推敲 32

転移の理論の発展

  転移に関する理論的な背景について少し述べよう。転移の概念を提出したフロイトは、それをいくつかに分類している(1)。それらは「陰性転移」、「抵抗となることのない陽性転移」、「悪性の陽性転移(性愛化された転移)」などである。この中でフロイト自身は、「抵抗となることのない陽性転移」を、治療が進展する上での鍵であるとさえ言っている。ただしフロイト自身は転移を直接扱うことには比較的消極的であったという印象がある。彼にとっての中心的なテーマは、リビドー論に従った患者の無意識内容の解釈であり続けたからだ。
  その後 1934年の Strachey(7)の「変容性の解釈」mutative interpretation という概念が提出された。これは精神分析の歴史を見渡すと、極めてインパクトのある論文だった。転移を治療者が解釈することは、はいわば精神分析治療の王道と考えられるようになった。「分析家の技量は、転移の解釈をいかに的確におこなうかにかかっている」という前提が分析家達の頭に刻まれ、また大きなプレッシャーとなったのである。そしてその後の半世紀の精神分析の歴史は、分析家たちがこのプレシャーに支配されながら、ある意味では徐々にそこから解放されていくプロセスであったということができるだろう。
  私自身の治療観を振り返っても、同様の「解放」のプロセスが生じたわけであるが、そこには私が精神分析のトレーニングを受けたアメリカの自我心理学的な環境が色濃く影響していた。そして自我心理学の論客の中でもの私が一番同一化できたのは、Merton Gill のたどった道筋であった。Gill はその名著「転移の解釈」 (2)で広く知られているが、その主張は「分析的な治療においてはヒア・アンド・ナウの転移の扱いに最も力が注がれるべきだ」ということであった。よく言われる「ヒア・アンド・ナウ = 今、ここで」という表現は Gill が繰り返し用いることで、広く知られるようになったのである。
  Gill は、1941年より米国カンザス州のメニンガー・クリニックで伝統的な自我心理学派のトレーニングを開始した。しかしその後マサチューセッツ州のリッグスセンターでの臨床研究を経て70年代にシカゴ精神分析協会に移ってからは、大きな方向転換を遂げた。自我心理学的なメタサイコロジーに潜む過剰に科学的、客観主義的な姿勢を批判し、治療を生きた人間同士の関わりとして捉えることへと向かったのである。それが1980年代に Gill の提案した「二者心理学」の概念やヒア・アンド・ナウの転移分析の提唱(3)に端的に表れていたのであった。
  Gill の主張は当時のアメリカの精神分析界に大きなインパクトを与えたわけだが、そこには古典的な精神分析の治療スタイルに限界を感じる治療者が、その当時多くなってきたことが関係していた。外科医のような冷静さと客観性を備えた分析家が患者の問題の起源を過去にたどり、それが治療関係に反映されたものとして転移を捉えてその解釈を行うことは、必ずしも功を奏しないと多くの臨床家が考えたのだろう。そして彼らは患者との生きたかかわりに精神分析の新たな可能性を追究するようになったのだ。
  Gill の主張はそのような時流を背景とし、その後の Robert Stolorow らによる間主観性の議論 (6) や、Stephen Mitchell や Jay Greenberg らによる、いわゆる「関係論 relational theory」(4) ないしは「関係精神分析」の立場へと合流して行ったが、私自身もこの関係論的な枠組みから転移の問題を捉えるようになった。その関係論においては、転移についてその解釈の治療的な意義を強調する立場から、転移が治療場面における関係性において持つ意味を重視する立場への移行がみられたことは先述したとおりである。
  ところで Gill の主張が大きな影響力を持った一つの理由は、彼が転移という、精神分析において最も要(かなめ)となる概念を取り扱ったことだ。それは精神分析理論の基本に立ち戻るという保守的な側面と、二者関係の中で精神分析を捉えなおすという革新的な面の両方を持っていたのだった。精神分析の伝統を重んじる人にも、精神分析の未来を模索する人にも、それは一種の福音となった。きわめてオーソドックスな自我心理学の立場から出発した Gill が至った境地からのメッセージだからこそ説得力を持っていたのだろう。
  ちなみに Gill の主張の中でも特に評価されているものの一つに、転移の解釈をこの「転移に気が付くことへの抵抗についての解釈」と、「転移を解消することへの抵抗についての解釈」とに分類した点があげられる。特に前者は、「転移現象は常に起きているのであり、その存在を認めることへの抵抗こそ先ず扱うべきものである」というGillの立場を表していた。この主張は当時としては画期的であったと同時に、後述するように転移解釈の重要性をやや過剰なまでに重んじる傾向を生んだ可能性がある。
   この Gill の主張は現在もアメリカでは尊重され続けている。ただしより革新的な立場からは異なる声も聞かれ、Gill の共同研究者であった Irwin Hoffman もその一人だ。Hoffman は自著で自分と Gill の立場との相違について、「転移解釈が非常に威力を持つ可能性がある点については賛成するものの、それにあまりに重点を置いてしまうと、同時に生じているような意図しない対人間の影響に比べて、それが超越した力を持っていると過大評価してしまう」と述べている(5)。

2018年3月6日火曜日

精紳分析新時代 推敲 31

あるエピソード

 誤解を避けるために言いたいのであるが、私は精神分析における転移を軽視しているつもりはない。むしろ非常に大きなパワーがあり、治療者も患者もそれをうまく取り扱えない可能性があるために、慎重にならざるを得ないということを言いたいのである。転移の問題は、言わば治療場面で顔を合わせている当事者同士の関係性の問題と言い換えることが出来るが、それを扱うことには多大な緊張や不安が伴うのである。

この転移の持つパワーに関しては、私には一つの原体験というべきものがある。それはもう20年近く前、私が精神分析のトレーニングを開始したごく初期に、私自身の教育分析で起きたことである。ある日私は自分の分析家に、こんなことを話した。「先生は私と似ていると思います。先生はいつも何か手でいじっていて落ち着かないですね。この間は私たちの分析協会での授業をしながら、発泡スチロールのコップにペンでいたずら書きをしているのを見ましたよ。私も退屈になるといつも似たようなことをするんです。」これは私の彼に向けた転移感情の表現といえただろう。すると私の分析家は黙ってしまったのだ。それまで私の話にテンポよく相槌を打っていた分析家が急に無口になってしまったのであるから、私は非常にわかりやすいメッセージを受け取った気持ちになった。私は彼から「頼むから私の話はしないでくれ・・・・・。」という呟きを聴いた気がしたのである。思えば彼はシャイなお爺ちゃんだった。もちろんそのような言葉は彼の口からは出てこなかった。しかしそれ以降も、私は分析家との間で同様のことを何度か体験した。私が彼について何かを言うと、彼はあまり相槌を打たなくなったり黙ってしまったりするのである。
 (ちなみにこれを書いていて、守秘義務のことを一切考えなくてもいいことをありがたいと思う。何しろ彼は私の分析家であり、私のクライエントではなかった。(患者に、主治医に関する守秘義務などない。)第二にこれは遠いアメリカで、はるか昔に起きたことだ。第三に、私の分析家は当時すでに高齢で、10年ほど前に他界している。)
 もちろん普段の日常会話であるならば、話し相手の癖や振る舞いについて話すことは失礼なことだ。しかし精神分析に対する理想化が強かった私は、老練な私の分析家がそんな世俗的な反応をするはずはないと思い込んでいたので、この突然の変化をどう理解したらいいかわからなかった。それから5年にわたる分析の中で、私と分析家との間では様々なことが生じたが、その時の私には理不尽に感じられた彼の反応についての話し合いもかなり重要な部分を占めていた。

それから何年かして私は帰国し、日々臨床を行っているわけだが、今度は私が逆の立場を体験することがある。私の患者さんで私が書いたものを読んでいる方がいらして、その内容に関する話が出ることがあるのだ。「先生が書いてあったお宅のワンちゃんは最近どうしてますか?」とか、「先生の若い頃の対人恐怖の傾向はどうなっていますか?」などと尋ねられる。そのたびに私は少し複雑な思いをし、時には顔がこわばったり、また時にはうれしく感じたりするのだ。そして患者さんが転移感情について語り、私自身について言及するのを落ち着いて聞くことは決して容易ではないことを身をもって体験することになった。

転移がパワフルなのは、それが患者の口から語られた際に、その内容が否応なしに治療者自身にかかわってくるために他人事ではいられなくなるからなのであろう。そこで引き起こされる恥の感情や気まずさのために治療者自身が非常に防衛的になってしまい、場合によっては投影や否認等のさまざまな規制を用いてしまう可能性があるのだ。

2018年3月5日月曜日

解離の本 その3


2.日常生活を脅かす症状の数々
患者さんが日常生活において症状と自覚しないまま見過ごしてしまうことの多い現象には、下記のようなものがあります。いずれも急に始まり、急に終わる傾向にありますが、何日かかけて徐々におさまる場合もあります。(この、あたかもスイッチがオン、オフされるかのような症状の出方は、解離の一つの特徴と言えます。)

・朝目覚めると部屋の様子が変わっている、誰かが出入りしたような跡がある、購入した覚えのない持ち物や日用品が増えている、誰かと食事したらしい店のレシートがみつかり、記憶のないメールやラインのやりとりが履歴に残っていたり、削除された形跡があったリスる。

交代人格の出現を伴うDIDでは、しばしばご本人の気づかないうちに別人格が行動するようになり、生活に異変が現れます。家族や周囲の人々に指摘を受けて気づくこともあり、何らかのトラブルに発展して初めて明らかになることさえあるのです。
こうした現実的な問題に前後して患者さんの内面にも様々な変化が現れます。身体症状として次のような体験をもつこともあります。

・ふとしたきっかけで、頭の中が騒がしくなる。ざわざわした音が絶え間なく聞こえ、大勢の人々が話し合っている声がする。耳を澄ますと、どうやら自分のことを責めたり怒ったりしているらしい。時には自分の内側から話しかけてくる人の声がはっきりと聞こえる。

・突然耳が聞こえなくなり、声が出なくなる。全身が脱力し、体を起こすことができずに寝た切りになる。活字がバーコードのように見えて、文字が読めなくなる。あるいは手は動くのに文字だけ書けなくなる。急に話し方を忘れてしまい、「あー、うー」というような声しか出せなくなる。

・目の前の景色が歪み、足元の地面が柔らかくなったように感じ、うまく立っていられなくなる。話している相手の姿が小さく縮んで見えたり、急に大きくなったりする。外の世界から色が抜けたように暗くなったかと思うと、燃え盛っているように真っ赤になる。

これらの症状の改善を求めて医師のもとを訪れても、統合失調症など他の疾患と誤診されることも未だにあるようです。視覚や聴覚に関わる異常について、何度調べても身体の疾患や異常が発見されず、原因不明のまま返されてしまうこともありえます。
同じような症状が子どもの頃からあり、長期化している場合には、ご本人がそれを普通のこととして特に違和感なく過ごしていることもあるようです。幼児期から児童期に多くみられるイマジナリー・コンパニオンの存在もその一つといえるでしょう。例えばそれは、こんなふうに起きています。

・ひとりでいると、いつの間にか部屋に友だちが遊びに来ている。一緒に絵本を見たり、話をしたりして過ごすうちに気づくといなくなっている。何日かするとまたどこからともなく表れて、しばらく一緒に遊んでくれる。

イマジナリー・コンパニオンは一過性に表れてその後消えてしまうこともありますが、その存在が本人の中で影響力をもつようになり、日常的な関わりが増え行動を共にするようになってくると、DIDの交代人格としての性質を帯びてきます。

これまで述べてきたような症状とは異なり、トラウマ記憶のフラッシュバックが繰り返し起きることで、異常に気づくこともあります。

・何の前触れもなく、過去の出来事の場面が思い浮かび、恐怖に襲われる。動悸がして過呼吸状態となり、意識を失いかける。体のあちこちに痛みが走り、苦しさで身動きできなくなる。

特定の場面が何度も目の前に表れ、あたかもそれが今起きているように感じて度々恐怖に襲われても、患者さん自身は必ずしもそれをトラウマと結びつけては考えていないことも多いのです。一方でかつて自身が体験した出来事との関連にうすうす気づいてはいても、その記憶を想起し、第三者に語るのを恐れている場合もあります。

2018年3月4日日曜日

解離の本 その2


1.はじめに
DIDを始めとする解離性障害を持つ患者さんは、自分自身に起きている症状や特殊な体験の数々について、特に疑問に思ったりすることなく過ごしていることがよくあります。症状が子どもの頃からあれば、もうそれは生活の一部になっているでしょうし、それに何か困ったことがあっても他者に相談しないのは、解離の患者さんにはよくあることです。こうして病識のないまま日常を過ごし、医療受診までに長い年月を要することは少なくありません。中には子どもの頃から生活に支障をきたすほどの症状がありながら、違和感なく過ごしている場合もあります。
自分の解離体験について人に話さない、という傾向は、「自分が人とはかなり違うらしい」、「他の人には私のようなことはおきていないらしい」という自覚が芽生えた後も、時にはよりいっそう顕著になる可能性があります。「私の中に何人かがいるなんて、とても人に話せませんでした。」「人が自分を異常者扱いするに違いないと思いました。」という患者さんたちからの声はしばしば耳にします。DIDの症状があまり目だたず、明らかにされないという傾向の一端は、患者さんたちの「人に知られたくない」という気持ちも影響していると考えられるのです。
ここではその一般的な症状を取り上げ、受診に至るまでの様々な経緯をご紹介し、最初の出会いにおける適切な対応と治療への導入について解説します。

2018年3月3日土曜日

精神分析新時代 推敲 30

第4章  転移解釈は特権的なのか?
はじめに
 新時代の精神分析理論について論じる本書の第4章目に、このテーマを選ぶ。転移解釈の意味を問い直すということだ。前章に引き続き、私は「それでも解釈という概念を残し、それを治療手段の主たるものとして捉えるのであれば ……」、という立場に立っている。そして解釈が精神分析にとっての基本であるとしたら、転移の解釈は本家本元として扱われている。様々な解釈的な技法の中で、ひときわ高くその治療効果が期待されてきているのがこの転移解釈である。本章では改めてその意義について問い直したい。
 まず述べたいのは、私自身は転移の問題について、かねてからかなり深い思い入れを持っているということである。少しうがった表現をするならば、私は「転移という問題に対する強い転移感情を持っている」と言えるだろう。そしてフロイトが精神分析の理論を構築する過程で転移の概念を論じたことが、それ以後の精神分析理論において、これが治療的な意義として一歩抜きん出た位置づけを与えられたのは確かなことであると思う。
 ただし私は転移の解釈が他の介入に比べて、抜きん出た特権的な価値を有すると考えているわけではない。私自身は米国でトレーニングを受けたという事もあり、はじめは自我心理学に大きな影響を受けていた。そこでは転移の解釈はとても重要視されていた。しかしトレーニングを続けているうちに、見え方はだいぶ変わっていった。後になっていわゆる「関係精神分析 relational psychoanalysis」の枠組みから転移の問題を捉える際には、治療的な介入としては転移解釈を特権的なものとは考えない(あるいは解釈そのものが従来精神分析とは異なる意味を与えられている)事を知り、私自身の考え方と一致することを確認したのである。ただしここで急いで断っておかなくてはならないのは、私自身も、関係精神分析の立場も、これまで転移として扱われてきた現象を重んじていないというわけではないということである。それどころか転移という概念で表される患者から治療者への心の向かい方はきわめて重要な、分析的療法における核心部分を占めているという点は間違いないと考える。ただし転移は大きな意味を持つことを認識する(私、そして関係精神分析)ということ、とそれを解釈する(治療者のその理解を患者に伝える、という従来の精神分析の立場)ということは違うのだ。つまり関係精神分析では、転移が臨床的にあまり意味を成さないから無視するという立場とは異なり、むしろいかに転移がパワフルなものなのか、いかにそれが治療的に用いられ、いかなるときにそれが破壊的なパワーを持ってしまうのかについて判断する治療者の柔軟性が要求されるという点で、ことである。それこそ「転移を解釈すればいい」というわけでは決してなく、それを場合によっては見ないことにしたり、あえて扱わなかったりすることも必要になる。それに治療においては、転移以外の重要な要素もたくさん含まれ、それぞれがそれを扱われることの意義を有しているのである。

2018年3月2日金曜日

精神分析新時代 推敲 29


5.共同注視の延長としての解釈

ここからは、「暗点化を扱う」のが解釈であるという考えをもう少し膨らませて、共同注視としての分析的治療という考えについて述べたい。
解釈的な技法は分析家と患者が共同で患者の連想について扱う営みであり、心理的な意味での共同注視 joint attention, joint gaze と考えることが出来るのではないだろうか? ちなみにここで言う共同注視とは、一人の人が視線を向けた先のものに、もう一人も視線を向けることであるが、手っ取り早く言えば、二人が一緒に一つのものを見て注意を払っている状態のことである。
まず患者が自分の過去の思い出について、あるいは現在の心模様について語る。それはたとえるならば、分析家と患者の前に広がる架空のスクリーンに映し出されるようなものだ。患者がその語りによりスクリーン上に心を描き、治療者はそれを見る。たとえば「公園の桜が満開で圧倒されました」と患者が伝えれば、分析家もそれを想像して二人の前のスクリーンにその景色が浮かぶだろう。しかし二人は同じものを見ているつもりかもしれないが、もちろんそうとは限らない。「そもそもどこの公園の桜かわからないと想像のしようがない」という分析家もいるかもしれないし、そもそも桜の景色に圧倒された体験がない分析家には、そのような景色を想像すること自体が難しいかもしれない。結局患者の連想内容から映し出される像は、分析家にはぼやけていたり虫食い状だったり、歪んだでいたりモザイク加工を施されたものとして見える可能性がある。また患者の側の説明不足、あるいは分析家自身の視野のぼやけや狭小化や暗点化によるものである可能性もあろう。分析家は患者にその景色についてさらに注意深く質問や明確化を重ねていくことで、少しずつ両者の見ているものが重なっていくことを実感するだろう。分析家がそこに見えているものを描き出し、語ることで、分析家はそれが自分の描き出しているものと少なくとも部分的には重なっていると認識し、そのことで患者は共感され、わかってもらったという気持ちを抱くことだろう。それはおそらく分析家と患者の関係の中で極めて基礎的な部分を形成するのだ。
ちなみに共同注視という概念は、精神分析の分野では言うまでもなく、北山修の共視論により導入されているが(北山編、2005)joint attention そのものを分析プロセスになぞらえて論じる文献は海外ではあまり多くないという印象を持つ。(PePWEBで調べても、Joint attention は主として乳幼児研究に関するものであり、joint gaze に関しては一本の論文しか見つけられない。)しかしフロイトが患者のが自由連想について、車窓から広がる景色を描写するという行為になぞらえたことからもわかるとおり、そもそも自由連想という概念には、患者が自分の心に浮かんでくることを眺めているというニュアンスがある。共同注視は、その語りを聞いている分析家も車窓を一緒に眺めているというイメージを持つことはむしろ自然な発想とも言えそうだ。
北山修編 (2005) 共視論 ― 母子像の心理学.講談社. 
また共同注視という発想は、関係精神分析的な立場の臨床家にとっては距離があるといわれるかもしれない。そこには治療場面で起きていることを客観視し、対象化しようという意図が感じられる一方では、両者の流動的な交流というイメージとは異なるという印象を与える可能性もある。しかし共同注視する対象としては、今交わされている言葉の内容も、そこで生じている感情の交流そのものも含まれるのであり、非常に動的で関係論的だと私は考えている。
 ちなみに同様の発想に関して、私は平成26年の精神分析学会において、「共同の現実」という概念として提案したことがある。分析家と患者が構成するのは共同の現実であり、それは両者が一緒に作り上げたと一瞬錯覚する体験であり、しかしそれを検討していくうちに、両者の間にいやおうなしに生まれる差異が見出され、それを含みこむことで、つねに上書き overwrite、更新 revise されていく、という趣旨である。
岡野憲一郎 (2014)精神分析学会 シンポジウム 演題
共同注視というパラダイムにおいても、分析家と患者が同じものを注視しているという感覚を一時的に持つとしても、やがてそれぞれが見ているものの違いに気が付き、その内容はそれを含みこんで更新されていくことになるだろう。それは同じものを共同注視しているつもりになっていた患者と分析家が、見えているものを詳しく伝えていくうちに現れる齟齬なのである。いわば同床異夢であったことに両者が気が付くことである。また分析家がそこに彼自身の視点を注ぎ込むことで、藤山(2007)の巧みな表現を借りるならば、治療者がそこに「ヒュッと置くこと」により明らかになることかもしれない。
藤山直樹 (2008) 集中講義・精神分析(上).岩崎学術出版社
たとえば先ほどの事例では、「Aさんの母親は、Aさんが常に家にいて自分をサポートしてくれることに安心感を覚えている。」ということまでは、治療者とAさんの間で共同注視できることになる。そこでAさんは治療者から理解されていると感じた。しかしそこから治療者が「Aさんが自分の人生のことを考えていない、あるいはそれよりも母親の人生を当然のように優先させていることに少し違和感を覚えますよ」(「すなわちその点についてAさんは盲点化を起こしているのではないか?」)と伝えることによって、治療者とAさんとの間で見えているものの食い違いが明らかになり、そのような治療者の見方をAさんの側からは共同注視できないという事実が浮かび上がってくるのだ。しかしやがてAさんと治療者との会話を通して、やがて治療者の側には「Aさんのそのような気持ちもわからないではない」という形で、Aさんの側からも「そのような治療者の見方もあり得るかもしれない」という形で歩み寄りが生じることで、二人は再び上書きされた形での共同注視および立体視が出来るようになるのである。
解釈的な作業を、患者の無意識の意識化という作業に必ずしも限定せずに、治療者と患者が行う共同注視の延長としてとらえることは有益であり、なおかつ精神分析的な理論の蓄積をそこに還元することが可能であると考える。北山は その共視論(前出)において、母子関係が第3項としての対象を共同で眺めることを通じて心が生成される様を描いている。分析家と患者が共同で何かを注視するという構図はまさに精神分析を母子関係との関係でとらえた際に役に立つであろう。
以上私の本章における主張を最後にまとめるならば、解釈とは患者の心の視野において盲点化されていることへの働きかけであり、それは精神分析という営みを一種の精神的な意味での共同注視の延長である、という考え方を生むということである。そこでの分析家の役目は、無意識内容の解釈というよりは、その共同注視の内容に対するコメント、という程度のものといえるかもしれない。ちなみにギャバードはその力動的精神療法についてのテクスト(ギャバード G.O.著、 狩野力八郎 池田暁史訳  精神力動的精神療法 岩崎学術出版社、2012年)で、表出的―指示的な介入のスペクトラムを示し、そこで解釈についでオブザベーション observation という介入を挙げている。共同注視をしていて気がついたことをコメントする、程度に考えるのが、現代的な解釈と考えてもよいかもしれない。(このテーマについては詳しくは本書の第2章を参照されたい。)
そこで最後に共同注視における非解釈的な関わりという考えを追加して本章を終わりたい。景色や事物を母子が共同注視しつつその関係性を深めるということは、おそらく分析家と患者の関係でも言えるであろう。二人が自分たちの心から離れた扱いやすい素材、例えば天気のことでも診察にかかっている絵のことでも、窓から見える景色でも、外で鳴る雷の音でも、世間をにぎわしている出来事でも、一見分析とは何ら関係のない素材についてもそれを共同注視して言葉を交わすという体験は、おそらく両者の関係を深める一つの重要な要素となっている可能性がある。私は分析においてもそのような余裕があっていいと思い、それが解釈の生じる背景 background を形成する可能性があるのではないかと思う。そしてそのような背景を持つことで、患者の心模様を共同注視するという作業にもより深みが生まれるものと考える。
最後に私の好きなホフマンの言葉を挙げておこう。
解釈はその他の種類の相互交流と一緒に煮込まなければ、患者はそれらをまったく噛まないであろうし、ましてや飲み込んだり消化したりしないのである。
 
Interpretations had to stew with other kinds of interactions or the patient would not chew on them at all, much less swallow or digest them.Ritual and Spontaneity P205~206

2018年3月1日木曜日

解離の本 その1

まだ書き始めてもいない本の序文を書いてみた。

 はじめに

本書は解離性障害、特に解離性同一性障害の問題を抱えた方との臨床経験を多く持つ私たちがそこで得られた経験を持ち寄り、本に著したものです。主に読んでいただきたいのは、心理士や精神科医の先生方です。私たちの印象では、解離性障害はまだまだその実態が人々に理解されていません。そしてそれは臨床に携わる人々の間にとってもいえるのです。それどころか解離性障害について誤った考えを持つ臨床家も少なくないようです。そこでこれから解離性障害の患者さんに出会ったり、すでに実際に出会った患者さんとこれからどのように治療を進めていくかに思案なさっている方々にとって、本書が何らかの意味で参考になることを願っています。
ただし本書の対象は、治療者の方々ばかりではありません。解離性障害を家族として持つ方々、あるいは実際に自分がそれを有しているのではないかと懸念されている方々、あるいはいわゆる当事者の方々自身にとっても読む価値のある書として書かれています。
もちろん患者さん自身が解離性障害についての本を読むことには異論があり得ます。患者さんがよけいな知識を身に着けて、「解離性障害を装うことになったら困るのではないか?」という懸念は精神科医の間からも聞こえてきそうです。しかし私達が一貫して持っているのは、誤った知識を持つ弊害こそが一番の問題であるという考えです。解離性障害は非常に多くの誤解を招きやすく、それは歴史的にもそうでしたし、現在の日本社会にも言えます。治療者の間でも誤解が多い解離性障害障害の当事者としては、より正しい知識を自らが得る機会が与えられることの価値は少なくないと思います。また解離性障害はそれを精神科医から「宣告」されてしまうことで人生に悲観的になるような障害ではありません。解離性「障害」というふうにある種の病気という呼ばれ方をされていますが、解離とはその人の脳の働きのひとつの特徴であり、基本的には誰でも有している機能です。ただそれが極端な形で機能し、生活に支障をきたしているのが、解離性障害と呼ばれるものです。ですからその性質を理解し、それをある意味では逆に制御して用いていることで人生を生きやすくするのが治療のひとつの目的です。そのためにも解離に伴う心の動きは、当人がそれを深く知ることが回復への道筋になっているのです。・・・・・