2018年3月7日水曜日

精神分析新時代 推敲 32

転移の理論の発展

  転移に関する理論的な背景について少し述べよう。転移の概念を提出したフロイトは、それをいくつかに分類している(1)。それらは「陰性転移」、「抵抗となることのない陽性転移」、「悪性の陽性転移(性愛化された転移)」などである。この中でフロイト自身は、「抵抗となることのない陽性転移」を、治療が進展する上での鍵であるとさえ言っている。ただしフロイト自身は転移を直接扱うことには比較的消極的であったという印象がある。彼にとっての中心的なテーマは、リビドー論に従った患者の無意識内容の解釈であり続けたからだ。
  その後 1934年の Strachey(7)の「変容性の解釈」mutative interpretation という概念が提出された。これは精神分析の歴史を見渡すと、極めてインパクトのある論文だった。転移を治療者が解釈することは、はいわば精神分析治療の王道と考えられるようになった。「分析家の技量は、転移の解釈をいかに的確におこなうかにかかっている」という前提が分析家達の頭に刻まれ、また大きなプレッシャーとなったのである。そしてその後の半世紀の精神分析の歴史は、分析家たちがこのプレシャーに支配されながら、ある意味では徐々にそこから解放されていくプロセスであったということができるだろう。
  私自身の治療観を振り返っても、同様の「解放」のプロセスが生じたわけであるが、そこには私が精神分析のトレーニングを受けたアメリカの自我心理学的な環境が色濃く影響していた。そして自我心理学の論客の中でもの私が一番同一化できたのは、Merton Gill のたどった道筋であった。Gill はその名著「転移の解釈」 (2)で広く知られているが、その主張は「分析的な治療においてはヒア・アンド・ナウの転移の扱いに最も力が注がれるべきだ」ということであった。よく言われる「ヒア・アンド・ナウ = 今、ここで」という表現は Gill が繰り返し用いることで、広く知られるようになったのである。
  Gill は、1941年より米国カンザス州のメニンガー・クリニックで伝統的な自我心理学派のトレーニングを開始した。しかしその後マサチューセッツ州のリッグスセンターでの臨床研究を経て70年代にシカゴ精神分析協会に移ってからは、大きな方向転換を遂げた。自我心理学的なメタサイコロジーに潜む過剰に科学的、客観主義的な姿勢を批判し、治療を生きた人間同士の関わりとして捉えることへと向かったのである。それが1980年代に Gill の提案した「二者心理学」の概念やヒア・アンド・ナウの転移分析の提唱(3)に端的に表れていたのであった。
  Gill の主張は当時のアメリカの精神分析界に大きなインパクトを与えたわけだが、そこには古典的な精神分析の治療スタイルに限界を感じる治療者が、その当時多くなってきたことが関係していた。外科医のような冷静さと客観性を備えた分析家が患者の問題の起源を過去にたどり、それが治療関係に反映されたものとして転移を捉えてその解釈を行うことは、必ずしも功を奏しないと多くの臨床家が考えたのだろう。そして彼らは患者との生きたかかわりに精神分析の新たな可能性を追究するようになったのだ。
  Gill の主張はそのような時流を背景とし、その後の Robert Stolorow らによる間主観性の議論 (6) や、Stephen Mitchell や Jay Greenberg らによる、いわゆる「関係論 relational theory」(4) ないしは「関係精神分析」の立場へと合流して行ったが、私自身もこの関係論的な枠組みから転移の問題を捉えるようになった。その関係論においては、転移についてその解釈の治療的な意義を強調する立場から、転移が治療場面における関係性において持つ意味を重視する立場への移行がみられたことは先述したとおりである。
  ところで Gill の主張が大きな影響力を持った一つの理由は、彼が転移という、精神分析において最も要(かなめ)となる概念を取り扱ったことだ。それは精神分析理論の基本に立ち戻るという保守的な側面と、二者関係の中で精神分析を捉えなおすという革新的な面の両方を持っていたのだった。精神分析の伝統を重んじる人にも、精神分析の未来を模索する人にも、それは一種の福音となった。きわめてオーソドックスな自我心理学の立場から出発した Gill が至った境地からのメッセージだからこそ説得力を持っていたのだろう。
  ちなみに Gill の主張の中でも特に評価されているものの一つに、転移の解釈をこの「転移に気が付くことへの抵抗についての解釈」と、「転移を解消することへの抵抗についての解釈」とに分類した点があげられる。特に前者は、「転移現象は常に起きているのであり、その存在を認めることへの抵抗こそ先ず扱うべきものである」というGillの立場を表していた。この主張は当時としては画期的であったと同時に、後述するように転移解釈の重要性をやや過剰なまでに重んじる傾向を生んだ可能性がある。
   この Gill の主張は現在もアメリカでは尊重され続けている。ただしより革新的な立場からは異なる声も聞かれ、Gill の共同研究者であった Irwin Hoffman もその一人だ。Hoffman は自著で自分と Gill の立場との相違について、「転移解釈が非常に威力を持つ可能性がある点については賛成するものの、それにあまりに重点を置いてしまうと、同時に生じているような意図しない対人間の影響に比べて、それが超越した力を持っていると過大評価してしまう」と述べている(5)。