2012年9月23日日曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (2)

ニューラルネットワークと自律性

脳をニューラルネットワークとして捉えた場合に、それが示唆することは大きい。しかしそれでも永久に解決しない問題がある。それは意識とは何か、というテーマだ。「意識のハードプロブレムhard problem of consciousness」(チャーマーズ)と言われる通り、私たちの意識が生まれる課程は現在のいかなる脳科学を持ってしても十分に説明されつくすことはあり得ない。ただそのハードプロブレムに一歩近づくヒントは与えられるように思う。それは巨大なニューラルネットワークはそれ自身が、意識を析出するという性質を持っているということだ。マインドタイムのBLの実験を思い出していただきたい。指を動かそうとする意思は、それを意識する0.5秒前にどこかで作られた。それはニューラルネットワークにおいて、としか言いようがないだろう。なぜなら脳波とは、ネットワークを流れる信号の存在を証拠づけているからだ。すると意識とはニューラルネットワーク内の活動の帰結といっていい。そしてその意識がどれだけ複雑で、重層的はそのネットワークの緻密さによるのである。そのことは自然界に存在する様々な動物において観察される意識の存在と、それを生み出す中枢神経系の複雑さとの関係から容易に想像できることだ。
 ところでこのハードプロブレムの一番難しい部分は、意識が主観的な体験であること、すなわち外部から証明できないということである。この事は例えば次のような疑問を思い浮かべればいい。昆虫に意識はあるだろうか? あるいはネズミに意識はあるだろうか? 昆虫となると精巧なロボットと似ているから意識がなくてもいい、という人がいるだろう。しかしペットとしても飼えるくらいの知能を有するネズミなら、いかにも意識を持っていそうに思える。それが犬ともなると、確実に持っていると普通なら考えるだろう。感情も表現するし、意志も持っているようだし、性格もそれぞれの犬ごとに違うのだから・・・・。しかし問題はそれを証明の仕様がないのである。言葉が話せないからだろうか? 否、お互いに言葉を交わせる人間でさえ、相手が自分自身が持っているような意識を有するということを究極的に証明する方法はないのだから。 
 そこでひとまず意識の問題をニューラルネットワークの有する自律性という問題に置き換えるというのが私の提案だ。自律性とは、それがあたかも独自の意図を持っているかのごとく振る舞うという意味だ。この「かのごとく」がミソである。そのように見えるのであれば、もう自律性と呼んでいい。それでも昆虫なら、精巧なロボットが外界の刺激による反射と本能としてプログラムされた行動と、そして後は内部のランダム表か何かにより動いているのと変わらないように思えるかもしれない。しかしネズミや犬となると、はっきりした意図を持っているかのごとく見える。だからそこに自律性を認めてもいいのだ。そしてそれこそはニューラルネットワークの産物と呼んでいいものなのである。なぜなら生物の自律性こそは、その有する中枢神経系の複雑さとまぎれもなく対応しているからである。それでは改めて意識とは何か。意識はその自律性を持ったネットワークが、錯覚として体験することに他ならない、というのが私の見解だが、これには同様の意見がすでにある。それが以下に述べる前野隆司氏の説である。


前野隆司氏の「受動意識仮説」
 慶応の前野隆司先生による「受動意識仮説」について、彼の代表的な著書(脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説前野隆司 () 筑摩書房、2004年)をもとにして簡単にまとめるならば次のようになる。

 どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方は、私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、いわば錯覚によりそのような能動的な体験として感じられているだけである、というのだ。
 前野氏の心の理論を一言で言うと、それはニューラルネットワークは「ボトムアップ」のシステムであるということだ。(ここで何がトップでボトムか、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、と考えてよいだろう。)
 巨大なニューラルネットワークとしての脳では、無数のタスクが同時並行的に行われている。それらは各瞬間に新しいものを生み出している。それを私たちの意識は受け取っているだけなのにもかかわらず、自分が能動的に生み出していると錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる「トップダウン」式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官としての意識などはどこにもいないことになる。

2012年9月22日土曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (1)


 精神科医として仕事をし、人の心について考える機会が多いこともあり、私には私なりに、「脳の働きはこんな風になっているのだろう」というという大体の感覚を持っている。もちろん仮説的なものだし、詳細は全然わからない。ただ全体の輪郭がある程度はぼんやりとつかめている気がする。
 この感覚は宇宙についての感覚と似ているかもしれない。宇宙にはなぞが多く、知れば知るほどわからないことが出てくる。しかし物理学の進歩によりある種のイメージ、何がわからないのかも含めた輪郭のようなものを私たちは持つにいたっている。
ニューラルネットワークとは? 
さて脳の話であるが、一つ確かなことは、それは巨大な神経のネットワークであるということだ。脳全体で1000億とも言われる神経細胞が、他の数多くの神経細胞と連絡している。それにより成立している巨大ネットワーク。それをニューラルネットワークとよぶ。現在では脳のあり方をとらえる図式として、現代ではこのニューラルネットワークモデルが非常に注目されている。
 このニューラルネットワークモデル、仮説というよりは現実の脳の姿そのものを表していると言える。脳の構造を知るための様々な技術が進歩するにつれ、神経細胞のネットワークとしての脳の現実的なあり方が、徐々に解明されつつあるのだ。もちろん神経細胞の一つ一つの連携を見ることはおよそ不可能ではあるが、その輪郭を追う手立ては少しずつ整っている。一つは「拡散テンソル画像 diffusion tensor imaging」という手法で、神経細胞を結ぶ神経繊維の中を動く水分子に焦点を当て、マッピングするという。すると以下のような画像が得られる。脳を中央から切断した際の輪郭をこれに重ね合わせていただきたい。虹色の繊維のようなものが見えるが、これは神経線維の走っている方向をわかりやすく色づけしたものである。その細い繊維の一本一本が、神経細胞から発しているということになる。




      http://committedparent.wordpress.com/2008/08/15/on-neuro-gastro-integration/

 ただしこれではネットワークという印象は得られないかもしれない。それでは大脳皮質にある神経細胞間の結びつきを、これらのDTIの画像から割り出すことは出来ないか? 実はそのようなテーマを研究する「コネクトミックスconnectomics」と呼ばれている学問の分野がすでにできている。そして研究により次第に分かってきたのは大脳の後部内側に一つのネットワークのセンターが存在し、それが左右半球にまたがっているということである。
 この分野で最近インディアナ大学とオランダのチームが画期的な論文を発表した。それが2011年11月2日に出版されたThe Journal of Neuroscience,にであり、それに掲載された画像が素晴らしいので紹介する。

 この研究は 21人の脳の活動のMRI画像から得られたという。これを見る限り脳には沢山のハブがあることがわかる。そしてその中でも12のハブが特に多くの情報をお互いに交換する。それらは、左右の上前頭皮質、上側頭皮質、そして皮質下の海馬や視床などである。これらを著者たちは「お金持ちクラブ」と呼び、脳の情報網はこの12のハブを中心に行われるという。(van den Heuvel, MP and Sporns, O : Rich-Club Organization of the Human Connectome. The Journal of Neuroscience, 2 November 2011, 31:15775-15786)
 このようなネットワーク上に生じていることは、極めて複雑で錯綜していると想像できる。それを地球を人間の脳にたとえて考えてみよう。一人ひとりが神経細胞の一つ一つに相当すると考えるのだ。地球上の人口100億足らずと1000億の神経細胞とはオーダーとしてはあまり変わらないとしよう。そしてそれぞれの人が何人かとメールや電話で通信をしているような状態が、多くの神経細胞との間にネットワークを築いている個々の神経細胞のあり方ということになる。すると人々が生み出す噂、流行、地方の集会やデモ行進などは、その規模が小さい場合には世界的レベルではほとんど無視される。しかし例えば国同士の戦争とかオリンピックとかアメリカの大統領選挙、ということになると世界レベルでの話題となる。するとそれがCNNなどのニュースに流され、それが「意識される内容」と考えることが出来るかもしれない。
 そして個々の人々の中には、圧倒的な影響力や情報発信能力を持つ人が現れるだろう。一国の大統領や映画俳優やサッカー界のヒーローなど。それらの人々の発言はすぐにニュースになるだろう。それが先ほどの研究に出てくる「お金持ちクラブ」のメンバーということになる。

2012年9月21日金曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか?-心理士への教訓


養老孟司先生の「バカの壁」(新潮新書、2003年)にこんなくだりがある。
「たとえば容易に想像できるのは、仮に犯罪者の脳を調べて、そこに何らかの畸形が認められた場合、彼をどう扱うべきか、という問題が生じてきます。連続幼女殺害犯の宮崎勉は3回も精神鑑定を受けている。彼の脳のCTをとってみればわかることだってあるのではないか。」「ところが、司法当局、検察はそれをやるのを非常に嫌がります。なぜならこの手の裁判は、単に彼を死刑にするという筋書きのもとに動いているものだからです。延々とやっている裁判は、結局のところある種の儀式に近い。そこに横から、CT云々といえば、心神耗弱で自由の身ということに繋がるのではないか、という恐れがある。だから検察は嫌がる。」(p150151
この養老先生の記述を読んで、心理士の方々はどのように感じるだろうか。その多くはこの検察官たちのような心境にあると自覚するだろう。凶悪犯を非難の目を持ってみることは心理士も一般人も変わりない。なぜならサイコパスや連続殺人犯は普通心理士のオフィスを訪れてセラピーを受けるということはほとんどあり得ないからである。心理士が扱うのは主として、サイコパスやその傾向を持った人々の犠牲者である場合の方が、はるかに多いだろう。
 無論心理士の中には、少年鑑別所の鑑別技官という立場にある人もいるだろう。彼らは「鑑別面接」を行う中で、「少年を明るく静かな環境において、少年が安んじて審判を受けられるようにする」ために働く(少年鑑別所処遇規則
(昭和二十四年五月三十一日法務庁令第五十八号))。技官にとっては凶悪な罪を犯した少年も患者に接するようにして扱う必要が生じるために、その一部を占めるであろう若いサイコパス達に対する態度もおのずと一般の心理士とは異なる可能性がある。しかしそのような特殊な状況にない限り、心理士にとってはサイコパスたちをを社会の敵であり、同時に患者たちにとっての敵、として扱うことになるだろう。
 しかしこれはダブルスタンダード(一方のみを差別的に扱うこと)ではないのか?サイコパスも脳の障害の犠牲者ではないのか?精神障害の犠牲者を一方で援助しながら、サイコパスを社会の敵とみなすのは矛盾はしていないだろうか? サイコパスたちの脳の形態異常について知った私たちが考えなくてはならないのは、この問題である。
 サイコパスは脳の障害を持った人である、という認識は、実は私たちにとっても、臨床家にとっても非常に不都合なものである可能性がある。というのも私たちが持っている勧善懲悪の観念の根拠を奪ってしまうからだ。社会正義を考える場合、他人に害悪をもたらす人々、つまり「悪い人々」を想定せざるを得ない。それらの人々が罪を犯した場合、それに見合う懲罰を与える、つまり「懲らしめる」というシステムなしに成立する社会を私たちは知らない。その場合、その悪い人の犯罪は、その人がそれが他人を害したり法を犯したりすることを十分知った上で、それを故意に選択したということが条件となる。そうでないと私たちはその人を罰することに罪悪感を覚えてしまうからだ。 さてそこにサイコパスが登場する。彼は「私はこの人をいたぶって殺すことを選択しました。私は狂気に襲われたのではありません。私は正気でそれを行ったのです。」ところがその人の脳のMRI画像を取ってみると、その一部がしっかり委縮しているのである。彼は生まれつきの脳障害の結果として残虐な犯罪行為に及んだのだろうか。だとしたら私たちは彼を「悪人」として断罪できるのだろうか?  そのような典型例が、2011年にノルウェーで数十人の人々を殺戮して世界を震撼させたアンネシュ・ブレイビクである。彼は自分は正気だと言って心神耗弱として精神病院に送られることに強硬に抵抗を示しているという。彼が受けた二つの精神鑑定が全く別の結果であったこともまた深く考えさせる。一つは統合失調症、もう一つは正気。つまり後者はブレイビクの意見に一致している訳だ。しかし彼の脳の画像をもし取ったとしたら、かなり怪しいであろう。  幸いなことに、サイコパスたちが心理士のもとを治療に為に訪れることはまずないと言っていい。もし私の病気を治してほしい、と言ってきたサイコパスがいたとしたら、おそらく彼は本当の意味ではサイコパスではないのである。だから心理士はサイコパスたちを「悪人」として扱うことをやめなくても当面は不都合はない。サイコパスの犠牲者たちの心理療法に専念すればいいのである。しかし精神医学者は、脳科学者は、とくにforensic psychiatsirst (司法精神医学者)たちは、彼らが病者として扱われるべきかどうかについて頭を悩ませることになるのだろう。
最後に一言。サイコパスの脳の異常の問題は、心理士が患者を受け入れるとはどういうことかについても疑問を投げかける。目の前の患者がサイコパスではないとしても、実は心理士にとって道義的に許されないような過去を持っていたら。近親者に暴力を振るい、あるいは犯罪行為に走り、反省の色が見えないとしたら。それらの行動を起こす患者に、治療者はどこまで共感の糸を保つことが出来るのだろうか?あるいは共感の限界を示すことが治療なのか・・・・?
考えるべき素材は尽きないのである。

2012年9月20日木曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか? (4)

私たちの中のサイコパス?

ところでサイコパスに興味を持つ人にとって必読の書がある。それがロバート・ヘアという心理学博士の「診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち」という本でわが国でも翻訳が出ている。(「診断名サイコパス―身近にひそむ異常人格者たち」 (ハヤカワ文庫NF) ロバート・D. ヘア Robert D. Hare 早川書房 2000-08)ヘアはこの世界の大家で、彼の著作はサイコパスという概念が一般に知られることに大きな貢献をしたが、若干それが行き過ぎだったという批判もあるという。それは、サイコパスが私たちの生活で出会う人の中に数多く存在するという印象を与えすぎたというわけだ。

彼はあるインタビューで答えている。http://healthland.time.com/2011/06/03/mind-reading-when-you-go-hunting-for-psychopaths-they-turn-up-everywhere/ それによれば、サイコパスは一般人の100人に一人だが、ビジネスリーダーたちに限ってみると、四倍に跳ね上がるという。確かに彼らは有能であればあるほど、一定の能力にたけていることになるのかもしれない。それは利益を追求し、必要とあれば一気に何千人もの従業員を解雇して路頭に迷わせることが出来る能力である。事実サイコパステストには、ビジネスに関しては「正解」なものも多いという。いわば資本主義ではサイコパス的にふるまえばふるまうほど利益があげられるということらしい。これについてはたとえば日本でのオレオレ詐欺の現状を考えてみよう。あれほど巧妙にやればやるほどもうかる商売はないと言える。

これについては、最近興味深いニュースが伝えられたことをご存知の方もいるかもしれない。

「勝ち組」はジコチュー? 米研究者ら実験で確認

 お金持ちで高学歴、社会的地位も高い「勝ち組」ほど、ルールを守らず反倫理的な振る舞いをする――。米国とカナダの研究チームが、延べ約1千人を対象にした7種類の実験と調査から、こう結論づけた。28日の米科学アカデミー紀要に発表する。
 実験は心理学などの専門家らが行った。まず「ゲーム」と偽って、サイコロの目に応じて賞金を出す心理学的な実験をした。この結果、社会的な階層が高い人ほど、自分に有利になるよう実際より高い点数を申告する割合が多かった。ほかに、企業の採用面接官の役割を演じてもらう実験で、企業側に不利な条件を隠し通せる人の割合も、社会的階層が高い人ほど統計的に有意に多かった。別の実験では、休憩時に「子供用に用意された」キャンディーをたくさんポケットに入れる人の割合も同じ結果が出た。 (朝日新聞デジタル、2012228)http://www.asahi.com/science/update/0228/TKY201202270655.html

もちろんこれらのキャンディー好きがサイコパスだとは言えないだろう。しかしおそらく「プチ・サイコパス」と考えてもいいのかもしれない。物事には程度がある。サイコパスにも「ちょいワル」程度から連続殺人犯までのスペクトラムがあるはずだ。その中でかなりの部分が、社会的な成功者の中に見られてもおかしくない。
ブログで書くのがふさわしいかはわからないが、二か月前に週刊文春で話題になった某大物政治家の妻の手記のことを私は思い出す。私は前から彼の人格ことが気になっていたが、やっぱりか、という感じである。政治の世界もまたサイコパス率が高いのかもしれない。ここで皆さんは気になるかもしれない。彼らもまた脳に異常があるのだろうか? 「立候補するに当たっては、内側前頭前野と側頭極の大きさが一定以上であることが条件とされます」なんちゃって。 

サイコパスは治療可能か?

ところでサイコパスは生まれつきの脳の障害であるとしたら、それを治療するという試みはおよそ意味がないことにはならないだろうか? しかし現在のように脳の画像技術が発達していない時代には、彼らを真剣に「治療」しようという試みが少なからずあった。
 1960年代にアメリカのある精神科医が実験を行ったという。彼が考えたのは、「サイコパスたちは表層の正常さの下に狂気を抱えているのであり、それを表面に出すことで治療するべきだ」ということだった。その精神科医は「トータルエンカウンターカプセル」と称する小部屋にサイコパスたちを入れて、服をすべて脱がせ、大量のLDSを投与し、お互いを革バンドで括り付けたという。そしてエンカウンターグループのようなことをやったらしい。つまり心の中を洗い出し、互いの結びつきを確認しあい、涙を流し、といったプロセスだったのだろうと想像する。そして後になりそのグループに参加したサイコパスたちの再犯率を調べると、さらにひどく(80%)になっていたという。つまり彼らはこの実験により悪化していたわけだ。そこで彼らが学んだのは、どのように他人に対する共感を演じるか、ということだけだったという。
サイコパスの問題は、オキシトシンともアスペルガーともつながる
 この一般人の持つサイコパス傾向の問題は、これまでに論じたオキシトシンの話とも、アスペルガー障害の話とも、そして話を複雑にして申し訳ないが、ナルシシズム(自己愛)との問題とも複雑に絡み合っている。要は他人の心、特に痛みを感じる能力の欠如に関連した病理をどうとらえるか、ということになる。ここに列挙された状態はいずれも男性におきやすいということになるが、そこで想像できる最悪の男性像は目も当てられない。まず発達障害としてアスペルガー障害を持ち、内側前頭皮質の容積が小さく、そしてオキシトシンの受容体が人一倍少なく、しかも幼少時に虐待を受けていて世界に対する恨みを抱いているというものだろう。しかしそれだけでは足りない。彼は同時に生まれつき知的能力に優れ、または何らかの才能に恵まれていて、あるいは権力者の血縁であるというだけで人に影響を与えたり支配する地位についてしまった場合などうだろうか。まさに才能と権力と冷血さを備えたモンスターが出来上がるわけだが、歴史とはこの種の人間により支配されていたという部分が多いのではないか。ヒトラーは、信長はどこまで重なっていたのだろうか? いずれにせよ私は再びいつもの嘆息を漏らすしかない。「男は本当にどうしようもない・・・・・」

2012年9月19日水曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか? (3)

そもそもASPDとは?サイコパスとは?

 そろそろ言葉の説明が必要になってきた。これまでに殺人精神病、サイコパス、ASPD、犯罪者性格など、いろいろな言葉が明確な区別なしに登場しているからだ。またサイコパスについては、それを直訳した「精神病質」という表現もある。これらの言葉には混同や重複がみられ、また専門家の立場によっても使い分けの仕方が異なるのも確かだ。
 まずDSMという「バイブル」により比較的明確に定義されているASPDについて。改めて言うが、これはantisocial personality disorder の頭文字で、日本語では「反社会的パーソナリティ障害」のことである。DSMの診断基準によれば、彼らは暴力的で衝動的、うそをつき、社会的ルールを守ることが出来ず、人の気持ちに共感できない、という人々をさす。ちょっとお友達になりたくない人たち、過去にDVや犯罪歴を持っていそうな人たちである。

 ではサイコパスとは?一般的な定義からすれば、衝動的で人の気持ちに共感できず、他人に対して残忍な行為を行う・・・・。何かASPDとあまり変わりがない。しかし歴史的にはASPDよりずっと古いのがサイコパスの概念である。本家本元はこちらの方だ。昔からmoral insanity「道徳的な狂気」と称されていたものがこれである。精神医学の世界では、統合失調症や躁うつ病などが明確に定義される前から、犯罪を犯すような人たちをひとまとめにする概念が成立していた。おそらく社会にとっては害悪を及ぼす人たちをいち早くラベリングする必要性があったからだろう。それがサイコパスである。
 サイコパスとはもちろん外来語であり、正確にはpsychopathy、あるいはsociopathy という表現が用いられ、日本ではシュナイダーの概念である「情性欠如者 gemutlose」という言い方も同義として扱われた。他方のASPD1980年のDSM-IIIから登場し、「犯罪を犯したり人に暴力をふるう人たち」一般のプロフィールを代表したようなところがある。
 さてこれら両者の区別であるが、事実サイコパスという用語はしばしばASPDと混同して用いられる傾向があるし、ICD-10のように両者を同列に扱う基準もある。しかし一般的にはASPDが行動面から明らかな所見に留まるのに対して、サイコパスはさらに内面的な特徴、たとえば罪悪感の欠如や冷酷さなどに重きが置かれている。だからあえて両者を区別する際は、サイコパスの方がより深刻でより深い病理を差すというニュアンスがある。つまりASPDの中でより深刻な人たちがサイコパス、という理解の仕方が一応可能であろう。
 そこで以下にサイコパスという表現に絞って論じよう。サイコパスの最大の特徴は冷酷さであると考えられる。より年少から罪を犯し、より重層的な犯罪行為にかかわり、行動プログラムに反応をしないという。彼らは痛みによる処罰などにも反応せず、平然としているために行動療法的なアプローチがそもそも極めて難しいという問題がある。

サイコパスたちを責めることが出来るのか?
 さてここまで述べるとだいたい私の趣旨がわかってもらえるだろう。福島氏の殺人者精神病は、このサイコパスのプロフィールと重なる部分があるのである。ただし一回限りの、出来心での殺人ではなく、本人の生来の冷酷な性格の帰結として殺人を犯してしまった人たちこそが、サイコパスの基準を満たすと考えるべきである。そしてそこには脳の形態上の異常が見られるということであった。その異常として福島が指摘したのはかなり多岐にわたる以上であったが(クモ膜嚢胞、孔脳症、小回転症、脳室・脳溝の拡大や左右差など)、ブラックウッドらの詳細な研究によれば、それが内側前頭皮質と側頭極の灰白質の容積の小ささ、という形でさらに特定されている。
この様にサイコパスたちが持つ冷酷さや非共感性などは、彼らが生まれつき持っていた脳の異常のせいということになるが、実はこの問題は、私たちを深刻な混乱に導きいれる可能性がある。もしサイコパスたちが脳に障害を負った犠牲者、被害者だとしたら、私たちは彼らがおかす様々な犯罪について、それを彼らの責任に帰することはできるのだろうか? それは生まれつきさまざまなハンディキャップを担った人たちを責め、罪を問うて社会から隔離することとどう違うのだろうか? もちろんこれに答えはないが、極めて重要な課題を投げかけていることだけは確かである。

2012年9月18日火曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか? (2)

ロンブローゾは時代の先取りをしていた?

福島氏の「殺人精神病」はしかし、改めて私たちに殺人者たちの脳の異常についての関心を呼び起こす。殺人が「病気」であるかは別として、殺人を犯しやすい人々(私が本章で「サイコパス」と呼ぶ人たちの脳に何らかの異常所見がみられるということは今では定説になっている。しかしこれはかなり最近の話である。以前は犯罪者には身体的な特徴があるという説は偏見扱いされていた。その節の一つを紹介しよう。ロンブローゾの説である。
ある意味で革新的だった?Lombroso 先生
 
  チェーザレ・ロンブローゾ(Cesare Lombroso18351909)は19世紀のイタリアの精神医学者である。私が精神科医になったころは、ロンブローゾの説は一種の「トンでも」扱いされていた。犯罪を犯す人たちには脳の形に異常があるという彼の説は、この上もない偏見とみなされていたのである。彼は『天才と狂気(Genio e follia1864)』で骨相学人類学遺伝学などを駆使して、人間の身体的な特徴と犯罪との相関性を調べたという。彼は膨大な数の犯罪者の頭蓋骨を調べ、また数多くの受刑者の風貌や骨格を調べて、彼らには一定の身体的・精神的特徴(Stigmata)が認められる」とした。ちなみにこのStigmata とはヒステリーの概念にも用いられた、かなり偏見に満ちた用語である。以下にちょっと安易だが、日本版ウィキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki)の「チェーザレ・ロンブローゾ」の項目の中から引用する。
「ロンブローゾは身体的特徴として「大きな眼窩」「高い頬骨」など18項目を、また精神的特徴として「痛覚の鈍麻」「(犯罪人特有の心理の表象としての)刺青」「強い自己顕示欲」などを列挙した。彼によれば、これらの特徴は人類よりもむしろ類人猿において多くみられるものであり、人類学的にみれば、原始人の遺伝的特徴が隔世遺伝(atavism)によって再現した、いわゆる先祖返りと説明することができる。」

  もちろん依然として問題の多いロンブローゾの説ではあるが、極端な形ではあれ、現在の議論の先取りをしていたということにもなろう。というのも脳の形態学的特徴に関するデータは、現在さまざまな精神疾患に関して調べられるようになってきているからである。

サイコパスと脳の異常の関係
 最近ロイター通信が次のようなニュースを伝えている。http://www.reuters.com/article/2012/05/07/us-brains-psychopaths-idUSBRE8460ZQ20120507
Study finds psychopaths have distinct brain structure (サイコパス(精神病質)たちが特異な脳構造をしているという研究)”
  この記事のさわりを私なりにちょっと訳してみよう。
「殺人やレイプや暴行により起訴された人々たちの脳のスキャンにより、サイコパスたちは特異な脳の構造を有していることがわかったという。ロンドンキングスカレッジの精神医学研究所のブラックウッドらの研究によると、そのような所見は彼らをその他の暴力的な犯罪者とも区別するほどだそうだ。それが内側前頭皮質と側頭極である。これらの部位は、他人に対する共感に関連し、倫理的な行動について考えるときに活動する場所といわれる。サイコパスたちの脳は、これらの部分の灰白質(つまり脳細胞の密集している部分)の量が少ないという。こうなると認知行動療法的なアプローチもできないことになる。ちなみにこのことは司法システムとも関連してくる。というのはこれらの人々を脳の異常であるとしることで、これらの犯罪者が心神耗弱ということで無罪放免にされてしまう可能性があるからだという。」
 
  ブラックウッドの研究をもう少し見てみる。MRIを用いた研究では、44人の暴力的な犯罪者を対象としたが、そのうち17人がASPD(反社会性パーソナリティ障害)プラスサイコパスの基準を満たし、あとの27人は満たさなかったという。それを22人の正常人と比べると、サイコパスたちにおいては、例の二つの場所の灰白質の量が顕著に減っていたというのだ。ちなみにこれらの部位がおかされると他人に対する共感をもてなくなり、恐れに対する反応が鈍くなり、罪悪感とか恥ずかしさなどの自意識感情を欠くことになる。

2012年9月17日月曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか? (1)

「殺人精神病」という概念

狂気にはいろいろある。しかし一部の殺人者の陥る狂気ほど恐ろしく、有害なものはない。たとえば私たちの記憶に新しいものでは今年の6月にあった事件。610日午後1時ごろ、大阪の心斎橋の路上で二人を刺し殺した男が吐いた言葉。「(自分では)死にきれず、人を殺してしまえば死刑になると思って刺した」。これほどに救いがたく絶望的な狂気があるだろうか。
  この章ではいわゆるサイコパス、あるいは犯罪者性格者たちの脳の異常について論じるが、文章中に出てくるサイコパス、犯罪者性格、反社会性格などについての言葉の定義は後回しにして、まず殺人を犯した人たちについての話から始める。
  わが国を代表する精神医学者の一人、福島章氏の著作に「殺人という病」(金剛出版、2003年)がある。彼は数多くの殺人者の精神鑑定を通して、殺人行為はそれだけで一種の疾患単位を形成するのではないか、という考えに至ったという。それがこの著書の趣旨である。殺人という、多くの場合は一回限りの行為を症状とした病気がありうるのかは難しい問題であろう。そのせいか専門家の間でも必ずしも福島氏のこの概念は評価が定まっていないようである。しかし私はこの本に愛着を持っている。
 福島章氏がこの本に先立って書いた論文「殺人者の脳と人格障害」(こころの科学 92000p. 6165) は私にはとても印象深かったことを思い出す。この論文で福島氏が語っているのは、彼自身がこの考えに至った経緯である。もともと精神分析や甘え理論に関連した犯罪者の論考を書いていた同氏は、ある意味では「文系」だったのだが、その考えが大きく変わったのが、その間に発達したCTMRIなどの画像診断であったという。「殺人者の半数以上に脳の形態異常があるのに比べて、殺人以外の犯罪者のそれは14%にすぎない・・・・。」この事実に愕然とした福島氏は殺人者の脳の異常という問題に興味を移していく。

 私が特に感銘を受けたのは、本来は精神病理学や精神分析、天才の研究、文化論など脳とは無縁の分野に関心を向けていた氏が、画像診断や脳波などの示すものに率直に影響を受け、ある意味では極端な器質論者と見られかねない立場をとるようになったことである。自分のこれまでの研究分野を離れて新しい知見を取り入れて方向転換するということは、いったんある分野で名を成した大家にとっては極めて難しいことなのだ。老大家たちが学問の世界に及ぼす弊害のひとつは、彼らが若いころに得た名声と影響力のままで、新しい知見に頑強に抵抗し、若い人々を惑わし続けることなのだ。宇宙は拡張し続けるという意までは常識である概念に、最後まで反対し続けたアインシュタインのように。
  それはともかくとして、もう少し福島先生の説に耳を傾けよう。以下は「殺人という病」からの引用を用いる。彼は従来の「主として心理―社会的次元の要因だけを考える従来のような記述的な研究だけでは不十分で、脳という生物学的な要因を十分に考慮し、生物―心理―社会的要因を総合する考察」が必要であるとする(p7)。さらに殺人者の精神鑑定ではしばしば鑑定医により診断がまちまちであることをあげ、むしろ殺人者精神病 murderer's insanityという概念を提唱する。そしてその主症状は殺人行為である、という。
 私の理解が浅いかもしれないが、この殺人精神病という概念は、トートロジカル(同語反復的)なところが問題なようである。「殺人を犯す人の生活史はバラバラで、反社会的な人はその一部にすぎない。いわば彼らは殺人をするという共通した症状を持つのだ。」つまり「殺人者は殺人という症状を持つ病気だ」。これでは殺人を犯した人の示すほかの症状や生活史上の特徴のも共通性を見出し、一つの疾患概念として抽出するというプロセスを無視した、いわば自明で中身が薄い疾患概念ということになる。「彼はどうして殺人を犯したのでしょう?」「殺人精神病だったからです。以上おしまい。」
  ちなみに私はこの「殺人精神病」の概念は、殺人を常習としている人には成立しうると考える。いわゆる連続殺人犯である。殺人を「症状」として抽出するためには、それがその人にとってパターン化していることが必要だからだ。しかし多くの殺人犯はそうではない。平成22年の犯罪白書によれば、殺人の6.3%が同種重大事犯、すなわち殺人を犯した者によるという。また殺人者の粗暴犯(暴行傷害脅迫恐喝凶器準備集合)の再犯率は5.5%であるという。もちろん殺人の後は刑務所に入る期間が長く、再犯の可能性がそれだけ低くなるなるのであろうが、それにしても多くの殺人事件に常習性はないと考えることが出来る。
 極端な例かもしれないが、リストカットを繰り返す人にリストカット症候群という診断を考えたとしても、過去にリストカットを一回行なっただけの人にその診断をあてはめることはできないだろう。殺人精神病にはそのようなニュアンスがある。