2012年9月23日日曜日

第5章 ニューラルネットワークとしての脳 (2)

ニューラルネットワークと自律性

脳をニューラルネットワークとして捉えた場合に、それが示唆することは大きい。しかしそれでも永久に解決しない問題がある。それは意識とは何か、というテーマだ。「意識のハードプロブレムhard problem of consciousness」(チャーマーズ)と言われる通り、私たちの意識が生まれる課程は現在のいかなる脳科学を持ってしても十分に説明されつくすことはあり得ない。ただそのハードプロブレムに一歩近づくヒントは与えられるように思う。それは巨大なニューラルネットワークはそれ自身が、意識を析出するという性質を持っているということだ。マインドタイムのBLの実験を思い出していただきたい。指を動かそうとする意思は、それを意識する0.5秒前にどこかで作られた。それはニューラルネットワークにおいて、としか言いようがないだろう。なぜなら脳波とは、ネットワークを流れる信号の存在を証拠づけているからだ。すると意識とはニューラルネットワーク内の活動の帰結といっていい。そしてその意識がどれだけ複雑で、重層的はそのネットワークの緻密さによるのである。そのことは自然界に存在する様々な動物において観察される意識の存在と、それを生み出す中枢神経系の複雑さとの関係から容易に想像できることだ。
 ところでこのハードプロブレムの一番難しい部分は、意識が主観的な体験であること、すなわち外部から証明できないということである。この事は例えば次のような疑問を思い浮かべればいい。昆虫に意識はあるだろうか? あるいはネズミに意識はあるだろうか? 昆虫となると精巧なロボットと似ているから意識がなくてもいい、という人がいるだろう。しかしペットとしても飼えるくらいの知能を有するネズミなら、いかにも意識を持っていそうに思える。それが犬ともなると、確実に持っていると普通なら考えるだろう。感情も表現するし、意志も持っているようだし、性格もそれぞれの犬ごとに違うのだから・・・・。しかし問題はそれを証明の仕様がないのである。言葉が話せないからだろうか? 否、お互いに言葉を交わせる人間でさえ、相手が自分自身が持っているような意識を有するということを究極的に証明する方法はないのだから。 
 そこでひとまず意識の問題をニューラルネットワークの有する自律性という問題に置き換えるというのが私の提案だ。自律性とは、それがあたかも独自の意図を持っているかのごとく振る舞うという意味だ。この「かのごとく」がミソである。そのように見えるのであれば、もう自律性と呼んでいい。それでも昆虫なら、精巧なロボットが外界の刺激による反射と本能としてプログラムされた行動と、そして後は内部のランダム表か何かにより動いているのと変わらないように思えるかもしれない。しかしネズミや犬となると、はっきりした意図を持っているかのごとく見える。だからそこに自律性を認めてもいいのだ。そしてそれこそはニューラルネットワークの産物と呼んでいいものなのである。なぜなら生物の自律性こそは、その有する中枢神経系の複雑さとまぎれもなく対応しているからである。それでは改めて意識とは何か。意識はその自律性を持ったネットワークが、錯覚として体験することに他ならない、というのが私の見解だが、これには同様の意見がすでにある。それが以下に述べる前野隆司氏の説である。


前野隆司氏の「受動意識仮説」
 慶応の前野隆司先生による「受動意識仮説」について、彼の代表的な著書(脳はなぜ「心」を作ったのか―「私」の謎を解く受動意識仮説前野隆司 () 筑摩書房、2004年)をもとにして簡単にまとめるならば次のようになる。

 どうして私が私であって、私でなくないのか、どうして私が意識を持っているのか、などは、哲学の根本的問題であり、いまだに解決しているとはいえない。ただひとつのわかりやすい答えの導き方は、私たちの意識のあり方が極めて受動的なものであり、私が意図的に思考し、決断し、行動していると思っていることも、私たちがある意味で脳の活動を受動的に体験していることが、いわば錯覚によりそのような能動的な体験として感じられているだけである、というのだ。
 前野氏の心の理論を一言で言うと、それはニューラルネットワークは「ボトムアップ」のシステムであるということだ。(ここで何がトップでボトムか、というのは難しい問題だが、トップとは意識的な活動、つまり五感での体験や身体運動であり、ボトムとは、それを成立させるような膨大な情報を扱う脳のネットワーク、と考えてよいだろう。)
 巨大なニューラルネットワークとしての脳では、無数のタスクが同時並行的に行われている。それらは各瞬間に新しいものを生み出している。それを私たちの意識は受け取っているだけなのにもかかわらず、自分が能動的に生み出していると錯覚しているだけ、ということになる。そしてこの考え方は、いわゆる「トップダウン」式の考え方とは大きく異なる。つまり上位にあり、すべての行動を統率している中心的な期間、軍隊でいえば司令部、司令官としての意識などはどこにもいないことになる。