2012年9月21日金曜日

第4章 サイコパスは「異常な脳」の持ち主なのか?-心理士への教訓


養老孟司先生の「バカの壁」(新潮新書、2003年)にこんなくだりがある。
「たとえば容易に想像できるのは、仮に犯罪者の脳を調べて、そこに何らかの畸形が認められた場合、彼をどう扱うべきか、という問題が生じてきます。連続幼女殺害犯の宮崎勉は3回も精神鑑定を受けている。彼の脳のCTをとってみればわかることだってあるのではないか。」「ところが、司法当局、検察はそれをやるのを非常に嫌がります。なぜならこの手の裁判は、単に彼を死刑にするという筋書きのもとに動いているものだからです。延々とやっている裁判は、結局のところある種の儀式に近い。そこに横から、CT云々といえば、心神耗弱で自由の身ということに繋がるのではないか、という恐れがある。だから検察は嫌がる。」(p150151
この養老先生の記述を読んで、心理士の方々はどのように感じるだろうか。その多くはこの検察官たちのような心境にあると自覚するだろう。凶悪犯を非難の目を持ってみることは心理士も一般人も変わりない。なぜならサイコパスや連続殺人犯は普通心理士のオフィスを訪れてセラピーを受けるということはほとんどあり得ないからである。心理士が扱うのは主として、サイコパスやその傾向を持った人々の犠牲者である場合の方が、はるかに多いだろう。
 無論心理士の中には、少年鑑別所の鑑別技官という立場にある人もいるだろう。彼らは「鑑別面接」を行う中で、「少年を明るく静かな環境において、少年が安んじて審判を受けられるようにする」ために働く(少年鑑別所処遇規則
(昭和二十四年五月三十一日法務庁令第五十八号))。技官にとっては凶悪な罪を犯した少年も患者に接するようにして扱う必要が生じるために、その一部を占めるであろう若いサイコパス達に対する態度もおのずと一般の心理士とは異なる可能性がある。しかしそのような特殊な状況にない限り、心理士にとってはサイコパスたちをを社会の敵であり、同時に患者たちにとっての敵、として扱うことになるだろう。
 しかしこれはダブルスタンダード(一方のみを差別的に扱うこと)ではないのか?サイコパスも脳の障害の犠牲者ではないのか?精神障害の犠牲者を一方で援助しながら、サイコパスを社会の敵とみなすのは矛盾はしていないだろうか? サイコパスたちの脳の形態異常について知った私たちが考えなくてはならないのは、この問題である。
 サイコパスは脳の障害を持った人である、という認識は、実は私たちにとっても、臨床家にとっても非常に不都合なものである可能性がある。というのも私たちが持っている勧善懲悪の観念の根拠を奪ってしまうからだ。社会正義を考える場合、他人に害悪をもたらす人々、つまり「悪い人々」を想定せざるを得ない。それらの人々が罪を犯した場合、それに見合う懲罰を与える、つまり「懲らしめる」というシステムなしに成立する社会を私たちは知らない。その場合、その悪い人の犯罪は、その人がそれが他人を害したり法を犯したりすることを十分知った上で、それを故意に選択したということが条件となる。そうでないと私たちはその人を罰することに罪悪感を覚えてしまうからだ。 さてそこにサイコパスが登場する。彼は「私はこの人をいたぶって殺すことを選択しました。私は狂気に襲われたのではありません。私は正気でそれを行ったのです。」ところがその人の脳のMRI画像を取ってみると、その一部がしっかり委縮しているのである。彼は生まれつきの脳障害の結果として残虐な犯罪行為に及んだのだろうか。だとしたら私たちは彼を「悪人」として断罪できるのだろうか?  そのような典型例が、2011年にノルウェーで数十人の人々を殺戮して世界を震撼させたアンネシュ・ブレイビクである。彼は自分は正気だと言って心神耗弱として精神病院に送られることに強硬に抵抗を示しているという。彼が受けた二つの精神鑑定が全く別の結果であったこともまた深く考えさせる。一つは統合失調症、もう一つは正気。つまり後者はブレイビクの意見に一致している訳だ。しかし彼の脳の画像をもし取ったとしたら、かなり怪しいであろう。  幸いなことに、サイコパスたちが心理士のもとを治療に為に訪れることはまずないと言っていい。もし私の病気を治してほしい、と言ってきたサイコパスがいたとしたら、おそらく彼は本当の意味ではサイコパスではないのである。だから心理士はサイコパスたちを「悪人」として扱うことをやめなくても当面は不都合はない。サイコパスの犠牲者たちの心理療法に専念すればいいのである。しかし精神医学者は、脳科学者は、とくにforensic psychiatsirst (司法精神医学者)たちは、彼らが病者として扱われるべきかどうかについて頭を悩ませることになるのだろう。
最後に一言。サイコパスの脳の異常の問題は、心理士が患者を受け入れるとはどういうことかについても疑問を投げかける。目の前の患者がサイコパスではないとしても、実は心理士にとって道義的に許されないような過去を持っていたら。近親者に暴力を振るい、あるいは犯罪行為に走り、反省の色が見えないとしたら。それらの行動を起こす患者に、治療者はどこまで共感の糸を保つことが出来るのだろうか?あるいは共感の限界を示すことが治療なのか・・・・?
考えるべき素材は尽きないのである。