狂気にはいろいろある。しかし一部の殺人者の陥る狂気ほど恐ろしく、有害なものはない。たとえば私たちの記憶に新しいものでは今年の6月にあった事件。6月10日午後1時ごろ、大阪の心斎橋の路上で二人を刺し殺した男が吐いた言葉。「(自分では)死にきれず、人を殺してしまえば死刑になると思って刺した」。これほどに救いがたく絶望的な狂気があるだろうか。
この章ではいわゆるサイコパス、あるいは犯罪者性格者たちの脳の異常について論じるが、文章中に出てくるサイコパス、犯罪者性格、反社会性格などについての言葉の定義は後回しにして、まず殺人を犯した人たちについての話から始める。わが国を代表する精神医学者の一人、福島章氏の著作に「殺人という病」(金剛出版、2003年)がある。彼は数多くの殺人者の精神鑑定を通して、殺人行為はそれだけで一種の疾患単位を形成するのではないか、という考えに至ったという。それがこの著書の趣旨である。殺人という、多くの場合は一回限りの行為を症状とした病気がありうるのかは難しい問題であろう。そのせいか専門家の間でも必ずしも福島氏のこの概念は評価が定まっていないようである。しかし私はこの本に愛着を持っている。
福島章氏がこの本に先立って書いた論文「殺人者の脳と人格障害」(こころの科学 9-2000、p. 61-65) は私にはとても印象深かったことを思い出す。この論文で福島氏が語っているのは、彼自身がこの考えに至った経緯である。もともと精神分析や甘え理論に関連した犯罪者の論考を書いていた同氏は、ある意味では「文系」だったのだが、その考えが大きく変わったのが、その間に発達したCTやMRIなどの画像診断であったという。「殺人者の半数以上に脳の形態異常があるのに比べて、殺人以外の犯罪者のそれは14%にすぎない・・・・。」この事実に愕然とした福島氏は殺人者の脳の異常という問題に興味を移していく。
私が特に感銘を受けたのは、本来は精神病理学や精神分析、天才の研究、文化論など脳とは無縁の分野に関心を向けていた氏が、画像診断や脳波などの示すものに率直に影響を受け、ある意味では極端な器質論者と見られかねない立場をとるようになったことである。自分のこれまでの研究分野を離れて新しい知見を取り入れて方向転換するということは、いったんある分野で名を成した大家にとっては極めて難しいことなのだ。老大家たちが学問の世界に及ぼす弊害のひとつは、彼らが若いころに得た名声と影響力のままで、新しい知見に頑強に抵抗し、若い人々を惑わし続けることなのだ。宇宙は拡張し続けるという意までは常識である概念に、最後まで反対し続けたアインシュタインのように。
それはともかくとして、もう少し福島先生の説に耳を傾けよう。以下は「殺人という病」からの引用を用いる。彼は従来の「主として心理―社会的次元の要因だけを考える従来のような記述的な研究だけでは不十分で、脳という生物学的な要因を十分に考慮し、生物―心理―社会的要因を総合する考察」が必要であるとする(p7)。さらに殺人者の精神鑑定ではしばしば鑑定医により診断がまちまちであることをあげ、むしろ殺人者精神病 murderer's insanityという概念を提唱する。そしてその主症状は殺人行為である、という。
私の理解が浅いかもしれないが、この殺人精神病という概念は、トートロジカル(同語反復的)なところが問題なようである。「殺人を犯す人の生活史はバラバラで、反社会的な人はその一部にすぎない。いわば彼らは殺人をするという共通した症状を持つのだ。」つまり「殺人者は殺人という症状を持つ病気だ」。これでは殺人を犯した人の示すほかの症状や生活史上の特徴のも共通性を見出し、一つの疾患概念として抽出するというプロセスを無視した、いわば自明で中身が薄い疾患概念ということになる。「彼はどうして殺人を犯したのでしょう?」「殺人精神病だったからです。以上おしまい。」
ちなみに私はこの「殺人精神病」の概念は、殺人を常習としている人には成立しうると考える。いわゆる連続殺人犯である。殺人を「症状」として抽出するためには、それがその人にとってパターン化していることが必要だからだ。しかし多くの殺人犯はそうではない。平成22年の犯罪白書によれば、殺人の6.3%が同種重大事犯、すなわち殺人を犯した者によるという。また殺人者の粗暴犯(暴行・傷害・脅迫・恐喝・凶器準備集合)の再犯率は5.5%であるという。もちろん殺人の後は刑務所に入る期間が長く、再犯の可能性がそれだけ低くなるなるのであろうが、それにしても多くの殺人事件に常習性はないと考えることが出来る。
極端な例かもしれないが、リストカットを繰り返す人にリストカット症候群という診断を考えたとしても、過去にリストカットを一回行なっただけの人にその診断をあてはめることはできないだろう。殺人精神病にはそのようなニュアンスがある。