2026年7月12日日曜日

甘え 推敲 6

 ここからはある意味での the making of Amae にお付き合いいただきたい。これなしではおそらく土居の甘え理論の真意を掴めないからだ。  話は土居が1950年に内科から精神科へ転向した時点にさかのぼる。土居は内科医として出発したが、そこで多くの内科の患者が神経症を抱えているのを知り、心の問題に興味を持ち、聖路加病院内の米国陸軍病院の図書館で「精神身体医学」についてむさぼり読み、これが自分の求めているものだと感じたという。そこで土居は米国留学のガリオア奨学金を獲得し、それを喜んだ古沢の推薦でメニンガーに2年間留学する。ちなみにこの時の体験が「甘えの構造」を各出発点となっている。そしてこの期間中にメニンガーに在職していたルドルフ・エクスタインの講義を受けて感化されるのだ。  留学中に土居は古沢からの誘いで「通信分析」を帰国するまで一年おこなう。 1952年に帰国した後は古沢から分析ではなくSV(監督分析)を受けたが、1954年より「暗礁に乗り上げ」「患者の治療上の技術に関しての意見の相違が起き」、さらに「もっと全面的な相違に発展した」という。 以上引用は「土居:われわれはどんな風に精神分析を学んできたか 精神分析研究 選集 1 Vo.5.No 6 1958」に見られる。  この時の土居と古沢の間の葛藤は詳しく語られていないが、ある意味では次の土居自身の言葉でその様子を垣間見ることは出来るのではないか。 「(古沢)先生は分析としての立場から私のこのような態度を分析的に理解し、同時に私をどこまでも容認しようとなされましたが、私にはそれがまた我慢できない事でありました。私はついに先生を離れて再び米国に留学し、かの地で始めから教育分析を受けてみようと決心するに至ったのであります。」(土居、精神分析研究 Vol.5₋6 1958) 「『自分が米国に行くのは、古沢先生の治療態度について、別の分析医との接触によって疑問を解くためだ』と言って(土居先生は)米国に旅立った。」(小此木 精神分析研究 選集 2 2005年 p112)

 ちなみに私は土居先生(急に「先生」付きになる)はこだわりがあり、頑固な人だったと思う。自分の主張に固執なさる。ある時土居先生は私が著作の中で「患者さん」という表現を用いているのを慇懃無礼だと仰った。それはそうかもしれない。しかしこれは一種の好みの問題であり、人それぞれではないだろうか。