土居によればこの関係はフロイトとフリース、フロイトとユングの関係とも同じ性質のものであるという。フロイトはフリースやユングに対して常に自分の主張が正しいという態度で接し、それについて弟子たちに異議を唱えられた際に、それは彼らのエディプスコンプレックスの問題だと突っぱねたわけだが、古沢も同じことをしたということなのだろう。 私がここで問題になるのはむしろ自己愛の問題ではないかと思うのは、以下の意味でである。土居の怒りを買ったのは、弟子や被分析者の分析者への批判に対して、それを完全に突っぱねるという古沢の態度に問題があったのだ。もう少し言えばこうだ。土居が古沢に「先生、ここはちょっと違うんじゃないですか?」と問うた時に古沢はそれを認めず、「だから君は分かっていない」とか「君の勉強不足だ」とでも言った可能性がある。あるいは怒る土居に対して「真実を受け入れるのはいつも大変なことだ。いずれキミもわかるだろう。それまで君がどんなに私を攻撃しても、私は一切それを意に介さない。それが分析家の務めだからだ」とでも言ったのではないだろうか? つまりは土居が本当に怒ったのは、解釈をし、それを理屈で説明してくるといった古沢の態度ではなく、それに対する反発を一切受け入れず、また自分を変えることをしなかったことに対する怒りではなかっただろうか。そう考えるととてもすっきりするのだ。 こう述べると、次の反論が予想される。「いや、もし古沢の側の自己愛の問題だとしたら、土居の反論にもっと激しく怒ったのではないか? 『弟子のくせに生意気だ!』という風に?」 私も確かにそう思う。それにもし古沢が泰然自若としていただけら、土居も怒り様がなかったのではないか、とも思う。「この人は何を言っても話が通じないじゃないか。それなら仕方がない」と諦めたのではないか。しかしおそらくは古沢の方にも土居の異論に対して声を荒げるということもあったのではないか。少なくとも土居の言い分の一部についてはその正当性を認め、部分的にではあれ自分が折れるという態度が見られたら、土居もそこまで怒ることはなかったのではないか。土居は古沢は自分を飲み込もうとして、一時は飲みこまれそうに感じたそうである。飲み込む、とはことごとく相手を自分色に染め上げようとする態度だったのだろう。するとやはり古沢の「すべて自分が正しい」という態度が一番土居を刺激したのではないか。土居が欲していたのは恐らく、もっと普通で対等なやり取りであったのであろう。 土居の怒りについては気になるところだ。彼は好戦的と形容できるようなところがあり、西洋文化にも真っ向から切りかかって行ったところがある。土居の主張は早い話が「西欧は受け身的愛情希求を抑圧し、したがって甘えに行きつかなかった」であるが、これはかなり大上段に構えた挑戦と言えるのではないか。