2025年11月30日日曜日

男性の性加害性 3

 一見普通の男性の性加害性」の脳科学

 以上の二つの障害として①パラフィリア(性嗜好異常)と②性依存を挙げたが、本題である一見普通の男性の性加害性(以降「普通の男性の性加害性」の問題と略記しよう)は①,②に関連はしているが、基本的に別の問題であるということであり、新たに論じなくてはならないのである。
 この「普通の男性の性加害性」を回避し、再発を防止する方法は決して単純ではない。通常の危険行為に関しては、危険な場所、危険な人との接触を避けることに尽きる。しかし「男性の性加害性」を回避するのに同じロジックは成り立たない。何しろそれは職場の上司や同僚として、あるいは指導教官や部活の先輩として、さらには夫や父親として、つまり身の回りのいたるところにいるのだ。それらの人々との接触を避けるとしたら、それこそ学生生活や社会生活を満足に送ることが出来なくなってしまうだろう。ここにこの問題の深刻な特徴があるのだ。

 「普通の男性の性加害性」の問題の特徴を一言でいうと、通常は理性的に振る舞う男性が、それを一時的に失わう形で、性加害的な行動を起こすということである。しかし私たちが時折理性を失う行動に出てしまうことは、他にもたくさんある。酩酊して普段なら決してしないような暴行を働いたりする例はいくらでもある。しかしこれはそれが予測出来たらふつうは回避できるはずだ。
 ところが酒がやめられないアルコール中毒症の人だったり、ギャンブル依存の人なら、ちょっと酒の匂いをかいだり、ポケットに思いがけず何枚かの千円札を見つけたりしただけでも、すぐにでも酒を買いに、あるいは近くのパチンコ屋に走るだろう。彼らはごく些細な刺激により簡単に理性を失いかねないのだ。ただしこれらの場合は、彼らがアルコール依存症やギャンブル依存という病気を持っている場合だ。つまりは上で述べた②に相当する。そして一見健康な男性の豹変問題はそれとは異なる、と私はこれまで述べてきたのだ。

 実はこの「普通の男性の性加害性」についての学問的な研究がある。ここで一人の学者を紹介したい。それがフレデリック・トーツ  Frederick Toates である。これまでにも多くの研究者が男性の性愛性の論文を発表しているが、その中でも男性の性の問題について徹底して学問的に深堀利をしていると私が考えるのが、トーツである。


Toates F. (2022) A motivation model of sex addiction - Relevance to the controversy over the concept. Neurosci Biobehav Rev. 142:104872. 

1.男の脳に起きている理性と衝動のせめぎあい

 トーツは「二重過程モデル(Dual Process Model」を提唱する。彼は「快楽」や「行動衝動」がどのようにして生じるかを、「二つのプロセス」で説明する。 


● システム 1(自動的・感覚的・衝動的) → たとえば、魅力的な女性を見て無意識的に身体が反応してしまうシステム。
●  システム 2(制御的・理性的・抑制的) →  その衝動を抑えようとするシステム。


 そして性嗜癖の本質は、この二つのシステムの失調、ないしはギャップから生じるという。

 これを言い換えれば、「男性はデフォルトが性的満足を得ることを常に我慢している存在」ということになる。つまりは酒に酔ったり、交通事故などで前頭葉が破壊された場合には、簡単に system 1 に支配されてしまうことになる。これは男性の「どうしようもなさ」を、見事に示していることになる。1の暴走に関しては、いったん引き金が引かれるとドーパミン系とグルタミン酸系が発動し,「鮭の遡上」(後述)反応が始まる。これ自体は自動的、生理的なプロセスの発動であり、身もふたもない言い方をすればファンタジー先行、対象不在なのである。いやファンタジーすら不在かもしれない。何しろグルタミン系は、「過学習された性的衝動の再活性化(=トリガー)→ 外部刺激によって自動的に活性化される神経回路の強化」だから壊れたレコードのように再生を繰り返すだけなのである。男性のどうしようもなさとはつまり、この二重過程モデルがまさしく言い当てているということになる。


2025年11月29日土曜日

男性の性加害性 2

 これまで何が分かっているのか?

 この「普通の男性の性加害性」についてさらに論じる前に、これまで男性の性加害性についてわかっていることを少し整理しておきたい。男性の性の問題は精神医学の世界でももちろん議論の対象となっていることは確かである。それは一種の精神障害としてとらえられ、概ね二つに分類される。それらは①パラフィリア(性嗜好異常)、②性依存の二つである。
 先ず①パラフィリアに関しては以前は性倒錯 perversion という呼び方が一般的であったが、1980年のDSM-III以降 paraphilia パラフィリア」という呼び方に統一されている。Para とは 偏り deviation であり philia とは好み、親和性という意味である。つまり paraphillia とは通常とは異なる人ないし物に惹かれるという意味だ。性倒錯という呼び方にはかなり差別的な含みがあったが、パラフィリアはそうではないという理由でこの呼び方が一般になされるという事情もある。
パラフィリアは具体的には露出症、フェティシズム、窃触症、小児愛、性的マゾヒズム、性的サディズム、服装倒錯的フェティシズム、窃視症などが挙げられる。パラフィリアは極端に男性に偏る傾向にあり、おそらく男性の性愛性の持つ何らかの特徴に関係していると思われる。

このパラフィリアが性加害と関係してくるかはケースバイケースといえよう。パラフィリアの中には「対物性愛」というジャンルもある。その際は例えばエッフェル塔の写真を見て性的興奮を覚えたりすることになるが、その人がエッフェル塔を損壊でもしない限りは加害性は考えにくい。
 しかしパラフィリアは通常とは異なった対象に関連しているものの、非常に多くの場合、結局は特定の人(多くは異性)を対象としたものである。たとえばフェティシズムの一例として、好きな異性の靴下や下着に関心を示すとしよう。するとそれを手に入れる際には結局相手の了解を得ない場合が多いであろうし、そこには加害的な要素が加わる事になる。あるいは盗撮、露出、覗きなども特定の相手があって生じるのであり、同様に侵襲的で加害的である場合が多い。
 実際昨今は盗撮の幼児や児童への加害性が重要な社会問題になってきている。犯人の多くは一見普通の小学校、中学校の教員なのである。そこでこの①のテーマは後に「一見普通の男性の性加害性」を論じる際に立ち戻って考えたい。

 次に②の性依存についてである。こちらは「一見普通の男性の性加害性」に関係するだろうか? こちらも①と同様にケースバイケースと言えようが、性依存の状態にある当人を満足させるようなパートナーは事実上不在である場合がほとんどだろう。一日中オーガスムを追い求めることを止められない男性の相手を務められるパートナーなどは普通は存在しない。したがって性依存はそのままポルノ依存などの形をとる事になり、他人を巻き添えにするというよりは、自分で苦しみ、その結果として家族なども巻き込むことになる。
 性依存に関しては、ギャンブル依存などと違い、金銭的な問題が発生しにくいことも不幸中の幸いと言えなくはない。(
ただし毎日の風俗通いを止められないという場合には別であろうし、その状態に陥ったケースも知っている。)

 ちなみにこの②について、それが一つの疾患としてどの程度認定されているかについてはいろいろ議論がある。WHO発行のICD-11(2022年)には、精神疾患のジャンルにCSBD(compulsive sexual behavior disorder 強迫性性行動症)という状態が記載されている。ところがもう一つの世界的な精神科の診断基準であるDSM-5にはそのような病名の記載はない。巷で言われる性依存の状態は、通常の依存症、すなわち薬物やギャンブルや買い物などの依存症と同類に扱うことが出来ないというのがDSM-5の立場なのである。

さてこの②性依存の問題は実は「一見普通の男性の性加害性」の問題と絡む可能性がある。そこで改めてCSBDの定義(ICD-11)を読むと

(1)繰り返し制御できない性的衝動 (性的な思考や衝動がコントロールできず、頻繁に性的   行動を繰り返す)
(2)個人の生活や社会的機能に悪影響を与える (仕事や人間関係に支障をきたすほどの性的   行動を続ける。)
(3)性的行動を抑えようとしてもできない (自分でやめようとしても制御できない。)

これらの問題が少なくとも半年続いているとこれに該当するというのだ。

さて「一見普通の男性の性加害性」の場合、かなりこれとは異なる印象がある。一見普通の男性が性加害者となる場合、その男性は「繰り返し制御できない衝動」に駆られるのだろうか。その頻度は通常はさほど高くない点が、痴漢行為やポルノ依存とは異なるところだ。
 もう一点、「一見普通の男性の性加害性」が性依存と異なる面がある。それは一般に依存症の場合には繰り返すことでその依存度が深まり、抜けられなくなるという傾向があるのだ。しかし「一見普通の男性の性加害性」の場合にはそのような切迫感の増大はあまり見られないという印象がある。
 またさらに言えば、「一見普通の男性の性加害性」にはかなり意図的、作為的な部分がある。その欲望を制御できないというわけではなく、どこか計画的でその機会を狙い、その行為に及ぶというニュアンスさえもある。しかしそればかりだとまさに計画性を持つ性犯罪者ということになってしまうが、そこに自制が効かなくなるという要素が混在した状態と言えるかもしれない。最初は性被害を与える意図はさほどなくても、途中から抑制が外れるというところがある。
 私がそれらの事例を見聞きして思うのは、彼らの起こす性加害がどこまで意図的で、どこまで不可抗力的なのかが区別しがたいところがあることだ。それは最初は相手とのじゃれ合いやいちゃ付きのニュアンスを伴っているものの、それが次第にエスカレートして相手の拒絶にも拘らず突き進むというパターンが多いのだ。するとやはりこの②の性依存とは基本的に区別するとしても、途中から歯止めが効かなくなるという点に関しては②の要素を併せ持っていると考えていいだろう。


2025年11月28日金曜日

WD推敲 2

  WDの起源は古いが、1970,1980年代に多種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。そして臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ(野村)。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。

私にとってのワークディスカッション


 さて日本におけるWDの取り組みについて述べることが本稿の目的ではない。ここからは私が知り得たWDについて現時点で思いめぐらすことを書いてみよう。

 私自身にとってのWDはと言えば、極めて身近にしかも数多く体験した、あのプロセスのことである。たとえば複数の人の前である事例が報告される。そしてそれについて様々なディスカッションが行なわれ、時にはさまざまなドラマか展開していく。精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会におけるケース検討の場でこれまで数限りなく経験してきた。時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされるあのプロセス。場合によっては年若い発表者が助言者、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに火だるま状態になるのを見たこともある。かなり昔の話ではあるが、私自身がその発表者の立場となったこともある。

 発表者が火だるまになった場合、聴衆の一人としての反応は複雑である。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不条理に感じる事もある。思わず発表者に援護射撃をしようと思っていても、その場の雰囲気に押されて何も言えず、歯がゆい思いをしたこともある。

少し極端な場合には発表者はその経験を一種のトラウマのように感じ、またその時に特に歯に衣着せぬ意見を述べられた先生に対して恨みに近い思いを抱くこともある。しかし一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランのコメントも聞こえて来たりして「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるがわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方についと考えることはペンデイングにしていたが、この問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのだ。


2025年11月27日木曜日

男性の性加害性 1

まだ引き摺っている原稿である。

 改めて‥‥「どうしようもない存在としての男性」とその性加害性

 今回の対談と同時並行的に様々な文献に当たりつつ思ったのは、男性の性の問題は複雑多岐でかなり込み入った問題であり、その多くは解明されず、また語られることは少ないということである。その中でも特に問題なのが、一見普通の男性が時に見せる性加害性である。
 性加害者は多くの場合、一見健康で普通の社会生活を送っており、特に犯罪などを表立って犯すことのない男性達がかかわっている。昨年、一昨年に世間を大きく騒がせた元アイドルのN氏やY氏やM氏が、普通の人の仮面をかぶった犯罪者であると考える方々にとっては、私のこの主張はあまり意味をなさないかもしれない。しかし私は彼らは少なくとも普通、時には善良な人々として社会で通用していたということを前提として論じる。
 そこで彼らの起こす問題をとりあえず、「普通の男性の性加害性」として捉えることが出来よう。これは当然ながら病気としては扱われないという事情がある。御存じの通り、この問題は社会に大きな影響を及ぼし、数多くの犠牲者を生み出している問題であるが、これまで十分に光が当てられてこなかったのである。つまり「普通の男性の性加害性」は私たちの社会において一種の盲点になっていたのだろう。
 臨床で出会う性被害の犠牲者たちがしばしば口にするのは、それまで信頼に足る存在とみなし、また社会からもそのように扱われていた男性からの被害にあってしまったという体験である。そしてそれだけにそれによる心の傷も大きい。信頼していた人からの裏切りの行為は、見ず知らずの他人による加害行為にも増して心に深刻なダメージを及ぼすというのは、トラウマに関する臨床を行う私たちがしばしば経験することである。
 しかしこの問題は自分たちのことを「一見普通である」と自ら思い込んでいる男性の恐らく大部分にとっても決して他人事ではないはずだ。どんなに社会的な地位があり、日頃から品行方正とみなされていても当事者である可能性を免れることはないかもしれない。昨今のニュース報道を見ればわかる通り、女子生徒の盗撮などの行為を行っている人たちは学校の当の教師たちなのである。それも日頃は信頼され、父兄からも安心して子供を任せられると思い込んでいた人たちの行為なのである。そこにこの問題の複雑さ、闇の深さが存在するのだ。私が男性のその様な性質を「どうしようもない存在」と呼ぶとき、これはある意味では男性という性を負った私たちが多かれ少なかれ運命づけられ、そのこと自分のこととして考え、反省しなくてはならないという自戒の念を込めているのである。

2025年11月26日水曜日

WD推敲 1

 ワークディスカッションの話。始まったと思ったらもう推敲だ。

 この度「●●●」という著書に特別寄稿を書かせていただくことになった。大変光栄なことである。ちなみに「特別寄稿」は私の好きなジャンルである。なぜなら自由なことを書いても比較的許されるからだ。ということで私はこのディスカッションに突然引き込まれ、おかげでずいぶん刺激を戴いた事を感謝しつつこの稿を起こしつつある。まず私なりにこのwork discussion (ここからは”WD”と書くことにする)についての私の乏しいながらの理解を書いてみる。
  WDは精神分析をルーツとし、グループの環境で学びを高めるためのプログラムである。そしてこの動きは日本の心理臨床においてかなり前からあり「日本ワークディスカッション研究会」まで存在している。ただし広く一般に知られているとはいえず、まだこれからの領域という印象を受ける。かくいう私も今回長谷綾子先生、若狭美奈子先生、橋本貴裕先生の企画による同テーマの自主シンポにコメント役として参加させていただき、その存在を遅ればせながら知ったということを告白しておこう。

 WDは、英国のタビストック・クリニックにおける乳幼児観察(Infant Observation)が源流であり、主として精神分析的視点に立った対人援助職の教育訓練のために開発された。この創始者は精神分析の世界ではよく知られるイギリスの分析家エスター・ビックであり、彼女は乳幼児観察と個人精神分析を統合したとされる。ちなみにこの乳幼児観察については英国に留学した先生方が日本に伝えているので分析家の間ではなじみになっている。
WDは、観察者が自らの体験(感情、身体感覚、反応)を通して無意識的な対人関係の力動を見出すことを目的とする。
具体的なプロセスとしては、参加者が臨床現場(保育所、病院、学校など)で観察したことを記録し、それをグループで読み合わせ、そのあとディスカッションを行うが、それが「自由連想的』であるところがいかにも精神分析的である。そしてその際指導者(facilitator)はあくまで分析的な視点での促し手であり、指導・教示は最小限に抑えられるということだ。
そこでは「観察者が感じたこと」「関係性の中で何が起きているか」に焦点が置かれ、背景にに対象関係論(オグデン、ビオン、ビックなど)や投影同一視、コンテイニングなどの概念があるとされる。そして「何が起きていたか?」よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?」に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す。つまりそこで起きたことを事実として検討する、という意味ではないという点が特徴なのだ。


2025年11月25日火曜日

特別寄稿 8

日本型のWDについて

ここで日本型のWDについて論じる資格は私にはないのかもしれない。私は具体的な実践を行っていないからだ。しかしこのWDの概念は一般に私たちが行うあらゆるグループディスカッションに深く関連している可能性があり、グループでの体験について、米国、フランスでの体験を比較的豊富に有する私にもある程度その資格があると考える。またこのWDが日本社会において行われる際にどのような点が問題かについては、またそれが本格的には論じられていないという点もある。WDが日本に導入されてからかなりの年数がたっていることを考えると、そろそろそのような議論が出てきてもいいのではないかと考える次第である。

ちなみに日本でのディスカッションそのものの特徴については金子智香・君塚淳一 (2007) の論文が参考になる。彼らはWDとは直接関りがないながらも、大学英語教育を行う上でのグループディスカッションが持つ様々な問題について論じている。彼らは英語によるディスカッションにおいて、「ディスカッションどころか会話も成立しない」という問題にしばしば遭遇し、日本において学生のディスカッションへの抵抗感を取り除いたり緩和したりすることの重要さを説く。そしてその背後には、西欧文化と日本文化の違いがあり、「意見を戦わせて議論で解決して行く文化と、個は出来る限り抑制し集団で動く文化の違い」(p.77)について指摘する。

金子智香・君塚淳一 (2007) 日本の大学英語教育におけるディスカッションの指導法とは[1] ―授業における効果的方法を考える― 茨城大学教育実践研究 26, 75-87. 


2025年11月24日月曜日

特別寄稿 7

 先ずは私なりにWDの起源と発展について簡単にまとめたい。WDは、英国のタビストック・クリニックにおける乳幼児観察(Infant Observation)が源流であり、主として精神分析的視点に立った対人援助職の教育訓練のために開発された。この創始者はイギリスの分析家エスタービックであり、彼女は乳幼児観察と個人精神分析を統合したとされる。ちなみにこの乳幼児観察については英国に留学した先生方が日本に伝えているので聞いてはいたが、その詳しい内容を私は知らなかった。 WDは、観察者が自らの体験(感情、身体感覚、反応)を通して無意識的な対人関係の力動を見出すことを目的とする。 具体的なプロセスとしては、参加者が臨床現場(保育所、病院、学校など)で観察したことを記録し、それをグループで読み合わせ、そのあとディスカッションを行うが、それが「自由連想的』であるところがいかにも精神分析的である。そしてその際指導者(facilitator)はあくまで分析的な視点での促し手であり、指導・教示は最小限に抑えられるということだ。 そこでは「観察者が感じたこと」「関係性の中で何が起きているか」に焦点が置かれ、背景にに対象関係論(オグデン、ビオン、ビックなど)や投影同一視、コンテイニングなどの概念があるとされる。そして「何が起きていたか?」よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?」に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す。 ところでこの文章、Chat君に手伝ってもらって書いているが、最後の部分、つまり「何が起きていたか?よりも「なぜ私はそれをそう感じたのか?に注意が向けられる点が、教育やスーパービジョンとは一線を画す」という部分。「何が起きたのか」を事実として検討する、という意味ではない(つまり真理を追究するのではない)ということなのだろうか。


2025年11月23日日曜日

PDの精神療法 1

これも依頼論文である。もう書くものが多すぎて訳が分からなくなってきた。  

本章は 「Ⅲ さまざまな精神疾患に対する精神療法」の第13番目として位置づけられる。扱う対象はパーソナリティ障害(personality disorder, 以下PD)ただ他章の統合失調症やパニック症などに比べ、本章ではDSM-5のカテゴリカルモデルに従っただけでも10という大所帯である。従ってPDの治療に関する議論も多岐にわたるため、ここではBPD, NPD, ASPおよびCPTSDの4項目に限定して論じることにしたい。(最後のCPTSDはもちろんPDの一つとは数えられないが、CPTSDの有するパーソナリティへの表れについて考えると本章で特筆する価値はあるものと思われる。

PDの治療論として特にBPDが筆頭に挙げられるのにはそれなりの経緯がある。歴史的には主として神経症の治療として出発した精神分析がその対象を広げ、またその方法論を変更する必要に迫られたのは、1960年代にはじまるBPDの概念への注目やその治療についての模索が始まったからである。その過程でカンバーグやマスタ-ソン等により唱えられたBPDの治療論はNPD等により応用される一方ではDSM-ⅢによるカテゴリカルなPD論の整備がなされたのである。その意味ではPDの精神療法に関する議論はPDに関する理論から派生したものと考えられよう。


2025年11月22日土曜日

特別寄稿 6

ここから、私が授業で採用している方法(私なりのWDの変法?)について書くつもりだったが、その前に一つの disclaimer (但し書き)が必要だと思った。というのも「日本人はグループでは話そうとしない」などと偉そうなことを書いているが、私自身ははぜったいにグループで積極的に喋らないタイプだったことを告白しなくてはならない。おそらく生来の引っ込み思案が関係していると思うが、私は極度の恥ずかしがり屋で気弱である。(このブログの題の通りだ。)アメリカでレジデントをやっていた時も、とにかく無口だった。下手な英語で恥をさらすことなどできるわけもない。(もともとディスカッションについていけないということもあったが。)だから「では質問のある方?」と講義の後で呼びかけて、シーンとされていても、自分が向こう側に至らシーンとする一人なので、その気持ちはとてもよくわかる。しかし他方では言いたいことを用意していたりもするのだ。しかし手を挙げる勇気がない。実はパリとトピーカで過ごした長い時間、「あー、またクラスで手を挙げて話すことが出来なかった。悔しい!」という思いを毎日のようにしていたのだ。クラスで思い切って発言したかどうかで、その日の後の時間の気分が大きく変わるから結構これは重大な問題なのだ。
しかしひとつ面白い体験があり、それはメニンガーでの体験グループでの体験だった。外国人留学生も交じって、力動的な体験グループに何度も出たが、20人、30人という人数のグループでも発言に不思議と抵抗がなかった。「ええと、思っていたことが言えなくて、単語も出てこなくて困った!」ということも含めて言っていいのが力動的なグループだと思い込んでいたから、すべてを実況中継すればいい、と思えば発言はむしろ楽しいくらいだった。要するに素(す)であることを許される場なのである。そしてもちろん同じことは分析を受けている時も起きた。分析家の前では何を言ってもいい、ということになっているから「素」のままでいい。

このことはWDを考える場合にも重要かもしれない。どこかで箍を外してあげることで人は見違えるほど饒舌になれる可能性があるのかもしれない。


2025年11月21日金曜日

特別寄稿 5

私はよくある論文を課題としてあらかじめ出し、それについて感銘を受けたり、疑問に思ったりしたところをいくつかチェックしておいて、付箋でも張っておいていただく。(このチェック項目は数個は用意しておいてもらう。)そして実際のセッションでは私なりにその論文のまとめみたいなものについて話した後は、1番から順にチェック項目を一回にひとつずつ発表してもらう。そしてそれについてディスカッションを皆で行い、私の方からもコメントする。これを時間の許す限り何週も行うが、だいたいは5週くらいで修了時間(90分程度)となる。これを一つの形式として行うので、皆の自発的な発言を待つまでの無駄な時間はない。勿論彼らに自発的に質問やディスカッションをしてもらえばいいのだが、効率としてはこちらの方がいいと思うし、また誰かの質問に関して、だれでも意見を言っていい事になっているので、いくらでも彼らは「自発的」に振舞うことが出来るのだ。そして彼らには「パス」の権限を与える。「私が言いたかったことをさっきAさんに言われてしまいました。ちょっと待ってください。」等という時は「じゃ、もう一周するまでに考えておいてください。」と寛容さと柔軟さを示す。さらには「この論文のことじゃなくても、このテーマに関する事なら、どんな質問でもいいですよ。先ほどのBさんの挙げたテーマについて考えることがあれば、それでもかまいません。というよりはその方が議論が深まっていいかもしれません」となる。

この方式のいいところは、平等に意見を言う機会を与えることが出来ること、そして出席者は課題となった論文を隅から隅まで読まなくても参加できるということだ。あまり恥ずかしくないような質問をすることが出来る程度にその論文を読む必要はあるであろうし、何と言っても質問をすることでディスカッションに参加するモティベーションになる。さらには全く読んでこなかった人でも、前の質問者に触発されて意見や質問を述べることが出来る。


2025年11月20日木曜日

特別寄稿 4

 一つ確かなことは次のことだ。日本のグループの場で沈黙を守る参加者たちは、実はたくさんのことを思っている。先日も私がある講演をした時、その質問の「なさ」にヤキモキしたことがある。こちらが力を注いで話をした時、私たちはたいてい聴衆からの反応を予想ないし期待しているものだ。そしてそこで何も質問が出ないと拍子抜けするし、がっかりもする。ところがそこで誰かを指名して質問をしてもらったり、アンケートなどで感想を募ると、実に様々な、実り多い返事が返ってくる。つまりメンバーたちは何も考えていないわけでは決してない。そして私の感想では、アンケートが特に匿名であるほど、より自由な意見や感想が戻ってくる。そしてこれはおそらくWDを日本で考える場合にかなり大きな問題を提示している気がする。何かの触媒catalyser のような装置ないしは工夫が必要なのだ。と言っても大げさなものを私が考えているわけではない。たとえば極端な話、グラスに一杯のワインでもいい。アルコールで少しほろ酔い気分になった日本人は程よく抑制がほどけて饒舌になったりするものだ。それは何だろうか?

私が授業などでやっているのは少し荒っぽいやり方だ。それは参加者に順番をつけて、次々と質問や感想を述べるようにすることだ。


2025年11月19日水曜日

特別寄稿 3

  その後私が考えるようになったのは、これが彼らが自由に発想するための訓練になっているのであろうということである。 欧米社会では自分がどのような独自の考えを持っているかということは事更重視され、また期待される。あるトピックについてとりあえずは自分がどのように考えているかを表明することは、おそらく自分が周囲とどの程度同調しているか、逆に言えばどの程度とんちんかんではないかということとは全く異なる懸念である。そしてこの後者が恐らく日本における同様の状況で人の心の中に起きているのだろう。  日本社会では自分が正しいか(正解ではなくても、少なくともその場でそれを言って恥ずかしくないか)が一番問題となるため、人はまず発言する前にグループを見わたし、そこでの「温度」を計ろうとする。そして誰かが口火を切るのを待つのだ。欧米ではまず自分か口火を切り旗幟を鮮明にするのである。  ちなみにこれを日本の恥の文化と結びつけて考える向きもあるだろう。しかし私はそれともすこし違うような気がする。「何が恥ずかしいか」が日本と欧米で違うのだ。そしてかの地では自発的な見解を持たないことが恥かしいのだ。  この様な違いがこれほど明らかである以上,英国原産のWDの理論をすくなくともそのままでは用いることは出来ないであろうとさえ思えるのだ。


2025年11月18日火曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 4

 ようやく文献を整理してまとめる最後の段階。面倒くさいのだが、これで解放されると思うと、少し楽しみでもある。

参考文献)

(1)Maines, R.P. (1998). The Technology of Orgasm: "Hysteria", the Vibrator, and Women's Sexual Satisfaction. Baltimore: The Johns Hopkins University Press

(2)Lamberty, G.J.(2007) Understanding somatization in the practice of clinical neuropsychology. Oxford University Press.

(3)小此木啓吾 ヒステリーの歴史 imago ヒステリー 1996年7号 青土社 18~29 (4)岡野憲一郎(2011)続・解離性障害 岩崎学術出版社

(5)Ellenberger, H.F. (1970): The discovery of Consciousness; the history and evolution of dynamic psychiatry; Basic Books, New York. (木村・中井監訳: 無意識の発見 上 - 力動精神医学発達史. 弘文堂、1980年)
(6)Poirier J, Derouesné C. Criticism of pithiatism: eulogy of Babinski. Front Neurol Neurosci. 2014;35:139-48.

(7)American Psychiatric Association (1980) Diagnostic and Statistical Manual. 3rd edition. 高橋三郎、花田耕一、藤縄昭(訳) (1982) DSM-III 精神障害の分類と診断の手引き. 医学書院.

(8)American Psychiatric Association (1968) Diagnostic and Statistical Manual. 2nd edition, revised. American Psychiatric Association, Washington, DC.

(9)van der Hart, O. Nijenhuis, ERS.and Steele, K. W. (2006) Haunted Self: Structural Dissociation And The Treatment Of Chronic Traumatization. Norton, 2006 野間俊一、岡野憲一郎訳:構造的解離:慢性外傷の理解と治療. 上巻(基本概念編). 星和書店, 2011.

(10)American Psychiatric Association (2000): Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders DSM-IV-TR (Text Revision). American Psychiatric Association, Washington, DC., 高橋三郎,大野裕,染矢俊幸訳 (2002): DSM-IV-TR精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京

(11)American Psychiatric Association (2013) Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed (DSM-5). American Psychiatric Publishing, Arlington.日本精神神経学会 日本語版用語監修,髙橋三郎,大野 裕(監訳)(2014) DSM-5 精神疾患の診断・統計マニュアル.医学書院,東京.

(12)American Psychiatric Association (2022) Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, 5th ed,Text revision (DSM-5-TR). American Psychiatric Publishing. 日本精神神経学会 (監修) (2023) DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル. 医学書院.
(13)World Health Organization (2022) ICD-11 for Mortality and Morbidity Statistics.
(14)Stone J, LaFrance WC Jr, Levenson JL, Sharpe M. Issues for DSM-5: Conversion disorder. Am J Psychiatry. 2010 Jun;167(6):626-7.

(15)Egmond, J. Kummeling, I, Balkom, T (2004) Secondary gain as hidden motive for getting psychiatric treatment.European psychiatry 20(5-6):416-21
(16)岡野憲一郎(2025)脳から見えるトラウマ.岩崎学術出版社)

(17)Francis Creed, Peter Henningsen and Per Fink eds (2011) Medically Unexplained Symptoms, Somatisation and Bodily Distress. Developing Better Clinical Services. Cambridge University Press. 太田大介訳 (2014) 不定愁訴の診断と治療 よりよい臨床のための新しい指針.星和書店.

(18)安野広三 (2024) 痛覚変調性疼痛の背景にあるメカニズムとその臨床的特徴についての検討 心身医学 64巻 5号 415-419

2025年11月17日月曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 3

 さいごに

  FNSの歴史について、特にそれがヒステリーという精神的な病として扱われた時代にさかのぼり、いかに現代的なFNSの概念に至ったかについての経緯を概括した。ヒステリーは身体的な表れの体裁をとっていても、本質的には心の問題であると考えられていた長い時代があった。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた事も示した。DSM-Ⅲ 以降、それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでのどちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化された形と言えるであろう。

 しかしそれが真の、あるいはより現代的な理解に基づく概念として生まれ変わるためにはFNSの概念の成立が必要であった。そしてその概念と共に精神科医たちは朗報と言える「身体科からの歩み寄り」に浴する一方では、心因という概念や精神疾患と脳との関連についての再考を迫られていると言えるのではないか。

 ではこのことは将来何を意味しているのだろうか?それはかつての認知症や転換がそうであったように、精神医学からFNSが消え、例えば脳神経内科に所管が移行するということであろうか。それはそれで構わないのかもしれないが、私はそれでは十分ではないと考える。というのもFNSを身体疾患として純粋に考え、扱う際にも精神療法的なアプローチの有効性が不可欠であるからだ。そしてその根拠となるのが、FNSに見られる心的なトラウマの関連である。FNSにおいて心的トラウマの関連が大きい以上、それに対する精神療法的なアプローチは必須となる。そしてそのような形でFNSは今後とも精神医学と身体科の両者により治療すべき対象と考えられるのである。その意味でFNSの存在が精神医学と身体医学を結ぶ懸け橋としての意味を持つことはとても重要であると考える。


2025年11月16日日曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 2

ところでDSM-5には次のような注目すべき記載がある。「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。」「所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。」「医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.339)

 ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、C項目「症状が意図的に産出されないこと」そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。
 このうち「症状が意図的に産出されないこと」は、FNDだけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを変換症についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。
 またすでにDSM-IVの段階で削除された疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。
 さらには従来変換症について見られるとされていた「美しい無関心 a bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。  ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。

2025年11月15日土曜日

ヒステリーの歴史 大詰め 1

この論文、いよいよ締め切りが迫っているが、まだまだおかしいところがある! 

FNDと心身二元論

 この変換症からFNDの移行の持つ意味について改めて考えたい。先ずはFNSという用語の意味についてである。このFNDの「F」とは機能性 functional の意であり、器質性 organic の対立概念である。すなわち「神経学的な検査所見に異常がなく、本来なら正常に機能する能力を保ったままの」という意味である。したがってFNDは「今現在器質性の病因は存在しないものの神経学的な症状を呈している状態」という客観的な描写に基づく名称ということが出来よう。それに比べて変換症という概念には多分にその成立機序やその成立に関する憶測が入り込んでいたことになる。その憶測ともいうべき症状が変換症の診断基準から除外されたのがFNSであるが、それらを以下にまとめよう。

まず診断基準としてはDSM-Ⅲ,IV の以下の項目が削除された。

B項目 心理的要因が存在すること

C項目 症状は意図的に産出されないこと

D項目 症状は身体疾患によっては説明されないこと

なお、DSM-ⅢではB項目に含まれていた「疾病利得が存在すること」はDSM-IVではすでに削除されている。

 このFNSへの移行はどのような意味を持っているのだろうか。FNDの概念の整理に大きな力を発揮したJ.Stone (2010) の記述を参考にしよう。彼は本来 conversion という用語は Freudの唱えたドイツ語の「Konversion (転換)」に由来し、彼は鬱積したリビドーが身体の方に移される convert ことで身体症状が生まれるという意味でこの言葉を用いたとし、問題はこの conversion という機序自体が Freudの 仮説に過ぎないのだという。そしてそれは心因(心理的な要因)が事実上見られない転換性症状も存在するからであり、この概念の恣意性や偏見を生む可能性を排除するという意味でもDSM-5においてはその診断にはこのB項目の心因論を排したFNSという概念や名称が導入される必要があったのである。


2025年11月14日金曜日

特別寄稿 2

 フランス、アメリカでの体験

 私自身の体験から出発するしかない。私はフランスのパリで一年間、米国で4年間、精神科のレジデントトレーニングを合計数年にわたって受けたが、それは私たちの学年の6~8名のクラスの討論に次ぐ討論であった。あるレクチャーが行われたり、あるケースが提供されるとまずは十分なディスカッションの時間が与えられる。というか授業の主体はクラスメートの間でのディスカッションというニュアンスさえある。そして講師がディスカッションをクラスに開くと、そのあと日本での同じ機会のように,しばらく(あるいは延々と)沈黙が流れるということはまず欧米ではありえない。グループ全体がそのような沈黙を一体となって消しにかかるという感じで、必ず誰かが挙手をしたり口火を切ったりして、ディスカッションが始まる。そしてしばしばその全体の流れに方向性が見いだせず、様々な意見が出て応酬があり、それで授業が終わってしまうということがある。いったいこのディスカッションに意味があるのか、皆が様々な意見や感想を持つということが分かっただけで、その誰が正解を握っているかということが分からずじまいになってしまい、これでは授業を受ける意味がないのではないか、とさえ思ったことを覚えている。


2025年11月13日木曜日

特別寄稿 1

 「特別寄稿」は私の好きなジャンルである。なぜなら自由なことを書いても比較的許されるからだ。ということで私はこのディスカッションに突然引き込まれたが、おかげでずいぶん刺激を戴いた。work discussion WDと書くことにする。まずはWDについての私の乏しいながらの理解から。
 WDは私の理解では精神分析をルーツとし、グループの環境で学びを高めるためのプログラムである。そしてこの動きは日本の心理臨床においてかなり前からあり、「日本ワークディスカッション研究会」なるものまで存在している。その理事長であられる野村誠先生の文章を引用しよう。

WDは、1980年代種多様な援助職の観察力や対人スキル向上に貢献したという。そしてその可能性に気づいた臨床家によって、より幅広い援助状況に応用されていくようになって行った。そして臨床心理士養成大学院など、さまざまな領域の対人援助職に対して実践されはじめ、心理臨床の事例検討会やグループスーパービジョンにも応用されて、その汎用性が注目され日本ワークディスカッション研究会が設立されたとのことだ。しかしその運営、グループのファシリテートには固有の難しさがあることが分かってきたという。

さて私はたまたまワークショップで長谷先生や若狭先生の実践の発表を知って,「ああこれが今話題になっているWDなんだ,と問題意識をかろうじて共有させてもらうところから始まった。実は自分でもとてもよく知っている、あのプロセスのことなのだ。ある事例が発表されて様々なデイスカッシェンが行なわれ、時にはドラマか展開するプロセス。精神科医や心理士としてのトレーニングで、そして学会や勉強会でのケース検討会でも何度となく経験し、時には胸おどり、時には深い疑問を抱かされるあのプロセス。場合によっては年若い発表者が助言者、参加者のみならず司会者にまで助け舟を出してもらえずに火だるま状態になり、聴衆のひとりとしても歯がゆい思をしたこともある。特にその発表者の主張に一理も二理もあるように感じる時はその一方的なデイズカッションの流れをあまりに不条理と感じる一方では,「若手はああやって鍛えられるのだ、自分だってその道を通ってきたのだ」というベテランのコメントも聞こえて来たりして「そういうものなのか…? でもこれって一種のハラスメントではないか!」と更に疑問を抱く体験もあった。そうして症例呈示は言わば「ハイリスクハイリターンで何が起きるがわからないもの」として自分の中ではその理想的なあり方について考えることはペンデイングにしていたが、この問題の検討の機会を与えてくれるのがこのWDの議論であるということが分かったのだ。

2025年11月12日水曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 11

 まとめ

 

 FNSの歴史について、特にそれがヒステリーという精神的な病として扱われた経緯を示した。それは身体的な表れの体裁をとっていても、本質的には心の問題であると考えられていたからだ。そして精神医学の診断基準も概ねそれに沿ってきた事も示した。DSM-Ⅲ 以降、それはある種の心因ないしはストレス、あるいは疾病利得があり、それが精神の、そして身体の症状をきたすという性質を持っているものと理解されていた。これはそれまでのどちらかと言えば詐病に近いような扱いからは一歩民主化されたということが出来るであろう。
 そしてその間いわゆる解離性障害についての理解は大きく進んだと言える。とくにそれを精神症状を来すものと身体症状に分けるようになった。いわゆる精神表現性解離と、身体表現性の解離(Psychoform and somatoform dissociation)という概念である。

 しかしそれが真の、あるいはより現代的な理解に基づく概念として生まれ変わるためにはFNSの概念の成立が必要だったのである。そしてそれと同時に精神医学にとって朗報と言えるのは身体科からの歩み寄りだったわけである。

 ただしこのことは将来何を意味しているのだろうか?それはかつての認知症や転換がそうであったように、精神医学からFNSが消え、例えば脳神経内科に所管が移行するということであろうか。それはそれで構わないのかもしれないが、私はそうはならないと考える。というのもFNSを身体疾患として純粋に考える場合に、それに対する精神療法的なアプローチを想定しにくいという問題があるからである。そしてその根拠となるのが、FNSに見られる心的なトラウマの関連である。

FNSにおいて心的トラウマの関連が大きい以上、それに対する精神療法的なアプローチは必須となる。そしてそのような形でFNSは今後とも精神医学と身体科の両者により治療すべき対象と考えられるのである。その意味でFNSの存在が精神医学と身体医学を結ぶ懸け橋としての意味を持つことはとても重要であると考える。


2025年11月11日火曜日

大阪への出張

  119(日曜日)はあいにくの雨だったが、大阪出張であった。V製薬会社の抗うつ剤Eの日本での発売10周年記念の学術会議なるものに呼ばれて、「AIと精神療法」というテーマで講演した。司会は京都大学精神科教授の村井先生という私には勿体ないお方である。しかも私の前の演者が、かの松本俊彦先生で、相変わらずの熱のこもった薬物濫用の話が刺激的で聞き惚れてしまった。内容は詳しくは語れないが徹底して患者さん目線で,市販薬のODを過剰ににとりしまる傾向に対する苦言を含んでいた。彼の話はいつ聞いてもほぼl00%正論のように思えるが.私も彼の持つ「過激さ」をシエアしているからなのだろうか?心から声援を送りたい精神科医である。

 

2025年11月10日月曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 10

  このMUSという疾患群は最近になって精神医学の世界でも耳にするようになったが、取り立てて新しい疾患とは言えない。むしろ「医学的に説明できない障害」の意味する通り、そこに属するべき疾患群は、医学と呼ばれるものが生まれた時から存在したはずである。そして身体医学の側からはMUSはそれをいかに扱うべきかについて、常に悩ましい存在であり、それは現在においても同様であるといえよう。結局MUSに分類される患者は「心因性の不可解な身体症状を示す人々」として精神医学で扱われる運命にあったのだ。そしてそれは昔のヒステリーとほぼ同義だと考えられる。しかしこのカテゴリーに属する疾患を身体科で扱うという兆しが見られたことは精神科医にとっても朗報と言える。そしてもちろんFNSもこのMUSに含まれることになる。

   ここでMUSに属するものについて比較的わかりやすく図に示したものを、ある学術書(Creed, Henningsen, Fink eds, 2011)から引用する。なおこの図には発表された時期 (2011) に合わせて筆者が日本語で診断名を書き入れてある。ここにはMUSという大きな楕円の中に身体表現性障害と転換性障害の集合が含み込まれ、また器質性疾患の集合はMUSと一部交わっているという関係が示される(図の斜線部分)。



 さらにはこのMUSの概念と並んで脳神経内科の分野で最近提出された、いわゆる「第3の痛み」と言われる「痛覚変調性疼痛 nociplastic pain 」の概念にも注目するべきであろう。これは侵害受容器性疼痛(体の部分の組織の損傷が見られるもの)と②神経障害性疼痛(その部分と中枢を連絡する神経の病変のあるもの)以外の痛みであるとされる。そしてそれに関連して中枢性感作というメカニズムが想定されているが、この種の痛みを主症状とするものとしては、線維筋痛症、顎関節症、偏頭痛、過敏性腸症候群、非特異的腰痛、慢性骨盤痛などが含まれるという。

安野広三 (2024) 痛覚変調性疼痛の背景にあるメカニズムとその臨床的特徴についての検討

心身医学 64巻 5号 415-419

この痛覚変調性疼痛の認定もまた、精神科医にとっては朗報と言える。なぜならこの種の痛みこそ、精神科で患者の口から聞かれるものの多くをカバーしているからであり、少なくともその一部は脳神経内科その他の身体科の治療者にゆだねることが出来るようになるからだ。


2025年11月9日日曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 9

 FNSの概念と身体科からの歩み寄り  ― 「MUS」との関連において

 上述の通りFNSの登場は精神医学にとっても大きな動きをもたらしたが、その具体的な表れは、脳神経内科やリューマチ科、その他の「身体科」からの歩み寄りとして体験されているという印象を筆者は持つ。これまで精神科医は患者の身体症状の扱いに苦慮することが多かったが、それらの一部が身体疾患として概念化されて病名が与えられ、それぞれの科でも扱われるようになったのである。それらはたとえば慢性疲労症候群や線維筋痛症、PNES (psychogenic nonepileptic siezures 心因性非癲癇性発作)、片頭痛などである。これらに該当する症状を訴える患者は精神科外来でも少なからずみられたが、その多くは身体科でも引受先がなく、精神科医が痛みその他の身体症状に対する薬物的な対処の必要に迫られることが多かった。その際精神科医としては疼痛その他の症状に対して専門性を備えていないことを半ば自覚しながら、不本意な投薬を求められることのジレンマを抱えることも少なくなかった。そしてそれらの患者が精神科と並行して身体科を受診して専門的な視点から治療を受けることで援軍を得て孤独感や不条理な気持ちが和らぐ思いをしている精神科医も少なくないであろう。

この問題と関連して、最近いわゆる「MUS」、すなわち「医学的に説明できない障害 medically unexplained disorder」の概念の持つ重要性が増しているように思われる(岡野(2025)脳から見えるトラウマ.岩崎学術出版社)。


2025年11月8日土曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 8

  ところでDSM-5には次のような注目すべき記載がある。「[ 身体症状群は]医学的に説明できないことを診断の基礎に置くことは問題であり、心身二元論を強化することになる。・・・所見の不在ではなく、その存在により診断を下すことが出来る。・・・ 医学的な説明が出来ないことが[診断の根拠として]過度に強調されると、患者は自分の身体症状が「本物 real でないことを含意する診断を、軽蔑的で屈辱的であると感じてしまうだろう」。(DSM-5, p.339)  ここに見られるDSM-5やICD-11における倫理的な配慮は、以下に述べる、「症状形成が作為的でないこと」、そして「疾病利得が存在しないこと」という項目についての変更にもつながっていると理解すべきである。  このうち 「症状形成が作為的でないこと」は、転換性障害だけでなく、他の障害にも当然当てはまることである。さもなければそれは詐病か虚偽性障害(ミュンヒハウゼン病など)ということになるからだ。そしてそれを転換性障害についてことさら述べることは、それが上述のヒステリーに類するものという誤解を生みかねないため、この項目について問わなくなったのである。  また疾病利得についても同様のことが言える。現在明らかになりつつあるのは、精神障害の患者の多くが二次疾病利得を求めているということだ。ある研究では精神科の外来患者の実に42.4%が疾病利得を求めている事とのことである(Egmond, et al. 2004)。従ってそれをことさら転換性障害についてのみ言及することもまた不必要な誤解を生みやすいことになる。  さらには従来CDと呼ばれる状態について見られるとされていた「美しい無関心 la bell indifférence」の存在も記載されなくなった。なぜならそれも誤解を生みやすく、また診断の決め手とはならないからということだが、これも患者への倫理的な配慮の表れといえる。  ただし実際にはFNDが解離としての性質を有するために、その症状に対する現実感や実感が伴わず、あたかもそれに無関心であるかの印象を与えかねないという可能性もあるだろう。その意味でこの語の生まれる根拠はあったであろうと私は考える。

以上をまとめるとFNDでは、心因の存在を必須としないこと、症状形成が作為的でないこと、疾病利得の存在を問わないこと、という点で変換症から大きく変化したが、そこに共通するのは次のことだ。

①心身二元論を排すること。

②倫理性を重んじること。


つまりヒステリーは体の病ではなく心の病である、という従来の考え方は、心身二元論的に立てば体の症状を偽っているという偏見に直結し易く、それを防ぐ方策だということだ。

でもなんだかわからなくなってくる。そもそも身体科と精神科に分かれていること、あるいは精神科という科が存在すること自体が心身二元論に基づいているのではないか。しかし精神科が「医学」に含まれることで心身二元論を廃しているということになるのか。だんだんわからなくなってきた。

こう考えてはどうか。心の悩みやストレスが、身体科で診断の付くような身体の症状につながるということは確かにある。でも「身体科の診断がつくようなすべての症状には心因が必ずある」という考えが誤りであることは確かである。問題は「身体科の診断がつかない症状に必ず心因がある」が誤りであるということで、これがFNDの概念の成立とともに認められたというわけである。これは実はとても新しい、重大な一歩なのだ。そしてそこには「そのような診断のつかない症状にも「何らかの脳の変化ないしは働き」は起きているであろう」という理解が背景にある。そしてこれを推し進めると、「あらゆる身体症状は脳の変化や働きを伴う」という理解になる。そしてその「脳の変化や働き」は、当人の意図とは独立しているということが重要だ。そしてこのことの理解は、おそらく精神医学にとっても大きなパラダイムシフトなのだ。


2025年11月7日金曜日

ヒステリーの歴史 改めて推敲 7

 この心因の問題とともに、DSM-IVにあった「症状が神経学的に説明できないこと」についても、DSM-5やICD-11では変更が加えられている。具体的には「その症状と、認められる神経学(医学)的疾患とが適合しない」という表現に変更されている。(ちなみに「適合しない」とは原文ではDSM-5では ”incompatible”, ICD-11では”not consistent”である。)。  ここでDSM-5ICD-11では、FNSにおいて神経学的な所見が見られないことを特に否定しているわけではない点が重要である。しかしそれは陰性所見(医学的な診断が存在しないこと)ではなく、陽性所見(症状が医学的な診断と適合しないこと)を強調する形になっている。この違いは微妙だが大切である。さらにFNSに関して「このような『陽性』検査所見の例は何十例もある」p.351)とし、その例として○○テストを挙げている。 ちなみにこの陽性所見という言葉の説明として、DSM-TRでは次のような説明もなされている。「むしろ陽性の症状及び兆候(苦痛を伴う身体症状に加えて、そうした症状に対する反応としての異常な思考、感情、および行動)に基づく診断が強調される。」(p.339) 


2025年11月6日木曜日

WD推敲 3

 フランス、アメリカでの体験

 結局WDの議論は私自身も長年体験し、また思案してきたことなのだ。ただそれがWDというテーマですでに論じられていることは知らなかっただけである。
 私は日本で医師になって間もなく、フランスのパリ大学精神科で一年間外国人研修生として、そのあと米国で4年間、精神科のレジデントとしてトレーニングを受けた。この合計数年にわたった体験は私にとってはかなり苦痛を伴うものであった。私はもともとグループでのディスカッションはそもそも得意ではなかったが、それが慣れない外国語で行われるとなると、更に大きな負担となったのである(この問題については後に詳述する)。
 これらのトレーニングは通常は同学年の数人、大抵は6~8名のメンバーによる定期的なよる定期的な受講という形をとったが、そこでは全体での討論が大きな位置を占めていた。あるレクチャーやケースが提供された後には、通常は十分なディスカッションの時間が与えられる。というよりは授業の主体はクラスメートの間でのディスカッションというニュアンスさえある。
 もちろん担当する講師の授業の進め方にもよるが、通常は講師はレクチャーの後に十分なディスカッションの時間を残し、その時間になるとすぐさまディスカッションが始まる。日本での同じ機会のように、講義や症例提示が終わって討論の時間になってもしばらくは、時には延々と沈黙が流れるということはまず欧米ではありえない。グループ全体がそのような沈黙を一体となって埋めにかかるという感じで、必ず誰かが挙手をしたり口火を切ったりするのだ。そしてしばしばその全体の流れに一定の方向性が見いだせず、様々な意見が出てメンバー間の応酬があり、場合によってはそのままで授業が終わってしまうということがある。
 私は最初の頃はいったいこのディスカッションに意味があるのかと疑問に思ったものである。皆が様々な意見や感想を持つということが分かっただけで、その誰が正解を握っているかということが分からずじまいになってしまうことも多かったため、これでは授業を受ける意味がないのではないか、とさえ思ったことを覚えている。
 もちろん授業がある種の知識や情報の伝達を主体とするものであれば、ディスカッションというよりはその内容についての質疑が行われる。しかしそれがケース報告などの場合には、グループがある種の正解を探しあぐねて、結局何も結論らしきものが得られずに授業が終わるということは少なからずあったのだ。
 しかしその後私が考えるようになったのは、これが講義の参加者たちが自由に発想することが出来るようになるための訓練になっているのであろうということである。 欧米社会では自分がどのような独自の考えを持っているかということはことさら重視され、また期待される。あるトピックについてとりあえずは自分がどのように考えているかを、参加者たちの前で表明することは極めて大切なのだ。それは日本人の場合のように、自分が周囲とどの程度同調しているか、逆に言えばどの程度とんちんかんではないかを真っ先に考える傾向とは全く異なるのである。
 日本社会では自分が正しいか (正解ではなくても、少なくともその場でそれを言って恥ずかしくないか) が一番問題となるため、人はまず発言する前にグループを見わたし、そこでの「温度」を計ろうとする。そして誰かが口火を切るのを待つのだ。それとの対比で欧米ではまず自分か口火を切り旗幟を鮮明にするのである。
 ちなみにこれを日本の恥の文化と結びつけて考える向きもあるだろう。しかし私はそれともすこし違うような気がする。「何を恥ずかしいと感じるか」が日本と欧米で違うのだ。そして欧米社会では自発的な見解を持たないことが恥かしいのだ。
 この様な違いがこれほど明らかである以上,英国原産のWDの理論をすくなくともそのままでは用いることは出来ないであろうとさえ思えるのだ。