その後私が考えるようになったのは、これが彼らが自由に発想するための訓練になっているのであろうということである。 欧米社会では自分がどのような独自の考えを持っているかということは事更重視され、また期待される。あるトピックについてとりあえずは自分がどのように考えているかを表明することは、おそらく自分が周囲とどの程度同調しているか、逆に言えばどの程度とんちんかんではないかということとは全く異なる懸念である。そしてこの後者が恐らく日本における同様の状況で人の心の中に起きているのだろう。 日本社会では自分が正しいか(正解ではなくても、少なくともその場でそれを言って恥ずかしくないか)が一番問題となるため、人はまず発言する前にグループを見わたし、そこでの「温度」を計ろうとする。そして誰かが口火を切るのを待つのだ。欧米ではまず自分か口火を切り旗幟を鮮明にするのである。 ちなみにこれを日本の恥の文化と結びつけて考える向きもあるだろう。しかし私はそれともすこし違うような気がする。「何が恥ずかしいか」が日本と欧米で違うのだ。そしてかの地では自発的な見解を持たないことが恥かしいのだ。 この様な違いがこれほど明らかである以上,英国原産のWDの理論をすくなくともそのままでは用いることは出来ないであろうとさえ思えるのだ。