2025年11月6日木曜日

WD推敲 3

 フランス、アメリカでの体験

 結局WDの議論は私自身も長年体験し、また思案してきたことなのだ。ただそれがWDというテーマですでに論じられていることは知らなかっただけである。
 私は日本で医師になって間もなく、フランスのパリ大学精神科で一年間外国人研修生として、そのあと米国で4年間、精神科のレジデントとしてトレーニングを受けた。この合計数年にわたった体験は私にとってはかなり苦痛を伴うものであった。私はもともとグループでのディスカッションはそもそも得意ではなかったが、それが慣れない外国語で行われるとなると、更に大きな負担となったのである(この問題については後に詳述する)。
 これらのトレーニングは通常は同学年の数人、大抵は6~8名のメンバーによる定期的なよる定期的な受講という形をとったが、そこでは全体での討論が大きな位置を占めていた。あるレクチャーやケースが提供された後には、通常は十分なディスカッションの時間が与えられる。というよりは授業の主体はクラスメートの間でのディスカッションというニュアンスさえある。
 もちろん担当する講師の授業の進め方にもよるが、通常は講師はレクチャーの後に十分なディスカッションの時間を残し、その時間になるとすぐさまディスカッションが始まる。日本での同じ機会のように、講義や症例提示が終わって討論の時間になってもしばらくは、時には延々と沈黙が流れるということはまず欧米ではありえない。グループ全体がそのような沈黙を一体となって埋めにかかるという感じで、必ず誰かが挙手をしたり口火を切ったりするのだ。そしてしばしばその全体の流れに一定の方向性が見いだせず、様々な意見が出てメンバー間の応酬があり、場合によってはそのままで授業が終わってしまうということがある。
 私は最初の頃はいったいこのディスカッションに意味があるのかと疑問に思ったものである。皆が様々な意見や感想を持つということが分かっただけで、その誰が正解を握っているかということが分からずじまいになってしまうことも多かったため、これでは授業を受ける意味がないのではないか、とさえ思ったことを覚えている。
 もちろん授業がある種の知識や情報の伝達を主体とするものであれば、ディスカッションというよりはその内容についての質疑が行われる。しかしそれがケース報告などの場合には、グループがある種の正解を探しあぐねて、結局何も結論らしきものが得られずに授業が終わるということは少なからずあったのだ。
 しかしその後私が考えるようになったのは、これが講義の参加者たちが自由に発想することが出来るようになるための訓練になっているのであろうということである。 欧米社会では自分がどのような独自の考えを持っているかということはことさら重視され、また期待される。あるトピックについてとりあえずは自分がどのように考えているかを、参加者たちの前で表明することは極めて大切なのだ。それは日本人の場合のように、自分が周囲とどの程度同調しているか、逆に言えばどの程度とんちんかんではないかを真っ先に考える傾向とは全く異なるのである。
 日本社会では自分が正しいか (正解ではなくても、少なくともその場でそれを言って恥ずかしくないか) が一番問題となるため、人はまず発言する前にグループを見わたし、そこでの「温度」を計ろうとする。そして誰かが口火を切るのを待つのだ。それとの対比で欧米ではまず自分か口火を切り旗幟を鮮明にするのである。
 ちなみにこれを日本の恥の文化と結びつけて考える向きもあるだろう。しかし私はそれともすこし違うような気がする。「何を恥ずかしいと感じるか」が日本と欧米で違うのだ。そして欧米社会では自発的な見解を持たないことが恥かしいのだ。
 この様な違いがこれほど明らかである以上,英国原産のWDの理論をすくなくともそのままでは用いることは出来ないであろうとさえ思えるのだ。