さて以上を前提にして書いていくわけであるが、臨床家が解離性障害について伝えようとしても、そもそも多くの臨床家がそれをする用意がないという現実がある。最近杉山登志郎先生の本を読んでいたら、次のような文章が出てきた。「一般の精神科診療の中で、多重人格には「取り合わない」という治療方法(これを治療というのだろうか?)が、主流になっているように感じる。だがこれは、多重人格成立の過程から見ると、誤った対応と言わざるを得ない。」(p.105)「発達性トラウマ障害と複雑性PTSDの治療」
これは私が常日頃その可能性を考えては頭から消し去ろうとしている内容である。杉山先生は「ラジカルな良識派」であり、正しい、妥当と思えることなら歯に衣着せぬ言い方をなさる。だから、彼のいうことはおそらくかなりの信ぴょう性がある。すると問題は彼らはなぜ「解離性同一性障害(以下、DIDと表記)には取り合わない」のだろうか、ということだ。好意的な解釈をするならば、「DIDについてはそれについてむやみに症状を訊いたり説明したりすることが必ずしも治療的にならないから」であろう。しかし悲観的な解釈をするならば「一般の精神科医はDIDないしは解離性障害一般について理解も関心もない」ということになりはしないだろうか?とすると彼らは「患者に解離性障害についてわかりやすく説明する」レベルにはどれほど遠いことになるのだろう? そして彼らは患者の話を聞いて理解し、場合によっては説明してもらうという学習プロセスを経なくてはならないであろう。
そこで私の書く以下の内容は、少なくとも解離性障害についての一定の理解を持ち、少なくとも「取り合わない」という態度ではなく、その理解をときには患者から学びながら深めていくことに従事している臨床家に向けての文章であるという但し書きが必要である。
さてこの最後の表現は少しも誇張でないのは、解離症状は多くの私たちにとって実感の伴わない、場合によってはつかみどころのない症状であり、臨床家の多くは文献や患者自身の話から頭の中で再構成することでしか深めようがないということなのだ。
1.個々の交代人格は個別的な主観性を持っている
おそらく患者の個人的な体験として最も切実で、また多くの臨床家にとって理解に苦しむのがこの点であろう。DIDの方の多くの人格さんは、「私」という感覚を持ち、ほかの人格のことを他者として認識している。多くの臨床家はここで理解を放棄するか「ついていけなく」なる。「取り合わない」予備軍となるのだ。臨床家はこの主観性について心から共感をすることは難しいであろうが、それでも患者に説明することができる。「個々の人格さんは自分は自分という感覚を持っているのが普通です。ほかの人格さんもまた「自分は自分」と思っているのが普通なので、それぞれの利害がぶつかることもあるようです。」と説明できるだろう。ただこの基本的な理解に立ち、多くの患者さんがこの原則に必ずしも合わない体験をすることを理解しなくてはならない。例えば「自分は自分」と思っているその「自分」は誰だかがあいまいになることが多い。それぞれの人格はコンピューターのOSに例えられようが、それらが混線状態になることがある。
もう一つはいわゆる主人格が、自分以外に「自分は自分」と思っている人格の存在にいつまでも気が付かないことがある。