2010年5月17日月曜日

対人関係におけるバランスシート <合いの手入り>

もともと無計画なブログだったので、もうきつくなってきた。そこで続ける工夫をしてみた。合いの手(突っ込み)を入れるのである。こうすると、少し楽に書けることがわかった。
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このバランスシートの関係で興味深いのは、私たちはしばしば、人との間でこの種のバランスシートを構成し、それを几帳面にもきちんと脳内で維持するということである。<まだ続けるのね。もう三日以上は経っているみたいだけれど。>
皆さんはこんな体験をしたことはないだろうか? 誰か(Bさんとしよう)とちょっとした仲たがいをして、その人に恨みを持ったとする。そして鋭い言葉の交わしあいの挙句、ある言葉を投げかけられ、それを許せないと感じ、口をきかない関係になったというわけだ。するとBさんとの間のバランスシートには、負債の欄に、ある値が書き込まれることになる。すると次にBさんと顔を合わせた時、あなたは実に明確で興味深い反応をする。その口論の前までは、笑顔を会えば笑顔をかわしていたBさんを見ても、顔がこわばり、あたかも他人のような冷たい視線を投げかけることしかできない。Bさんに対して笑顔で声をかけるという行動に耐えられなくなっているのだ。そのような際、私たちは決して頭の中で計算をしてそうしているわけではない。体が(脳が)自然とそう反応しているのだ。<ここら辺、夫婦げんかの時のことを思い出して書いているんやないか?>
そこに関係しているのが、「快感査定システム」というべき部分である。これから行う行動を査定して、それが不快であるならその行動を起こせない。そしてその査定はほぼ瞬間的に、非意識的に行われる。<また大げさな表現やな。まあ許したるわ。>
そこでいつものようにBさんに気軽に声を掛けることは「それは苦痛である、やってはいけない」という結論が自動的に算定され、したがって行動に移せないのだ。
ところがバランスシート状の数値は、実に瞬間的に書き変わる可能性がある。たとえばBさんが例えば「ゴメンね。私のほうが間違っていた。」という簡単だが明確な謝罪のの言葉を投げかえるだけで、そのような冷たい態度は一気に氷解する場合もある。すなわち他人との貸借対照表に書き込まれた数字は、謝罪という行動により瞬間的にも解消する類のものである。(しかしこういったからといって、謝罪が心のこもっていないものであってはならない。謝罪が心のこもった本物であるかどうかを、私たちは実に注意深く見ている。そして謝罪が本物であるということは、そうする人間が苦痛を味わっているということに他ならないのである。すなわち謝罪をすることとは、謝罪者のバランスシートにある種の負債を作ることに他ならない。)
<それで足利事件の菅谷さんのことを思い出した。裁判官が心底謝っていると感じた瞬間に、許すという気になったのは、その謝罪の態度や重みにより、バランスシートが、一時的にではあれプラマイゼロの状態にまで戻ったということだね。あれも瞬間的な現象だったと言えるわけだ。それはそうと、あれほど気をつけろと言ったのに、変換ミスが一つあるぞ。>