2010年5月11日火曜日

IPAに伴う自己正当化

(承前)
IPAについて考える際、非常に重要なことがある。それが特にその人の日常体験における核の部分を占めるものである場合は、それはその人に「これでいいんだ」「これ以外にない」という感覚を生む。これはそれを追い求める自分を自然なものと感じ、それに疑問を抱かないという態度につながる。これは「自己正当化」という感じに近いが少し異なる部分もある。
たとえばある子供にとっては「自分が人よりいいものを持っている」と認識することが主要なIPAであるとしよう。その子供は物心ついてそれが周囲の親や友達との間でどのような意味を持つかを理解するまでは、そのことに全く疑問をいただかない。そのままでは他の子供が自分よりきれいな服や高価なおもちゃを持っている時には、それを汚したり、壊したりすることでIPAを満足させることもためらわないかもしれない。その行動が抑制されるとすれば、その子がほかの子供の不幸な顔を見た時にそれを苦痛に感じるという体験を持ったり(それが結構大きな「IUPD」(後述)となっていたり)、そのような行動の後に、相手の子から手痛いしっぺ返しを食らって「学習」したたという場合だろう。その場合は、「他人よりもいいものを持つ」というIPAは必要に応じてどこまでも潜行していくしかない。それがその子供のもっとも主要なIPAであるならば、そしてその子が十分な状況判断や思慮深さを持っているならば、どのような迂回路をたどっても、最終的にIPAが満たされることを目指すであろうし、そのこと自体にためらいや迷いはない。そのために詭弁を弄したり、嘘をついたり、ということも迷わずするのだ。なぜなら生物として最終的に快感を味わうことはそれほど自然なことはないし、およそ人間以外の動物は(そして実は人間も)IPAが満足される限り、おそらくその目的以外の「思考」を、そして反省を用いる必要すらないからである。
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さてこんな感じで書いていると、私はまさに30年足らず前の、土居先生に原稿を提出して歯牙にもかけてもらえなかったころの考えとほとんど変わっていないことに気が付く。人は快を得るために行動する。快楽主義。このことをおずおずと話すたびに、私は周囲から様々な反論を向けられたのを思い出す。あれから精神分析理論を学んで、精神科の臨床を続け、いろいろ本も読んだが、それでもこの考えを変えることができないとすれば、こう考えることがまさに私の主要なIPAを形成しているということになるだろうか?