ということで息子の自慢話である。彼が12歳の頃、従ってもう8年も前のことだ。家族でアメリカで過ごした最後の年である。あのころ私たちは毛虫がアゲハチョウになるのを見守ることが多かった。最初は息子の学校の課題として何年前に始めたのだが、いつの間にか夏の恒例になっていた。庭に自生しているリュウという植物があり、黒いアゲハがその葉にとまったり、周囲を飛んでいるのを見かける。アゲハが去ったあとに、その葉の裏側に極小の、それこそゴミと間違えるような水滴のような卵を見つけるところからそれは始まる。そのリュウの卵のついた葉を、茎ごと虫かごに入れておく。やがてそのゴミのような水滴から、黒い小さな「キャタピー」が動き出す。(caterpillar キャタピラー = 毛虫の英語の愛称。毛虫、と書くとキモいが、キャタピーと呼ぶとなんとなくかわいい。)頭に赤いバンドを巻いたような模様があるのが特徴だ。
キャタピーは最初はゆっくり、そのうち加速度がついたように見る見る大きくなっていく。一匹のキャタピーを養うには十分すぎるように思われたリュウの大きな枝の葉を、10日ほどかけてモリモリ食いつくし、あわやえさ不足とかと危惧するうちに、キャタピーは「もうしっかり食べた」とでもいいたげに葉を食べることに関心を失い、安住の地を探し出す。大体は枝にぶら下がるような場所だ。そこに自分の体を巧みに口から出すネバネバの糸で巻きつけてから動かなくなる。そして大人の小指ほどの大きさに育っていたキャタピーは動かなくなり、やがて乾いて縮んでいく。そこでまるで死んだようになっているのだが、ある日目を離した隙にさなぎに変身する。プヨプヨだったさなぎはまるでロボットの鎧のような固いさなぎに姿を変えるのだ。そして何日かするとやがて蝶が生まれる。
この一連のプロセスは何度繰り返してみても結構面白く、息子もカミさんも一日何度かは虫かごを覗き込んで進行具合を確かめ、それが家族の食事時の話題の一つくらいにはなっていた。
さてキャタピーが動かなくなる前に結局どこを居場所にするかは大体予想がつくのだが、時にはそれが裏切られるのが面白かった。「どうだい、理想的だろう?」と適当な枝を用意しておいても、キャタピーはそれを無視して、離れた枝を選んだり、時々虫かごの内側のプラスチックの壁に居場所を決めたり、かと思うと虫かごの下に何枚か落ちた葉の下に隠れるようにしてさなぎになる。(思えばそれは異なった種のアゲハのキャタピーだった気がする。)
さてここで我が息子が登場する。<大げさ。とにかくここまで書くのにつかれた。>ある日不思議なことが起きた。息子と部屋の隅のカーペットの上に置いていた虫かごをのぞき込んでいると、一匹いたはずののキャタピーが忽然と消えているのがわかった。虫かごには隙間があるから、キャタピーは無理をすれば這い出ることもあるが、普通はありえない。しかしそれもありうると思って虫かごの周囲を見回しても見当たらない。不思議だ不思議だ、と二人で虫かごを見下ろしているうちに、息子の目が、ゆっくりと上を向いたのである。まるでコマ落としをしたシーンのように、ゆっくりとした、しかし迷いのない動き。その視線の先が目的物を見出す前に、すでにその存在をすでに知っていたかのような確信に満ちた目の動きだ。私は息子の狙いがわからないままに、誘われるようにその目の向かう先を追ってみると・・・・何とキャタピーは虫かごを這い出して、壁を伝って天井にまで上り、そこでさなぎになっていたのだ。彼は私たちの真上にいたのである。「一体なんでそんなことが分かるんだ!!」私には全く思いもつかなかった場所にいるキャタピーを見つけ出した彼に「こ、この子はすごい・・・」と感心したのだ。
それ以来私はこの日のことを何度も思い出すことになる。息子は時には「天才の真逆」ではないかと思わせることもしばしばあった。でもこのキャタピーを不思議な勧で見つけ出した時の彼を思い出して、いとも容易に「いや、あんなことができる息子は、やはり天才なのだ」と簡単に思えてしまうのである。しかし息子の方はといえば、おそらくこの時のことを忘れている。彼はこの偉業をすこしも鼻にかけることがない。(というか、そもそも無口で、このころから殆ど意味のある話を親とはしなくなった。)そこがまた天才っぽいのだ。
親バカとは面白いものである。親が子供を見てすごいと思う素材は何でもいいのだろう。この後息子がどんなに私を失望させても、そして世間から背を向けられても、私は「でも、本当は彼はすごいんですよ。なぜなら・・・・・・」と説得しようとするかもしれない。しかしその後に父親がこの毛虫の話をしても、まったく説得力がないのだろう、というのもなんとなく分かる。だからせめてこんなところに書いている、というわけである。<これははたして自慢話か?>