2010年5月30日日曜日

人格障害を作るのは誰か?-BPDの医原性

ここまで珍しく一月程続いた連載であったが、実はそれなりの事情があった。すこし「自由時間」というか、余裕があったのだ。しかし私はひとつの仕事が入ってしまって、もはやこんな悠長なテーマで、いつ終わることもない議論をできなくなってしまった。そこで一月程、全然関係の無い、「BPD(境界パーソナリティ障害)の医原性について」というテーマで書いてみたい。ちなみにその仕事とは、「●●●の科学」という専門誌10月号(予定)とは全く関係がない。この場を借りて少しずつこの、まるでどこからか降ってきたようなテーマについてまとまって考えるスペースは、この7,8名(すこし増えた)の仮想読者に向かってでしかない。まあ昨日書いた息子の半分冗談の話もコケたようではあるし。いい頃合いかもしれない。
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しかし企画者の意図はなんだろう?いや、こちらの話。どうやら境界例という伝統的な概念は、DSMにおけるBPD概念に変わった時点で、変質した(と見る)人がいるらしい。概念的なことか?難しいことはわからないや。何しろ文献も特に読んでいないし。というより自分の専門のテーマであるという自覚も特にないし。ただしひとつ言えるのは、BPDについて語っているのはもはや専門家だけではないらしいと言うこと。何しろネットを見れば、多くの「当事者」がそれを語っているとともに、それをめぐる多くの流言が飛び交っているということらしい。つまりこうだ。専門家がボーダーということを言い出す。するとその診断をうけた側、そしてそれを取り巻く健常者(いずれも非専門家)の間に様々な議論や、場合によっては中傷合戦が起きているということだろうか?
さてそこに医原性の問題が絡んでくるのは、どのような意味においてか。ここら辺は注文者の意図を汲んで語るわけには行かないが、同様の主張をしてきた覚えはないわけではない。私がBPDについて、密かにオリジナルだと思っているのは、「ボーダーライン反応」という考え方(「ボーラーダイン反応で仕事を失う」こころのりんしょうà la carte vol.25:65-70 星和書店 2006年)であった。そこでの主張は、ボーダーラインというのは、私たちが持っている、対人関係上の一種の反応形式であり、簡単にいえば「状況次第でだれにでも起きる」ということである。今思いついたことだが、これは一種の原始反応にもなぞらえることができるかもしれない。例のF or F or F (fight or flight or freeze, 闘争-逃避-固まり反応)と同じようなものだ。しかしFFFがpredator 天敵への反応だとすると、ボーダーライン反応は対人関係における危機、例えば恥をかかされる体験、人にさられる体験、などである。
この問題に医原性がどうして絡むかといえば、この対人関係における危機は、治療者患者関係の中で簡単に再現されるからである。(続く)