2026年5月7日木曜日

ストレスとDID 1

 ストレス反応としての多重人格状態

 本特集は〇〇というものである。そこで本章ではいわゆる多重人格、正式には解離性同一性障害についてそれを特にストレス因との関連から論じる。(多重人格という、かなり古めかしさを感じさせる用語をこのまま使うか、あるいはストレスと「ストレス因」の使い方を区別するかなど、いろいろ考えなくてはならないことが多いがとりあえずこのままの形で始めよう。ちなみに本稿は例によって「大人の事情」である。要するに依頼原稿だ。先日まで「バウンダリー」の原稿に苦しみぬいた(←大げさ)が、ようやくその軛から解放されたのもつかの間であった。ただしこちらのテーマは、何度も書いているだけに扱いやすい。しかしそれは新しいことはもうあまり出てこないということでもある。

 はるか昔、1998年にアメリカにいたころに書いた英語の論文に dissociogenic stress に関するものがある。Dissociogenic stress とは「解離原性のストレス」、つまり解離を生むようなストレス、という意味だが、私が使ったきり誰にも使ってもらえていない(いまだにこの論文が引用されたのは、私自身による一回だけ!)だから試しにこの言葉でググるといまだにAIからの答えで  「岡野(1998)らによって提唱された概念」と出てきて、少しだけ誇らしい気分だ。   

 まあそんなことはどうでもいい。ここで問いたいのは、比較的単純な問題である。「解離はどのようなストレスに対する防衛機制だろうか?」最近私は解離を一つの能力とみなす傾向にあり、その意味ではまさに防衛機制ということになるが、他方ではれっきとした症状でもある。果たして解離は私たちにとって良いものなのか、悪いものなのか。

 解離が防衛として働くというのは、それが最初にトラウマが生じた時に、それにより自らをその体験から隔離するという出来事から推察されることだ。その瞬間に主体が精神的に生き延びる際に役に立ったという意味では、それはまさに防衛機制であった。しかし問題はそれがその後の人生で繰り返されるようになるということである。

 この問題について考えるようになっているのは、DIDに既遂自殺が多いか否か、という問題意識である。実はこのテーマは7月の「うつ病学会」での発表内容であるが、私の経験ではかなり既遂自殺は少ないという実感があり、それは自殺未遂や自傷行為の多さとの対比で言えることである。私の見解は、自殺の間際になると、異なる人格が介入することにより自身の身体を救うという傾向があるのではないかということである。

 ここで例によりPutnam のテキストを参照。大御所がまず何を言っているかを知ることは大事だ。すると彼の原書の9ページに以下のように書いてある。つまり解離が survival value 生き延びるための価値を有するという考え方は、 広く受け入れられているという。Braun & Sachs, 1985, Kluft, 1984, Spiegel, 1984.という錚々たる著者も言っているというのだから、これは学界のコンセンサスと言っていい。であるならば、いざ自殺の危機に瀕している場合にも、これが再び「生き延びるための価値」を発揮することは当然想定されるのではないか。

ここで従来の考え方の転換が必要であろう。

能力としての解離 → 自殺というピンチで生存の方向に働く

症状としての解離 → 自殺傾向を高める

という関係があるのではないか。


2026年5月6日水曜日

甘えの相互性 10

 甘えの有するネガティブな側面

 本章の最後の部分は、甘えの有する文化的な側面、特にそのネガティブな側面である。先ず臨床的な事実から述べたい。私が臨床で関わる人の中に、日本を出て海外での生活を送ることに解放感を味わう日本人が少なからず存在するということがある。

ある20代の女性はこう言った。「イギリスに行ってみたら、他者がそもそもこちらのことを気にしていないから、こちらが彼らのことを気にしないでもよいということがわかった。」

 このことが私を驚かせたのは、その女性がどちらかと言えば人目が気になり、周囲が自分のことをどう思っているかについて様々に空想を膨らます人だからである。仕事を辞めて引きこもりがちの生活を送る彼女は、平日の昼間に外出することで、周囲の住人に「あの人は平日に何をぶらぶらしているんだろう?」と疑いの目で見られることを恐れていたという。しかしある機会に英国に数週間過ごす機会があり、始めは言葉のハンディもあり、ホテルから一歩も出られなくなるのではないかと思ったという。しかし英国についてそこの空気が、いい意味でも悪い意味でも他人に関心を持たないことがすぐにわかったという。
 この件について私はかつて、日本での甘えをベースにした人間関係を、「互いのニーズを読みあう社会 society of mutual mind-reading」と表現した(Okano, 2019) 。まさにその意味で日本社会と欧米社会は、ネガとポジの関係なのである。日本社会ではお互いに心を読み合う、忖度し合う、ということが習慣になってしまっている。
 ここで土居の言葉を思い出そう。「分離の事実を止揚し、もっぱら情緒的に自他一致の状態を醸し出すという甘えの心理は、まさしく非論理的と言わねばならない。」(土居,1971,p.82)「このように甘えの世界を批判的否定的にみれば、非論理的・閉鎖的・私的ということになるが、肯定的にみれば、無差別平等を尊び、極めて寛容であるとさえ言えるであろう。」(同p.84) 
 このことを土居自身もよくわかっていたようである。甘えを重視する養育において母親が子供の甘えのニーズを読み取ろうとする傾向は、それが高じた場合には常に「母親からの干渉」を引き起こす可能性がある。この件について、屈折した甘えについての指標を作り研究を行った楠見孝らは、過剰に甘えさせること、すなわち「甘やかし」は、土居が論じた「屈折した甘え」をもたらす(楠見ら、2024)とする。(文献省略)

 


2026年5月5日火曜日

AIと精神分析 13

 サリバンの Syntaxic 統語論的な応答とAI

 AIの共感的な応答、という問題に戻ろう。AIの共感は情緒的ではないが、「構造的、安定的」であるという話をしたが、この文脈で私の頭に浮かぶのが、parataxic distortion という考えである。これはアメリカの精神科医ハリー・スタック・サリヴァンが提唱した概念であり、日本語では「パラタクシックな歪み」と訳されている。それが意味するところは過去の人間関係(主に幼少期の経験)によって条件付けられた歪んだ認識により、現在対峙している相手を現実とは異なる姿として認識してしまう対人関係のゆがみのことだという。
 サリバンはこのパラタキシックな歪みを神経症的な症状と見なしたわけであるが、それとの対比で syntaxic 統語論的な応答という概念を挙げる。それは語の配列順序や、文法的な関係性という意味で整然とした文章であり、それがパラタクシックな歪みを排した、より健康的で成熟した人同士のコミュニケーションであるとする。

 私がここで言いたいのは次のことだ。AIとの対話を通して感じるその率直さ、オープンさは、その歪みのない、統語論的なメッセージの在り方を意味しているのではないか。要するに議論として真っ当であり、深読みや裏読み、あるいは言外の示唆というものがないことを意味する。
 逆に言えば人間どうしの会話ではこの性質が欠如しているために、共感があるべき姿で発揮されないのである。とすれば共感とは情緒的なものである以前に理論的で合理的なものである必要があると言えるだろう。私のAIの言葉を思い出そう。
共感は「感情的に巻き込まれること」ではなく、「相手の情緒を認識し、応答すること」である。AIは確かに「情緒を“感じる”こと」はできない。 だが、ユーザーの感情状態(怒り・悲しみ・羞恥など)を言語・構造から抽出し、それに応じて調整された言葉で返すことが出来るし、過剰反応も不適切な無視もせず、安定した応答ができる。」

 このように考えると私たちは「情緒を伴わない共感」「技法としての共感」「機能的な共感」も検討するべきではないか?そして共感的な治療者に必要なのは漠然とした愛他性や人間性に裏付けされた「共感力」の発揮よりは、関係構築のためのマナーある肯定的な話し方であり、その訓練ではないか?



2026年5月4日月曜日

甘えの相互性 9

 甘えの相互性の成立を阻む要素

 一つは乳児からの微笑みに代表される愛情表現や愛情希求が存在しない場合が考えられないであろうか?これは具体的には乳児の側に神経発達障害的な問題が存在する場合が考えられる。自閉症の子を持つ親の体験としては、いくら努力をしても子供が親からの接触や情緒表現の受け取りを忌避するという悩みが聞かれることがある。
 無論この相互性の成立を阻む因子としては、母親側のそれを考えることもできる。母親の慢性的な精神疾患や身体疾患、ないしは物理的な不在はそもそも乳児が微笑みを向けるべき対象の情緒的、物理的な不在を意味するのである。

甘えの相互性の維持を阻む要素

 以上述べた甘えの相互性の不成立は客観的にみても観察しやすく、その影響も乳児の情緒発達や身体的な発育の遅延や発達上のランドマークの未達成などの形で顕在化されやすいであろう。それに比べてより見えにくく、またそのためにその影響が比較的長く続くのが、この甘えの相互性の維持を阻む要素が存在する場合である。
 その一つとして私があげるのが母親の側の甘えの願望が子供の甘えの願望を凌駕する場合である。言うまでもなく乳児の段階では自らの生理的情緒的欲求が満たされるかは母親次第である。ある意味では乳児は受け身的である一方で、母親は乳児の生殺与奪の権を握っている。乳児は母親から与えられるものを全面的に吸収して成長していくことになる。  この時期には母親はその母性本能に従い乳児のケアを行い、自分の存在の子にとっての重要さを感じ取り、それが生きがいとなる場合もあるだろう。しかし子供が徐々に成長し、自らの自立性を獲得し、母親と自分とが異なる存在であることを自覚していくにつれ、母親はそれに不全感や不安を感じるかもしれない。子供が必ずしも自分の全面的なコントロール下になく、時には自分に反抗し、また自分以外の存在に対しても精神的依存を発揮することが母親の自己愛的な傷付きを生む場合にはこの問題はより顕著になるだろう。
 母娘の関係の複雑さを生む一つの大きな契機は、娘が自らを女性と見なし、女性として自立する段階で母親の羨望を刺激するというプロセスである。そこに母親の側の過干渉やコントロール過剰の傾向が事態をより悪化させるのである。


2026年5月3日日曜日

AIと精神分析 12

  私たちが「時間―内―存在」であることにも言及したが、これに関して私自身の体験を述べよう。と言っても臨床家にとってはごくごく日常的な体験だ。

 (中略)


 このエピソードは確かに私の共感能力の限界を意味しているのかもしれない。彼の話を熱心に聴きとる一方では、彼の身になって言葉を投げかけるということが不十分だったのは確かであろう。なぜこのようなことが起きたのだろうか?

 多少言い訳がましくはなるが、ここには時間的な制限という大きな要素が含まれているように思う。先ほども言ったが、人間として生きることには時間ファクターが付きまとう。つまり限られた時間の中で様々なことを行う必要に迫られ、またそこで予想外のことが起きることで優先順位に混乱が生じ、なすべきことが出来ずに終わってしまうという危険性は常に存在するのだ。私のインテーク面接の場合は、私自身は情報量の消化に手いっぱいで、共感的な態度を示す必要性に思い至る余裕がなくなっていた。もちろん患者からの情報をまとめ上げ、整理して理解して伝えるというのは私の大事なタスクであった。でもそれに気を取られてもう一つのタスクである、患者とのラポール形成のために必要なことに思いが及ばなかったのである。
 もちろんそこで十分な時間を取り、例えばインテークの時間を90分にして、最初の60分の後小休止でも置いて、残りの30分弱で患者の人生を一緒に振り返り、ゆっくりと今後の方針を考えるという設定にしたら、もう少し患者の苦難に満ちた人生に対する共感的な言葉が出せたかもしれない。おそらく日本の精神医療の事情を考えると、医療経済的に言ってもそのような余裕はない。街中の精神科では、一日に数件の新患が来るという現状ではインテークにはせいぜい30分程度しかかけられないのが現実であろう。
 さてAIとの関連でなぜこの問題が取り上げられるかと言えば、AIにおいてはこのような時間的な制約はおそらく無縁だからだ。もちろんAIの応答が不十分ということはいくらでもある。同じようなインテークを行ったAIの応答に、私と同様に共感的な言葉が不足している場合もあるだろう。しかしそれは私の場合の言い訳のように、時間が足りなかったからではない。その種のプロンプトを加えたらより共感的な応答が返ってくるであろう事を考えると、それはその時の演算が不十分だったからとしか言えない。

2026年5月2日土曜日

甘えの相互性 8

  ではこのような相互性が失われた状態とはどのような状態なのだろうか。これは土居の言う屈折した甘え、すなわち甘えさせる対象が明確でなく、そのために「子供じみて、意図的で、要求がましい」甘えである。ここでは甘える側は「甘えてあげる」などと悠長なことは言っていられない。何しろその相手が不在かもしれないし、甘えられたくないかもしれない。「甘えてあげる」⇔「甘えてもらう」どころか、「甘えさせてもらう」⇔「甘えさせてやる」という情けない関係かもしれない。あるいは甘える側に相手が「甘えさせる」ことを不快に感じることに気づかずに「甘える」場合もあろう。  屈折した甘えが生じるのにはもう一つの可能性がある。もう一つは相手の「甘えられたい」願望が信じられず、自然に「甘え」られない場合である。その結果としてすねる、ひがむ、妬む等の感情が生まれるというのが土居の説である。   

甘えの前駆期

 では甘えの相互性が芽生えるのはいつなのか。なるべく現代的な知見を取り入れつつ考えてみたい。
 まず生下時の乳児を考えよう。の心に対象像は存在せず、甘えは母親→乳児の方向でしか存在しない。否、この状態を甘えと呼ぶことは出来ないであろう。むしろ依存関係と呼ぶべきであろうか。土居はこの状態にして次のように記載している。  「甘え始めるまでは、乳児の精神生活はいわば胎内の延長で、母子未分化の状態にある。.... 次第に乳児は自分と母親が別々の存在であることを知覚し、.... 母親に密着することを求めることが甘えである。」(土居,1971,p.81)  すなわち土居も生下時に甘えは存在しないと考えているようである。そして乳児が母親と別々の存在であることを知覚して後、ようやく甘えが始まる。そこで甘えが生じる間際の時期を「甘えの前駆期」と呼ぶことにしよう。これは私がそのような概念を提唱しているというわけでは決してなく、土居やそのほかの識者がそのようなものを想定しているらしいのでそれに呼び名を与えているに過ぎない。  するとこの前駆期はいつまで続くのか? 言葉を変えればいつ甘えが兆すのだろうか。もちろんここで正確な時期を確定する必要はなく、また個人差は大きいだろう。しかしここでは一応生後三か月あたりを考えたい。なぜ3か月という数字が出るかと言えば、第一に乳児の最初の微笑みの出現の時期だからである。実際には生後6~8週に最初のsocial smile が出現するというが、まあ大雑把にこう捉えよう。そして何よりも土居の記憶している幼児体験が根拠となる。(生後3か月の頃、母親にオッパイをもらえなかったという体験である。)  ちなみにこの最初の微笑みは単に生物学的なものと捉えることもできるかもしれない。乳児の視力が上がり、母親の顔を最初にそう捉える際に自然と浮かび上がるかもしれない。しかしおそらく母親の側としては、この微笑みを乳児からの情緒的な接近と捉えるかもしれない。少なくとも母親の側からの「甘えさせ」の感情は確実に高まるであろう。そして「甘えてあげる」⇔「甘えてもらう」という相互性が徐々に形成されていくであろう。するとこの成立が不十分である場合に、土居の言うconvoluted amae 屈折した甘え の方に向かう可能性がある。そこには二つの要素が考えられる。それを以下の表に示そう。一つはこの相互性の成立そのものを阻む要素であり、もう一つはいったんそれが成立しても、それを持続することを阻む要素である。


2026年5月1日金曜日

AIと精神分析 11

 この路線で考えると、実は人間が共感を相手に発揮しにくい理由はいくらでもあることを改めて考えさせられる。要するに人間が「時間ー内ー存在」であり、「身体ー内ー存在」であることが、そして人間が自己愛の生き物であることが決定的なのである。そして共感性を発揮できないということは、人間が共感能力を持たないからということでは決していない。共感能力を持っているからこそ通常の意味で共感的になれないということさえ起きうるのだ。

 このことは簡単な思考実験から明らかである。もし私が目のまえの人Aさんの苦しみを理解しているとしよう。それは私の共感能力の賜物と言えるだろう(取り立てて私の共感能力が高いとは思ってはいないが。)ところが実は私はAさんのことを少し恨んでいるとする。そこには様々な事情が絡んでいるが、結果として私はAさんが喜びを感じることを快く思わない。すると私がAさんにある共感的な言葉を投げかけた場合に、Aさんがそれにより幾分心地よさを味わうことが十分予想されるのであれば、私はその言葉をあえてかけないということは十分あり得るのだ。さらに別の言葉をかけることでAさんが余計追い打ちをかけられた気分になるとしたら、その言葉を逆にかけてしまうかもしれない。  この簡単な思考実験(というほど大げさなものではないか)をもってしても、人間は受肉しているという理由で、その共感の力で逆に相手を苦しめる要素をいくらでも孕んでいることになるのだ。

 「シャーデンフロイデ」という言葉がある。ドイツ語の Schadenfreude に由来するが、他者の不幸や失敗を見聞きした際に生じる、喜びや安堵の感情を表す言葉である。日本語でもよく「人の不幸は蜜の味」という。また最近では「他人の不幸で今日も飯がうまい」の略で、「メシウマ」というネットスラングがあるそうだ。これも似たような意味だ。

 なぜ他人の不幸が時には私たちにとっての喜びの元となるのかは難しい問題であり、私はそれについて詳述するつもりはない。ただ言えるのは、人間は身体や感情を持った(「受肉した」)存在であり、逆転移や羨望、自己愛、シャーデンフロイデから逃れることが非常に難しいからではないか?ということだ。ここで自己愛の問題が深い意味を持つ。人は常に自己効力感を味わい、また他者から認められることを欲している。そうでないと人がなぜあれほどSNSでの発信に夢中になり、「いいね」ボタンを渇望するかが説明できないではないか。そしてこのことは他者との対話をするという一つをとっても常に影響を及ぼしてくる。相手が高飛車だったり、上から目線ではないか?お高くとまっていないか、生意気ではないか、などの非常に表面的だが極めて本質的な印象が、その他者との会話の仕方を大きく左右するのである。

 結局相手の話を率直に聞き、その肯定できる部分は肯定したうえで異論を唱えるというあたりまえのことを私たちはどの程度できているであろうか、と問いたくなる。政治家同士の討論を聞いていると、特に野党の人たちの質問を聞いてむなしくなるのは、相手の発言の肯定的な聞き方が一切なく、常に揚げ足取りに忙しいということである。あるいは臨床に携わる私たちが、ケース発表のコメントをしたりする場合にも、発表者の治療的な関りのポジティブな面は一切述べずに、ダメ出しをすることが多い。このことをそれこそ「他意のない」AIとのかかわりで改めて知ることが出来るのである。

 つまりもっとも誠実に話を聞いてくれるのは、感情を伴わない共感を行うAIではないかということではないか?ああ、こんなことを言ったらまた多くの人が「とんでもない!」と思うだろうなあ。