2019年2月14日木曜日

解離の心理療法 推敲 11

4-1.トラウマと交代人格の出現
通常の出来事なら、私たちはその事実関係の部分(エピソード記憶)と、その時の感覚や感情の部分(情緒的な記憶)を一つながりで記憶します。例えばどこかに出かけた記憶は、そこで起きた出来事のうち言葉で説明できる部分(いつ、どこに誰と行ったか、など)と、言葉では十分言い表せない部分(何を見てどう感動したか、など)は繋がって思い出される仕組みになっています。ところがインパクトの強い体験では、この記憶のつながりが切れてしまい、いわば断片化した状態となります。これがトラウマ記憶の特徴です。なぜトラウマの際にはそのような特殊な記憶が出来上がってしまうかについて簡単に説明しましょう。出来事の事実関係の部分は、脳の海馬というところで処理されるのに対して、感情、感覚の部分は主として扁桃核というところで処理されるのです。そして通常は海馬と扁桃核は協力し合いながら、記憶の別々の部分を分担して処理するわけです。ところがあまりに出来事のインパクトが強く、恐怖、不快、不安などが強いと、この海馬と扁桃核の共同作業が妨害されてしまうわけです。
トラウマ記憶は通常の記憶とはかなり異なる振る舞いをすることが知られています。例えばある出来事についての記憶が思い出されても、事実関係は思い出せても何の感情も生じない状態になる人がいます。記憶のうちエピソード記憶と感情の記憶の部分が切り離されてしまっているからです。そもそも記憶はエピソード部分と感情的部分がつながっていることで、脳の中に仕分けされ、常にひとつながりの記憶として出てくるものです。エピソード記憶の部分が海馬にきちんと整理されているからだという説もあります。だから感情的な記憶の部分はエピソード記憶というタグを付けられていて、感情的な記憶の部分だけが独り歩きをすることはありません。ところがトラウマ記憶では感情の記憶の断片が突然その人の心を脅かします。これがいわゆるフラッシュバックという現象で、その人は強い恐怖とパニックに襲われてしまいます。




さて、以上のトラウマ記憶の成立は特に解離性障害を持たなくても起きることが知られています。トラウマ記憶のあるものは、そのエピソード部分も感情的部分もその他の過去の記憶とは切り離され、いわば心のどこかに箱に入った形でしまわれています。そしてそれ全体の存在が過去の記憶の中で見えない部分になっています。このような心の働きが解離と呼ばれるわけです。そして解離を起こしやすい傾向が非常に強い子供が深刻なトラウマを体験すると、以上で述べたトラウマ記憶の成立が、より深刻で大掛かりな形で起きます。それがトラウマ体験を持った人格そのものの解離、という現象です。
解離傾向の強い子供が繰り返しトラウマ体験をこうむった場合は、その記憶は日常の意識から解離され、生々しいトラウマの情景とそれに伴う情緒体験を記憶する別の人格が誕生します。トラウマ人格はその体験に関する記憶を、事実関係に関する部分と感情的な部分とが分かれていない記憶として持っています。つまりそのトラウマ記憶をそのものとして受け取れる人格を心が作り上げてしまうわけですが、今度は主人格にとっては、その記憶は事実関係も含めてすっぽり自分の生活史の中から抜け落ちてしまうことになります。
これらの「トラウマ人格」は普段は内部に潜んでおり表に出ることはありませんが、何かのきっかけでトラウマ記憶が想起されると覚醒します。かつてのトラウマ的事態と似たような状況、すなわちトラウマが再現される事態が勃発した場合も同様です。よって面接中にトラウマ記憶が想起されたり、トラウマ状況と同じような体験の感覚を抱いたりすると、その場で人格交代が起こります。
人格交代に際しては、意識消失などそれとわかる変化が観察されることもありますが、時には治療者が全く気づかないうちに人格が入れ替わります。人によっては頭痛の訴えや瞬き、手足の動きなど、特定の体の部位に決まった動きがみられます。その態度や表情、言葉遣いの変化から交代人格の出現に気づいた時は、積極的に関わる姿勢をみせるのがよいでしょう。人格との出会いをどう迎え、交代人格たちとどのように交流を深めていくかが、その後の人格全体との信頼関係および治療の進展に大きく影響するといえます。

2019年2月13日水曜日

解離の心理療法 推敲 10



別人格からのトラウマ情報

トラウマに関する情報は、初診の段階で別人格の協力を得ることで、侵入的になることなく、その存在の手がかりを得ることもあります。私たちがしばしば体験するのは、ある人格は、トラウマを受けた記憶を有していたり、そこにアクセスすることが可能であったりするということです。その場合はトラウマについて直接尋ねることは異なった、侵襲性の低いアプローチが可能となります。以下のようなやり取りをご覧ください。

(中略)


 同伴者からのトラウマ情報

患者さん本人からトラウマの情報を得る際には、以上に述べた諸点に注意を払う必要がありますが、家族や同伴者からのトラウマに関する情報も時には非常に有用になります。初診の段階では出来るだけ患者さん本人とは別に、家族や同伴者と話す機会を設け、患者さんの過去の社会生活歴やトラウマの存在について率直に情報を得る必要があります。その時に聞けない話は、あとでご家族から手紙のような形で送ってもらうという手段もあり得るでしょう。

被害を受けていたナナさん(10代、学生)

(中略)

この様に治療者はトラウマ体験と患者さんの心理的な問題がどのように関連し、どのような経過を経てきたのか、本人と話し合いながら病歴を整理します。解離症状のある人は時間の感覚に障害をもつことが多く、個々のエピソードを時系列に整理できないことが多いものです。また事実を事実としては記憶していても、そこに情緒的な実感が伴っていないこともあります。治療者は把握している事実の隙間に浮かび上がる空白の期間に注目し、そこで起きていたかもしれない外傷的事態をある程度推測しながら、患者さんの心理状況の軌跡を辿る必要があります。
ちなみにナナさんの場合は被害により新たな人格が形成されるには至っていませんでしたが、トラウマ記憶は他の記憶とは別に処理され、普段は思い出されないような形で保存されていたのであり、それは本来の意味で「忘れられ」ていた、というのではなく「解離されていた」という風に考えます。深刻なトラウマについての記憶のある部分はこの様な形で脳に定着しています。これを「トラウマ記憶」と呼ぶこともあります。この種の特殊な記憶が形成される事情について行かにもう少し詳しく見てみましょう。

2019年2月12日火曜日

解離の心理療法 推敲 9


2-5.アスペルガー傾向とトラウマ体験

解離性障害を持つ人によっては、生活史を遡っても幼少時にそれらしいトラウマが見当たらない患者さんもいます。そしてそこには当人が持っている独特の世界観やものの感じ方が関係し、それにより通常の対人関係もトラウマとして体験されている場合があります。
例えばアスペルガー症候群をもつ患者さんでは、通常の対人関係でも過度な傷つきを体験し、些細な出来事がトラウマとなってしまう場合があります。一般の人と異なる言動がいじめの対象となり、長期にわたって集団の中で疎外感や孤独感を味わい続けることが慢性的なトラウマ体験となり、そのまま空想世界に引きこもる人もいます。幼少時からその傾向が見られる場合にはその世界でイマジナリー・コンパニオンが誕生し、それが別人格となっていく可能性があります。そのようなケースでは、家族が当人の陥っている問題に気づき、適切な環境調整を行うことで症状が軽減される場合もあるようです。
アスペルガー障害の人々の人生では、上に述べた疎外感や孤独感以外にも、彼ら自身の独特の世界のとらえ方そのものが傷つきの原因となることがあります。彼らの中には疑り深く、他人からの親切心や好意を敏感に感じ取れない傾向の強い人がいます。そして彼らにとっては他人の意地悪な点、自己中心的な点がクローズアップされて移ってしまうことが少なくありません。するとこの猜疑心のために、他者からの親切心が示されても、「この裏には何かがあるに違いない」という警戒心を生む結果になり、ますます良好な対人関係を結びにくくなってしまう可能性があります。
ここではアスペルガー症候群の人々が持ち得る傾向について述べましたが、アスペルガー傾向は様々な障害と共存する可能性があり、それは解離性障害についてもいえます。これまで示してきた解離性障害の患者さんたちの多くは、他人の気持ちを感じ取りやすく、他人に合わせる傾向がある人たちとして描かれてきました。しかし同時に持つアスペルガー傾向の強さに応じて、対人関係におけるストレスもそれだけトラウマとしての意味を持つことが多くなる可能性があると考えられるのです。


3. トラウマの取り上げ方

これまでに述べた事情からも、患者さんとのアセスメントや治療が開始された時点では、トラウマの存在や内容は必ずしも明らかになっていません。生育歴の記憶を辿ってもすぐには想起されず、むしろその時期の記憶には空白が見つかることがあります。ただし「どうしても思い出せない」という期間には、トラウマに関連する事象が起きていた可能性があります。そしてそのトラウマの記憶が解離されていたり、それが明らかにされる機が熟していななかったりする可能性があります。この段階で無理な想起を促す必要はなく、治療に安心して来られるよう手助けするほうが優先されます。
トラウマの想起に抵抗を示す人に対しては、むしろその抵抗感を取り上げて話し合うことも有効かもしれません。苦しい記憶に目を向けるのはどんな人にも辛いものですが、治療で起きる抵抗感には過去に体験してきた対人関係の傷つきが影響しています。自分の語る内容を拒否され否定されるのではないかという不安、他者に理解されないという不信感があります。その訴えを否定せずに耳を傾け、治療でも同じことが起きるのを恐れている場合はその気持ちを共有します。このやりとりが患者さんの警戒感を緩和し、トラウマ記憶の想起を後押しするのです。
抵抗や不安にもかかわらず無理な開示を強要すれば、その侵入的な態度はかつてのトラウマの加害者との関係を想起させ、患者さんの心を追い詰めます。それは過去の対人関係の反復となり、トラウマの再演となる危険があります。治療の初期ではその人のペースを尊重するのが何より大切です。

2019年2月11日月曜日

複雑系 6,  不可知なるもの 14


このように心因性の疾患という概念は、基本的には「ヘーキヘーキ」なんだけれど少し休養が必要というレベル、つまり正常の反応を少ししか超えていない状態を考えていることになる。そのようなわかり方、理解の仕方が出来る状態だ、ということだ。そしてその「わかり方」にはひとつの方向性がある。それは内側から、心の理解から、ということになるだろう。そしてそう考えるともうひとつ別の方向からの「わかり方」が存在することになる。それは外側から本人の身に起きた、何らかの実際に目で見え、あるいは調べて確かめようのある原因があったことを想定する場合だ。つまりいわゆる「外因性」の疾患である。たとえばアルコール中毒の人の離脱だと、血中のアルコール濃度の急激な低下を示す値がその原因として示されるであろう。あるいは鼻づまりの薬を飲んでシュードエフェドリンの影響で不安になったのかもしれない。場合によってはコカイン吸入に対する反応かもしれない。さらには細菌が脳に感染して脳炎を起こし始めた初期症状かもしれない。(最近も顕微鏡で見れる。ウイルス性の脳炎でも電子顕微鏡で見えるだろう。)これはこれでとてもよく「わかる」のだ。たとえ脳の中で何が起きているかを詳しく知らなくても、「あー、そういうことね」となる。「そんな薬を飲むとそういう症状になるということをネットに書いてあった。アレね。」こちらのほうは「心因」らしきものはなくても、その原因をこうむったあとに、その結果として不安が起きてくるという時系列的な流れが知られているために、そう判断できるわけだ。このときはその人の示す症状の異常さを、その原因にさらされた結果として説明できるということで、人々は納得するのだ。
さていよいよ内因だ。「心因」らしきものもない。また「外因」らしきものもない。しかしその人が精神的な症状を示している。そこでシュナイダーさんたちは考えた。心因性ではなく、医学が進歩すればやがては外因として分類できるような状態が「内因性」の病気だ。これはあの文光堂のシュナイダーのテキストに書いてあった。36年前に実際に調べたことがある。あとでもう一度確かめよう。
こう考えると本当の対立概念は心因性か、(将来の)外因性かということになるが、この分類がどうして「古臭い」のか、という話である。精神的な病気はそんなに簡単にはいかないよ、ということだが、この議論が一気に進んだのは、私の理解ではPTSDの臨床研究を通してである。つまり1980年以降だ。なぜならトラウマにより引き起こされた症状を考えた場合、これほど純粋な「心因性」の精神疾患はないと考えるべきだからだ。事実PTSDの発症する人はごく普通の正常な、しかし不幸にして戦闘体験に見舞われた人々だ、という理解が精神科医の間でも一般的だったからだ。PTSDとは「正常な人が人生における異常事態に直面して症状(フラッシュバック、悪夢など)を示す状態」のはずだったのである。ところがPTSDの研究が進むうちに、トラウマをこうむってPTSDを発症しやすい人たちが同定された。そして彼らは多くの脆弱性を持っていたのである。健全な人はむしろPTSDになりにくかったのだ。
わかりやすい例を挙げよう。アルコール依存の既往がある人とない人を比べる。同様な戦闘体験を持ったことで、前者の人々がPTSDを発症する率が高いだろう。とするとアルコールによる脳のある種の変化(もちろんネガティブな変化である)がPTSDの症状を生みやすいということになる。ということはある種の脳の脆弱さの上にPTSDの症状がおきやすいことになり、PTSDは単なる心因性のものとしては捉えられなくなる。普通の人にとって了解可能という反応とは必ずしも言えず、アルコールによる脳の変化をすでに持っている人が起こしやすい、ある意味では了解が難しい状態になってしまうからだ。かくしてPTSDは「正常な人が人生における異常事態に直面して症状を示す状態」ではなくむしろ「脆弱な人が人生における異常事態に直面して症状を示している状態」となる。
また別の研究が進むにつれ、PTSDを発症した人が体験したトラウマについて調べてみると、普通の人なら強いショックを受けないことの多いストレスが関与していることもわかってきた。たとえばペットの●●が死んだだけで深刻なショックを受けることは普通ないだろうが、人によってはそれが深刻なトラウマになることもあるのだ。(ここで●●に特定の生物を入れてしまうと、たちまち●●の愛好家の方々からお叱りを受けてしまう危険性がある。通常はいかなる生き物でも飼い主にとっては家族同様になっている場合が多い。)要するにPTSDの研究が示したことは、心因と内因と外因のどこにも、明確な区分などない、ということである。トラウマ関連障害の分類がどのようになっているのかは、現代の精神医学がこの問題をどのようにクリアーしているかを知る手がかりになるのだ。



不可知なるもの 14


 無常についてのフロイトの記載(1916)を読むと面白いことが書いてある。それは喪の仕事mourning work が完全になされた人は、失うこともまた楽しい、と言っているのだ。そこには彼のリビドー論が顔を出す。誰かを失うことに完全なもの仕事が出来たら、そのリビドーはまた回収して使うことができるではないか、と書いてある。そう、フロイトにとってリビドーはある種の投資を行うべきものだ。彼がよく使うリビドーの「備給 Investment(ドイツ語の言語で Bezetsung) という表現も「投資」という意味があるし。
昨日ある会合で出会った北山修先生に実際にインタビューをして確かめたところ、先生はこのテーマについて、そのようなフロイトの態度とは異なる感じ方をなさっている。フロイトによると、友人である詩人は美が失われることを嘆く。それに比べてフロイトはあまりにもあっけらかんとしている。「いいじゃん、またそのリビドーを回収して別のものに使えれば。」このフロイトの態度は私も「どうなの?」と思うが、何しろフロイトはバイブルである。彼の理論は常に良きものとして解釈され、「転用」されなくてはならない。フロイトがこのメタファーで本当は別のことを言っていたのではないか、というわけだ。何度も出した浅田真央ちゃんの例(ほんとは2回ぐらいだろうが)。彼女を一生懸命育ててくれた母親が亡くなった時、真央ちゃんは「お母さんはあれから私が何処に行っても、いつもそばにいてくれるようになった」と言った。「千の風」というわけである。フロイトはこれを言っていたのかもしれない。有限の命を持った母親は、なくなって永遠となったのである。偏在から遍在に移ったのである。フロイトは人がなくなった後に起こるこの不思議な内在化のプロセスを、彼独特の小難しいリビドー論で言い表していたのではないか。かつて小林秀雄が言った「生きているものは面倒くさく、ややこしい。死ねばあれほど安らかになるのに」(確か「考えるヒント」、うろ覚え。) 実在するものはややこしく、めんどくさく、こちらを拘束してくる。それにはこちら側のエネルギーの投入も必要になってくるのだ。これはフロイトの理論のあまりに表層的な解釈の仕方であろうか。
自分の命はどうか。私は私の生に強く拘束されている。私という人間の欲望とか我欲にも振り回されっぱなしだ。ちょっと寒いとすぐ「少しエアコンの温度を上げてくれ!」と要求してくる。数時間たつと「何か食わせろ!」となるわけだ。もし喫煙者だったらもっと大変だろう。常にタバコとライターの携帯を要求してくる。おそらく23日ごとに数百円もする煙草を購入を要求してくる。それに普段は気が付かないだろうが、常に一定の酸素濃度の空気を吸わせろと言っている。死とはそれから解放されることを意味する。ただし「あー、楽ちんになった」と感じる自分もいなくなってしまう、というただそれだけなのである。(最近書いたことだが、私は去年の暮れに行った「歯殺し」により、あれほど困らされた原因不明の顎の痛みから完全に解放されている。冷たいものも食べ放題である。フロイトも晩年の何年にもわたる上顎癌の数知れぬ再発と外科手術による痛みから早く解放されたかったことであろう)
でも北山氏は移ろいやすさ、儚さはもの悲しさと解放感の双方を含んだものであり、そこにある種の美が存在すると考える。美とは、快感とは違った情緒であり、味わうものであり、価値あるものであるという理解に私も賛成である。




2019年2月10日日曜日

解離の心理療法 推敲 8


「泣き虫」だったフミカさん(30代女性、事務職)


(中略)

このフミカさんの例から分かることは、子供の自我境界の脆弱さは、ある程度は本人が持って生まれた自我の弱さが関係しているものの、それを支える生育環境も非常に大きな位置を占めているということです。上で述べたとおり、乳児は自分の感情や考えを母親とのやり取りを通して獲得していきます。英国の分析家ウィニコットが述べていますが、その際は子供が最初に感じ取り、思い、自由に母親に表現された際に、母親バージョンの感情や思考を押し付けられる(「侵害を受ける」)ことなく共有されることで、いわば乳児が自分を母親の中に見ることで成長していきます。その後に子供は母親が自分とは異なる感情や思考を持つ自分とは異なる人間であることを学び、自他を区別し、自我境界を確立していくわけですが、その前段階として重要な、自分の感情や思考を養育者に認められ、照り返してもらうプロセスが不十分であれば、この段階に進めないのです。

2019年2月9日土曜日

解離の心理療法 推敲 7


ハルキさん(20代男性、大学生)

(省略)

この例にみられるように、親の希望を叶えることで親の愛情や関心を繋ぎ止めることを余儀なくされる子供は、同時にきわめて孤独な存在とも言えます。自分の本当の気持ちを伝える相手のいない生活は、心の中に別の存在が創り出されるきっかけともなるのです。子供が孤独を癒すときに、ペットや縫いぐるみと会話をすることはよくあります。しかしその多くは一種のごっこ遊びの域を出ません。ところがそこに子供の解離傾向の強さが加わると、それらの話し相手は自律性を持った人格となっていくのです。

2-4.子どもの自我境界の曖昧さ

解離性障害の発症の背景として、患者さんがもつ自我境界の脆弱さがあります。自我境界とは分かりやすく言えば、自分の感情や考えと、他人のそれを区別する力や機能を意味します。自我境界は、それが普通の養育を受けて健全に育つ場合には、自分でそれを意識することなく、自然に備わるのですが、その養育の中でもきわめて大切なのが、親と子供の間の感情のやり取り、交流であり、愛着関係です。
子どもの情緒発達においては、乳幼時期からの未分化な感情の表出をその都度親が受け止め、それにふさわしい態度と言葉により応答することによる交流が欠かせません。親の反応が子どもの体験に寄り添ったものであれば、子どもは自らの情緒の意味を理解し、それらを表現する喜びと安心を得ます。例えば喜びの感情は親の喜びの表情を生み、それを送り返してもらうことでそれと自覚されます。また子供の怒りの感情は親による懲罰や過度の不安を誘発することなく受け止められることで、それとして認識され、同時に親の感情と自分の感情との違いへの気づきを促すでしょう。こうして子どもは徐々に自分と親との違いを認識していきます。これが通常の自我境界の形成のプロセスと言えます。
ところが解離を持つ患者さんの親子関係には、具体的なトラウマが生じる以前に、情緒交流の障害が潜在していることが多いものです。患者さんが表現する情緒と親から返ってくる情緒に行き違いが生じたり、ある情緒の表出についてはことさら無視されたり、親の怒りを誘発したりするでしょう。その過程で患者さんは親から一方的に感情を押し付けられる一方では、自分自身の感情を持つことを禁止される可能性があります。そしてその後も目の前の相手が強い情動を向けてきた時に圧倒され、自身の感情を見失いやすくなります。こうして自他の感情の差異を認識できなくなり、相手の感情を自分自身のそれと思い込むようになるのです。これが自我境界の形成不全や破綻です。
このような自我境界の不全や脆弱さゆえに、患者さんはそもそもトラウマ的事態による心理破綻を起こしやすい状態にあったと考えられます。親子の情緒的交流に起因する心理的基盤の脆弱さの上にトラウマを引き起こすような事態が重なることで、解離症状が発生するのではないかと推測されます。

2019年2月8日金曜日

解離の心理療法 推敲 6


ミナミさん(10代女性、中学生)

(中略)

2-3.親を癒すために生まれる人格
一般的に、子供は親の気持ちにとても敏感です。2-2に示したほどに親の感情がそれほど不安定ではなくても、子供は親が自分に関して望んでいることを時には過剰に読み取り、それに合わせる事で親を安心させたり、慰めたりすることがあります。そして親の期待に沿う行動を取るうちに、自らもそれを望んで行っているという感覚をある程度は持ち始めることがあります。例えば子供が引っ込み思案であることを親が心配していることを察した場合、子どもは、その期待に応えようと努力し、自分は本当は社交的で人と関わるのが好きだと思い込もうとし、そのようにふるまおうと努力をするでしょう。
このような傾向は、解離傾向を持たない子供にもある程度は見られます。子供は親の気分や感情に合わせて、いわば表と裏の顔を作り始めることになります。そして表の顔では、本当に親の望むことを自分でも望んでいると思おうとします。しかし通常はそれがうまくいかずに表と裏の使い分けが出来なくなってしまうでしょう。たとえばもともと引っ込み思案な子は社交的な振る舞いをすることを非常にストレスに感じ、結局やめてしまうかもしれません。
精神分析家のドナルド・ウィニコットは「偽りの自己」という言葉で、この表の顔を表現しました。親の前では「偽りの自己」を保っているとき、「本当の自己」は押し隠されていますが、そこにはある種の心のエネルギーが必要になります。「偽りの自己」を保つ必要のある子はそれだけストレスを体験し、精神的に疲弊することになります。
さて解離を用いる子供の場合は、これとは少し違ったことがおきます。彼女は実際に社交的な自分を作り出すのです。ここで「作り出す」、という表現は正しくないかもしれません。彼女に別の自分を創ろう、という意識はないのが普通だからです。先ほどのAちゃんの例に見られるような、Bちゃんの登場です。交代人格のBちゃんはもともと社交的に振舞うことを得意とするでしょうし、別に無理をしているわけではありません。その点が「偽りの自己」と異なるところです。このような人格はAちゃんとはあまりに異なったふるまいをするために、専門家はこれが脳の別の部分に一つのシステムとして出来上がっているのではないかと考えていますが、ここでは詳しい話は省略しましょう。とにかくこれまでのAちゃんとは異なる、新たな人格が出来上がるわけです。私達の脳は実に不思議な力を持っているのですね。
しかしこのようなBちゃんの登場は不都合な事情を招くことも少なくありません。AちゃんはBちゃんが登場している間、心の中に閉じこもっています。時にはBちゃんの振る舞いをモニター越しに見ているような体験をし、また時にはその間眠っていてまったく覚えていないということもあります。親の前ではBちゃんが主として振舞うとしても、Aちゃんはその心や脳の「主」であり、それを使い慣れています。時々どちらが出てきたらいいかわからなくなってしまうこともあります。またAちゃんが母親の表情ひとつからその欲していることを読み取るとすれば、おそらくそのほかの人の表情も敏感に読み取り、それに合わせて新たな人格が生まれる可能性もあります。Aちゃんにとってとても重要で、頼れるべき存在であればあるほど、その人に合わせて、その人用の人格が出来上がってしまう可能性も少なくありません。
このように考えると解離性障害を持つ患者さんが通常非常に多くの別人格の存在を報告するという事情も理解できます。多くの人との共存のために内側の世界は分割され、それぞれの自己の領域が互いに干渉し合うことなく、必要な時に相手とコンタクトが取れるような状態に形作られていくと考えられます。DIDの患者さんがその内界について、複数階立ての家屋として図示したり、「アリの巣のよう」などと表現したりするのも、内部における人格たちの共生状態を視覚的・直感的に表したものとみることができます。
患者さんの内部にいる人格たちは、おそらくその多くが一時的に現れては消えていくのでしょう。ある友達に合わせるために人格が出来ても、その友達と会わなくなってしまえば、それは消えていくでしょう。それは私たちが日常の出来事の多くを忘れてしまうのと同じです。しかしいくつかの人格は、相手と会うごとに何度も登場し、そのたびに経験値を増やし、記憶を蓄積し、ひとり人格として成長していくでしょう。するとDIDの様相を示すようになります。それぞれの人格は同じような場面で他の人格とは正反対の行動を取ることもあるので、周囲の人々も、また当人も非常に混乱します。この段階で彼らの障害は自他ともに認識されるようになり、自ら治療を求めることもあれば、周囲の手で治療の場に連れてこられることも多くなります。患者さんの適応の破綻は、内部の共生状態が破綻しかけているという警告ともいえるでしょう。