このように心因性の疾患という概念は、基本的には「ヘーキヘーキ」なんだけれど少し休養が必要というレベル、つまり正常の反応を少ししか超えていない状態を考えていることになる。そのようなわかり方、理解の仕方が出来る状態だ、ということだ。そしてその「わかり方」にはひとつの方向性がある。それは内側から、心の理解から、ということになるだろう。そしてそう考えるともうひとつ別の方向からの「わかり方」が存在することになる。それは外側から本人の身に起きた、何らかの実際に目で見え、あるいは調べて確かめようのある原因があったことを想定する場合だ。つまりいわゆる「外因性」の疾患である。たとえばアルコール中毒の人の離脱だと、血中のアルコール濃度の急激な低下を示す値がその原因として示されるであろう。あるいは鼻づまりの薬を飲んでシュードエフェドリンの影響で不安になったのかもしれない。場合によってはコカイン吸入に対する反応かもしれない。さらには細菌が脳に感染して脳炎を起こし始めた初期症状かもしれない。(最近も顕微鏡で見れる。ウイルス性の脳炎でも電子顕微鏡で見えるだろう。)これはこれでとてもよく「わかる」のだ。たとえ脳の中で何が起きているかを詳しく知らなくても、「あー、そういうことね」となる。「そんな薬を飲むとそういう症状になるということをネットに書いてあった。アレね。」こちらのほうは「心因」らしきものはなくても、その原因をこうむったあとに、その結果として不安が起きてくるという時系列的な流れが知られているために、そう判断できるわけだ。このときはその人の示す症状の異常さを、その原因にさらされた結果として説明できるということで、人々は納得するのだ。
さていよいよ内因だ。「心因」らしきものもない。また「外因」らしきものもない。しかしその人が精神的な症状を示している。そこでシュナイダーさんたちは考えた。心因性ではなく、医学が進歩すればやがては外因として分類できるような状態が「内因性」の病気だ。これはあの文光堂のシュナイダーのテキストに書いてあった。36年前に実際に調べたことがある。あとでもう一度確かめよう。
こう考えると本当の対立概念は心因性か、(将来の)外因性かということになるが、この分類がどうして「古臭い」のか、という話である。精神的な病気はそんなに簡単にはいかないよ、ということだが、この議論が一気に進んだのは、私の理解ではPTSDの臨床研究を通してである。つまり1980年以降だ。なぜならトラウマにより引き起こされた症状を考えた場合、これほど純粋な「心因性」の精神疾患はないと考えるべきだからだ。事実PTSDの発症する人はごく普通の正常な、しかし不幸にして戦闘体験に見舞われた人々だ、という理解が精神科医の間でも一般的だったからだ。PTSDとは「正常な人が人生における異常事態に直面して症状(フラッシュバック、悪夢など)を示す状態」のはずだったのである。ところがPTSDの研究が進むうちに、トラウマをこうむってPTSDを発症しやすい人たちが同定された。そして彼らは多くの脆弱性を持っていたのである。健全な人はむしろPTSDになりにくかったのだ。
わかりやすい例を挙げよう。アルコール依存の既往がある人とない人を比べる。同様な戦闘体験を持ったことで、前者の人々がPTSDを発症する率が高いだろう。とするとアルコールによる脳のある種の変化(もちろんネガティブな変化である)がPTSDの症状を生みやすいということになる。ということはある種の脳の脆弱さの上にPTSDの症状がおきやすいことになり、PTSDは単なる心因性のものとしては捉えられなくなる。普通の人にとって了解可能という反応とは必ずしも言えず、アルコールによる脳の変化をすでに持っている人が起こしやすい、ある意味では了解が難しい状態になってしまうからだ。かくしてPTSDは「正常な人が人生における異常事態に直面して症状を示す状態」ではなくむしろ「脆弱な人が人生における異常事態に直面して症状を示している状態」となる。
また別の研究が進むにつれ、PTSDを発症した人が体験したトラウマについて調べてみると、普通の人なら強いショックを受けないことの多いストレスが関与していることもわかってきた。たとえばペットの●●が死んだだけで深刻なショックを受けることは普通ないだろうが、人によってはそれが深刻なトラウマになることもあるのだ。(ここで●●に特定の生物を入れてしまうと、たちまち●●の愛好家の方々からお叱りを受けてしまう危険性がある。通常はいかなる生き物でも飼い主にとっては家族同様になっている場合が多い。)要するにPTSDの研究が示したことは、心因と内因と外因のどこにも、明確な区分などない、ということである。トラウマ関連障害の分類がどのようになっているのかは、現代の精神医学がこの問題をどのようにクリアーしているかを知る手がかりになるのだ。
不可知なるもの 14
不可知なるもの 14
無常についてのフロイトの記載(1916年)を読むと面白いことが書いてある。それは喪の仕事mourning work が完全になされた人は、失うこともまた楽しい、と言っているのだ。そこには彼のリビドー論が顔を出す。誰かを失うことに完全なもの仕事が出来たら、そのリビドーはまた回収して使うことができるではないか、と書いてある。そう、フロイトにとってリビドーはある種の投資を行うべきものだ。彼がよく使うリビドーの「備給 Investment」(ドイツ語の言語で Bezetsung)
という表現も「投資」という意味があるし。
昨日ある会合で出会った北山修先生に実際にインタビューをして確かめたところ、先生はこのテーマについて、そのようなフロイトの態度とは異なる感じ方をなさっている。フロイトによると、友人である詩人は美が失われることを嘆く。それに比べてフロイトはあまりにもあっけらかんとしている。「いいじゃん、またそのリビドーを回収して別のものに使えれば。」このフロイトの態度は私も「どうなの?」と思うが、何しろフロイトはバイブルである。彼の理論は常に良きものとして解釈され、「転用」されなくてはならない。フロイトがこのメタファーで本当は別のことを言っていたのではないか、というわけだ。何度も出した浅田真央ちゃんの例(ほんとは2回ぐらいだろうが)。彼女を一生懸命育ててくれた母親が亡くなった時、真央ちゃんは「お母さんはあれから私が何処に行っても、いつもそばにいてくれるようになった」と言った。「千の風」というわけである。フロイトはこれを言っていたのかもしれない。有限の命を持った母親は、なくなって永遠となったのである。偏在から遍在に移ったのである。フロイトは人がなくなった後に起こるこの不思議な内在化のプロセスを、彼独特の小難しいリビドー論で言い表していたのではないか。かつて小林秀雄が言った「生きているものは面倒くさく、ややこしい。死ねばあれほど安らかになるのに」(確か「考えるヒント」、うろ覚え。) 実在するものはややこしく、めんどくさく、こちらを拘束してくる。それにはこちら側のエネルギーの投入も必要になってくるのだ。これはフロイトの理論のあまりに表層的な解釈の仕方であろうか。
自分の命はどうか。私は私の生に強く拘束されている。私という人間の欲望とか我欲にも振り回されっぱなしだ。ちょっと寒いとすぐ「少しエアコンの温度を上げてくれ!」と要求してくる。数時間たつと「何か食わせろ!」となるわけだ。もし喫煙者だったらもっと大変だろう。常にタバコとライターの携帯を要求してくる。おそらく2,3日ごとに数百円もする煙草を購入を要求してくる。それに普段は気が付かないだろうが、常に一定の酸素濃度の空気を吸わせろと言っている。死とはそれから解放されることを意味する。ただし「あー、楽ちんになった」と感じる自分もいなくなってしまう、というただそれだけなのである。(最近書いたことだが、私は去年の暮れに行った「歯殺し」により、あれほど困らされた原因不明の顎の痛みから完全に解放されている。冷たいものも食べ放題である。フロイトも晩年の何年にもわたる上顎癌の数知れぬ再発と外科手術による痛みから早く解放されたかったことであろう)。
でも北山氏は移ろいやすさ、儚さはもの悲しさと解放感の双方を含んだものであり、そこにある種の美が存在すると考える。美とは、快感とは違った情緒であり、味わうものであり、価値あるものであるという理解に私も賛成である。